2016年3月18日金曜日

【川名大論争】 アーカイブversion1   ①筑紫磐井「問題ある表現史」(ウエップ刊『戦後俳句の探求』より転載) ②筑紫磐井「八月の記憶」(「俳句新空間」第4号より転載)



(「ウエップ」82号「江戸の仇を長崎で打ちそこなった男――子供騙しの詐術を止めない筑紫磐井――」、「未定」99号「筑紫磐井の執筆モラルを糺す――嘘で固めた誹謗と論理のすり替え――」につづき再び「未定」100号「悲しい生き方――書けば書くほど捏造を撒き散らす」で川名大が筑紫批判を書いている。これで最終回だと言うが、確認してみたがほとんど従来と同じ文言の繰り返しのようであり、新しい批判も少ないので私も改めて反論は書かない。代わりに関心を持つ人(坂口昌弘氏等が文献の所在を聞いてきたりした)や後世のために、過去の川名問題を取り上げた基礎的な文書をアーカイブで掲載しておくことにする。これで川名ー筑紫論争の私の立場は十分理解できると思う。なにぶん分量が多いので、取りあえず、前段(社会性)に関する部分を先ず掲載することとする。後段(従軍俳句)に関するものについては必要があれば改めて追加することとしたい。)

【目次】
①「問題ある表現史」(ウエップ刊『戦後俳句の探求』より転載)
②「八月の記憶」(「俳句新空間」第4号より転載)


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①「問題ある表現史」(ウエップ刊『戦後俳句の探求』より転載)   筑紫磐井
社会性俳句に対する非難

 さてここで蛇足を加えておきたい。堀切の「表現史」と似た「表現史」で批評を行っている人物に川名大がいるが、私がいままで連載で執筆してきた金子兜太論と重なる時代についても発言をしている。ここではその中でも、社会性俳句に関する指摘を取り上げてみよう。

 「両者(社会性俳句と、いわゆる「社会性俳句」)を峻別して、いわゆる「社会性俳句」の負性は「戦後の民主的、左翼的思潮のパラダイムに乗って、予定調和の左翼的観念を優先させた類型的な実現形式に陥ったことだ」と指摘しておいた。そして、そこに陥った鋳型のサンプルとして、 
  白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘へ 
  原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ 

などを列挙しておいた。今日も、こういう句を良しとする追随者が跡をたたないので、再度指摘しておく。」
 
(「現代俳句史」85 「俳句四季」連載)

 括弧のつかない〈社会性俳句〉と〈いわゆる「社会性俳句」〉との違いは必ずしも明確ではなく、社会性俳句としての表現の欠如、具体的に言えば重層表現としての詩的メタファーのないことを結果的に言っているようである。またここで指摘のある「追随者」とは、この句を高く評価した小川軽舟の他に、おそらく私などのことも言っているのだろう。

 私はこう思う。おそらくこれほど、明るい風景の中で革命のオプティミズムの響きを高らかに歌い上げた社会性俳句は少ないであろう。太穂のこの句に、川名は類型だとか取合わせの鋳型(後述)だという批判をするが、俳句自身「定型の鋳型」に嵌められているのだからそんなことでは批判にはならない。多くの社会性俳句が苦々しくネガティブであったのに対し、全く違ったいきいきとした色彩感覚があふれている。例えば、新興俳句・前衛俳句で好まれた白ではあっても、ここで詠まれているのは健全で、希望にあふれているまぶしいばかりの白である。「白蓮・白シャツ」「彼我・ひるがえり」の頭韻は日本語の伝統を踏まえていきいきとしたリズムを生み出しており、血の気の失せた難解俳句と違う大衆性・民衆性を保証している。だから戦後の社会性俳句というものは、この一句を生んだことによって十分、報われていると言わねばならないだろう。

 もう一つの兜太の句は、太穂の句ほどは熟成していないが、かといって川名にこれほど罵られるほどひどい句ではない。問題があるとすれば、兜太がその実践理論として主張した主体的傾向というよりは象徴的傾向に近い点であるかもしれない。しかし、だからといって戦後俳句史からこの句が消え去った方がいいなどとは毛頭思わないのである。

 川名自身はどのような論拠でこんなことを言っているのだろうか。別の回では同じ句に次のように言う。

 「肝心の実作は戦時下の聖戦俳句の皇国イデオロギーの合言葉を左翼イデオロギーの合言葉に替えたにすぎないことを怪しまなかった。即ち、先験的に左翼的観念を先立て、その合言葉としての既成の主題語句(基底部)と従属語句(干渉部)を取り合わせる。それがいわゆる「社会性俳句」の鋳型だった。読み手の意識から言えば、能記(シニフィアン)と所記(シニフィエ)の合一による詩的感動を享受する前に、早々と所記(シニフィエ)による作意ばかりを意識させられてしまう。 
  原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ 
  白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘へ 

 両句は代表的なその鋳型。(傍線部は合言葉としての基底部)。」(同前66)

 何を言っているのだろう。先の文章もそうだが、皇国イデオロギー、左翼イデオロギー、合言葉等のおどろおどろしい押しつけ。必要もないカント哲学の「先験的」、ソシュール『一般言語学講義』の「シニフィアン」や「シニフィエ」、川本皓嗣『日本詩歌の伝統』の「基底部」「干渉部」などがちりばめられ、太穂や兜太の断罪のために動員されている。少なくとも、私の知る川本さんの概念は俳句を文学の観点から理解しようとするための謙虚な仮説なのであって、このような断罪の手法に使われるとは思ってもいないに違いない。

