2014年11月28日金曜日

(「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代(9)新人システム


●新人顕彰システム
藤田湘子、能村登四郎、秋野弘らを囲んでいた、戦後の馬酔木の新人戦略を眺めておきたい。新人が登場するときというのは、自然に発生するのではなく、結社の主宰、編集長があげて多大な努力を果たして初めてそうなるのだ。

    *     *

既に述べたように、23年は新樹集の巻頭で多くの新人たちを大抜擢した秋桜子であった(23年度馬酔木賞は能村登四郎、藤田湘子が受賞した)が、24年は秋桜子が編集を自ら本格担当したこともあり(誓子の離脱した22年10月から木津柳芽を手伝い始めたとある)、雑誌全体としての活性化が図られ、多くの新企画が行われた。長らく雑誌の編集を行ってきた私から見ると、この時代の馬酔木――32頁から48頁のみすぼらしい冊子の中で、様々な工夫や新人への機会付与が行われたことがよく分かり涙ぐましいものがある。現代の俳句雑誌に何が欠けているかがこれを見るだけでもよく分かる。


①コラム「前進のために」(3頁)

新人(途中から幹部同人も参加)による相互批評欄である。「きびしい良心をもつて偽らざる批評をなし、且つ静かに他の批評に耳を傾けて反省することは、互ひの芸術を高めるために、最もよきほうほうである。浮薄なる仲間褒めほど、世に有害無益なるは無い。又、現俳壇に於て我々はそれを見飽きてゐる。(秋桜子)」という厳しい態度で開始されている。ほぼ毎月掲載されており、その執筆者は次の通りである。24年1月の能村登四郎のそれが、既に述べた波郷の「ぬばたま」批判の発端となる文章であり、確かに秋桜子の所期の目的にかなうものであったろう。

24年1月 能村登四郎※、藤田湘子※、秋野弘
24年2月 大島民郎、水谷晴光※、相馬黄枝
24年3月 林翔※、五十嵐三更、増田和夫 
24年4月 小林広子、佐伯大波、黒木野雨
24年6月 殿村菟絲子、大谷秋葉子、大網弩弓
24年9月 中村金鈴、野川秋汀、岡野由次
24年10月 岩崎富美子、持田施花、野田翠楊
24年12月 木津柳芽、小島昌勝、山田文男、馬場移公子

②特別作品(10句)(1人1頁)

旧同人及び新人作家による特別作品(10句)の連載が始まる。ラインアップは次の通りである。※の意味は後述する。

24年3月  軽部烏頭子 能村登四郎※
24年4月  百合山羽公 藤田湘子※
24年5月  篠田悌二郎 林翔※
24年6月  佐野まもる 水谷晴光※
24年7月  石田波郷  沢田緑生※
24年8月  相生垣瓜人 大島民郎
24年9月  木津柳芽  秋野弘
24年10月 山口素堂  岡谷鴻児
24年11月 米澤吾亦紅 持田施花
24年12月 桂障蹊子  野川秋汀

③特別作品評(13頁・10頁)

特別作品を対象に相互批評が行われる。特別企画は次の通りである。

24年8月 新人作品評(同人9人)
24年9月 同人作品評(新人5人)

すなわち、3月号から6月号までの新人4人の作品(能村登四郎※、藤田湘子※、林翔※、水谷晴光※)を、百合山羽公、篠田悌二郎、石田波郷、米澤吾亦紅、桂樟蹊子、下村ひろし、小島昌勝、相馬黄枝、中村金鈴が批評している。また、3月号から7月号までの同人5人の作品(軽部烏頭子、百合山羽公、篠田悌二郎、佐野まもる、石田波郷)を能村登四郎※、藤田湘子※、林翔※、水谷晴光※、小林広子が批評している。当時馬酔木は48頁の中で毎回10頁以上の頁を割いた大特集となっているのである。まことに豪華な顔ぶれであった。いかに、秋桜子が新人に期待していたかがよく分かる。

特に、復帰したばかりの波郷の使命感に燃えた批判は凄味がある。


能村登四郎をはじめ四人の新人の特別作品四十句を読んで、先づその迫力の弱く、読みつつも読者たる僕があまり作者の方へひきよせられないのに不満である。自然を詠はうと社会を表はさうと、そこには常に作者の描き出す「新しい一つの世界」がなければならない。混沌と苦渋の現代に我々が生きてゐる以上、俳句に我々が望むのははげしい自然讃仰か、真摯にして混沌を制する底の生活、人間の現はれである。日常生活に起伏する日常的主観も、之を活かしてわれわれの生き方を示すものでありたいと思ふ。馬酔木の新人諸氏の最近の労作もさういふ方向に向つてゐるものと期待して眺めてゐる。然し実際には主観の脈が浅い皮膚の下に浮いて、よはい、言葉の按配や、知的にも説明的な主観叙述におちいつてゐる。私は何時も思ふ、これは描写がないからである。乏しい言葉で主観の叙述にはしるから弱く浮いてしまふのである。たしかな太い線を入れればもつと生きてくる筈である。観念の色でごまかせるものではないのだ。

能村登四郎については、「寡作」の概念に観念を負わせすぎている。「雪葎」の知的な脈絡を取って作者の意中に誘い込む叙法も詩ではない。「悴みて」もそれににて詩に近寄り、実は常套的である。

藤田湘子にあっては、「夕星」の句になると主観的な操作がある。「寒きびし」「春の街」は主観とその客観的条件がおあつらえ向きに並べてある、詩的共鳴を呼ばない。「早春や」「寒明けや」「啓蟄や」の情趣の世界とこのような表現は早く卒業した方がいい。」こんな調子で批判が続くのである。取り上げられた句を紹介しよう。


寡作なる人の二月の畑仕事   能村登四郎 
雪葎この貧撥ね返さでやある 
悴みてゐてなほ奪ひがたきもの 
夕星のいきづきすでに冬ならず  藤田湘子 
寒きびしやつれし母の顔見れば 
春の街狂躁つひにきはまれる 
早春やかたくなまでに母の愛 
寒明けやひたぶるに濃き唇の紅 
啓蟄やいつまで頼り得ん母ぞ


もちろん大先輩の胸を借りている新人たちの発言は貧弱である。

④新人雑誌「新樹」の創刊(16頁)

24年2月には藤田湘子を編集発行人として新人会雑誌「新樹」が創刊される(合併号があるが、月刊雑誌であり25年1月まで9冊が刊行されている)。この発行には秋桜子も積極的に関与し、求めに応じて原稿を書き、また色紙短冊を書いてそれを頒布することにより発行資金に充てていたようなのである。もちろん記事等の執筆で、能村登四郎、林翔も協力していたが、この雑誌の発行自身は藤田湘子の独壇場であったようで、新人の中の第一人者の立場を雑誌編集により確かなものにしていった。後年の、石田波郷編集長の後任編集長に湘子が就任する実績をこの雑誌で積んでいったようである。

⑤同人昇格

新樹集作品については、馬酔木賞銓考と題して、予選句の列挙と、秋桜子による詳細な選評を掲げている。一句一句の作品を鑑賞する選後評と違った、作品相対批評となっている点で興味ふかい。この結果、24年10月に(金子伊昔紅(兜太の父)、牛山一庭人(牛山書店店主)ら古参会員の)10人の同人昇格が行われるとともに、24年12月に(新人の)5人の同人昇格(上記の特別作品発表者で※のついた能村登四郎(市川)、藤田湘子(小田原)、林翔(市川)、水谷晴光(名古屋)、沢田緑生(名古屋))が行われ、水谷晴光がその年の馬酔木賞を受賞した。同人昇格者は25年1月から「馬酔木集」改め「風雪集」という自選同人欄で作品を発表し始める。同人の顔ぶれから見ると、東京近辺3人、関西1人、名古屋1人と地域バランスをとっていることが分かり、特に同人の中心が能村登四郎、藤田湘子であったことが他の資料からもよくうかがえる。

⑥馬酔木賞受賞

戦後の旧馬酔木賞は新人賞に相当し、第1回(22年)こそベテランが受賞したが、23年以降は新人会メンバーが軒並み受賞している。

22年 山田文男、静良夜(戦後第1回馬酔木賞)
23年 能村登四郎、藤田湘子
24年 水谷晴光
25年 竹中九十九樹、殿村菟絲子、馬場移公子、岩崎富美子
26年 堀口星眠、宮津澪子
27年 古賀まり子、大島民郎
28年 千代田葛彦、有働亨(この年より馬酔木新人賞に改組)

新人育成システムが、23年頃の強制的な発動をしなくても、この頃になるとごく自然に働き出すようになっていたのである。

⑦人気投票

馬酔木の作品から読者による愛唱句10句を募集し発表している。当然新人たちの句が多く取り上げられているが、秋桜子の作品も含まれており、やり方がいかにも民主的である。ためしに12月号より抜粋してみる

16点 お花畑息のみだれに雲過ぎつ   緑生
7点  急ぎつつみじめさつのる野分中  移公子
5点  林中の蛾の闇おそふ雨はげし   鴻児
4点  颱風の空飛ぶ花や百日紅     秋桜子
4点  子を容るる片蔭われに足らねども 翔
4点  水脈しるく曳きて晩夏の光とす  湘子

●まとめ

水原秋桜子の編集とは何であったのかは以上の項目を見て行けばよく分かるはずである。新人を登用し、人気投票のような民主的な抜擢もした。編集担当をする前は、気力のなえていた秋桜子がはつらつとするのは、新人を台頭させたいという意欲があったからだ。

23年の馬酔木の雑詠の選がどのような意図で行われたかは伺いしれないが、その前の年に比べて突然新人たち全員が巻頭にそろうということはいかにも不自然である(22年の新人の巻頭は湘子の1回のみであった)。選に当たって水原秋桜子の若手抜擢の思惑が働いたことは間違いないであろう。

そして24年の旧同人(それも波郷らの幹部同人)と新人作家を対比した特別作品、特別作品評が間の世代をとばして、世代更新を図ろうとしたものであることも一目瞭然である。

問題はそうした破格の扱いに甘えないで、新人たちがそれにこたえる成果を挙げたかどうかである。

後述するように馬酔木の復活を確かなものとした翌々年の昭和26年(既に波郷が編集長に就任していた)は、馬酔木30周年記念の作品が募集されたがその時の入選作品に、杉山岳陽、能村登四郎、藤田湘子が入選し、新人たちの目覚ましい台頭が示されたのである。

実は、新人台頭のきっかけとなる馬酔木の新人会は、22年8月に設置されたのだが、新人達が華々しく登場している2年後の24年8月には解散している。この2年で新人会の所期の目標が達成されたことを示しているのであろう。そしてこれは、新人の台頭には2年もあれば十分であることを示しているようである。

    *

長らく「豈」の編集をやってきたせいかもしれないが、私は雑誌の命は編集であると思っている。それは以上の記事からも納得できると思う。秋桜子が直接担当した僅か2年程の編集(雑詠の選も編集の一部と考えよう)は馬酔木を起死回生したからである。

やがて、25年からは、秋桜子から波郷に編集が移る。当時の編集後記を見ると、24年12月号ですでに秋桜子は「新年号からは、さらに面目を一新して充実した雑誌を作りたいと思つてゐます。編輯の基本方針は石田波郷君が考へてくれました。」とあるように、25年度の実質編集権は波郷に移っていたのだ。そして、25年7月号「波郷君の編輯はもうはじまつてゐる」とあり、この予告を受けて、25年8月号から波郷は「今度8年ぶりで本誌の編輯に従ふことになつた。」と編輯後記を書き始めている。自身の病気から「鶴」を休刊にせざるを得なかった波郷が、その活動の拠点としたのが「馬酔木」であり、それは波郷に取っても馬酔木にとっても望ましいことであった。もちろん新人たちにとっても波郷の後押しのある新人であることは滅多にないチャンスであったのである。
すでに述べているように、波郷が編集を担当して直後の26年4月には画期的な馬酔木30周年記念号を発行している。いまや、誰の眼にも、波郷の時代がやってきたのである。そしてここで押し出されたのが、秋桜子によってまずは新人として抜擢された能村登四郎と藤田湘子であったのである。