 もちろん、川名同様、兜太も誓子や草田男を批判しているが、川名に比べればはるかに論理的で、批判が批判として成り立っている。批判される側の立場にも斟酌し、その結論は決して不愉快となることはない。すべての論点が挙がっているから、不十分な批判とはならないからである。一つの例を造型俳句論から見てみよう。

 「誓子の代表作であり、構成法の花形として提出した、ピストル(ピストルがプールの硬き面(ルビ・も)にひびき)や、枯園(枯園に向ひて硬きカラア嵌む)、夏の河(夏の河赤き鉄鎖のはし浸る)の句にしても、確かに構成のメカニックなこと、斬新な視角といった、手法上の見事さはありますが、その奥に拭いきれない空白な心意を感じます。これはニヒルな情緒だといえばそうともいえ、そのニヒルなものは、意力のきびしい投入から結果される一種のクライマックスの気分であって、これはいかにも現代人の心情ではないか、といえば、そうともいえますが、反面からいえば、心意の空白に基づく白痴美の姿だともいえましょう。何か、そうした否定的な批評を招来するような、本質性を欠いた――むしろ欠くことによって得られた――ニヒルなムードが漂っているということができる作品だといえると思います。」(「造型俳句六章」②)

 素晴らしい文章ではないか。なるほど論旨には異存があるかもしれないが、その周到な気配りに対して、批判された誓子も決して嫌な気分にはならなかったと思う。批判とはかくありたいと思う。

 私も批評をこととする者としていえば、太穂や兜太のこれらの句を否定するような批評が戦後の俳句評論の結実だとしたら、私も含めて全員を地獄に堕としてしまいたい気がする。こんなことに荷担したくない。批評など実は何ほどの力もないのだ。批評に、太穂や兜太の句を裁く権利があると考えること自体が大間違いなのだ。批評より俳句の方が遙かに何層倍も力強いのである。

 その意味では、堀切や兜太の表現論については、俳句全体を見わたした「表現史」という言葉(冒頭述べたようにあまりこの言葉は好きでない、諷詠も立派な俳句であるからである)は一応使えるだろうが、川名のような主張は「新興俳句表現史」として自己完結はするだろうが、虚子の花鳥諷詠、人間探究派俳句、社会性俳句などを公平な目で通覧した「俳句史」を論ずるには適切ではない。

批評は如何にあるべきか

 川名のような批評が生まれる理由を川名の批評文から構造分析してみよう。川名は「海程」で「戦後俳句の検証」という連載をしている中で社会性俳句の批判を展開している(⑥~⑦)。この短い文章の中で上述した川名の特色が遺憾なく現れている。私は川名の文章を分析して、批評の中に次のような文言が溢れていることを発見し驚愕する。

【否定的形容】

散文と韻文の特性に盲目のまま・現代俳句の表現の高みに盲目・最初から破綻した蛮勇・当初から決着が着いていた・論理的欺瞞・隠蔽工作・論理的破綻を繕った・限定的な言説・偏狭な限定・ドグマ・屋上屋を架すつけたり・意図的とも思えるような論調・俳句論としては破綻・当初から決着済み・世迷い言・肉化されず・具体的な成果は不十分・蛮勇作品群・ヒロイックな言挙げに誑かされた・社会的素材や意味イデオロギーに囚われた散文的作品に陥った・社会性俳句の負の遺産・鑑賞力が何よりも欠如・詩的完成に甘い・自己矛盾・自縄自縛・負のサンプル・最大の負性・予定調和の作為が露出・負性の後遺症・技法のレベル・表現史に盲いている・持論の変奏にすぎない・放恣な散文的表現・全く機能しなかった・「第二芸術」を反転させた発想言説・俳壇の退廃現象の埋もれた衆愚俳人たち・手前味噌の総括・放恣に流れ・大仰で放恣な表現ポーズに誑かされた・表現の負性を許容・予定調和の思考観念の表現・仕掛けられた表現意図にまんまと嵌って予定調和になっていることに盲目・表現レベルでの検証が疎か・先験的に是認・後押しする予定調和の符牒・表現方法や表現レベルの検証が不十分 等々

【肯定的形容】

俳句の構造や表現の独自の特質に言及した本質論・盲目を突いた俳句論としての正論・俳句表現の固有性からの正当な反論・文学的な正論・俳句の構造や表現の独自の特質に言及した優れた論考・重層表現による韻文としての完成度・完成度を評価軸とする鑑賞力・俳句固有の構造的な力やそこから発せられる言葉の象徴的な力・文学論として正面から向き合った正論・実証的論理的にその概念やドグマから解き放った画期的論考・詩性によって普遍的な世界を表現・俳句の本質的な構造論が特に画期的・時代を浮上させた重層的表現・社会性俳句の負性を突いた・表現レベルで詩的結晶が具現された 等々

 読者も驚くだろう、論理の前に評価が先立っているのである。この評価を受け入れない限り、川名の論理は開示されない。そしてこの形容が着くのは、特定の人物に限られる。否定的形容であれば桑原武夫、草田男、兜太、坪内稔典、仁平勝であり、肯定的形容が着くのは、重信、高屋窓秋、赤黄男である。極めて党派的な評価が行われている。もちろん、重信、窓秋、赤黄男が党派的だとは言うつもりは全くない、川名の評価が党派的だというだけである。

 私はこれらの修辞を排除してみたが、その結果、残部から出てくる論理は極めて貧困であるような気がしてならなかった。少なくとも兜太が誓子を批判した、たゆとうような巧緻な論理はついに発見できなかったのである。

 こうして贅言のない論理に立ち返ったとき、川名の述べる文学の価値が何かよく分からないが、少なくとも、社会性俳句を批評した部分で出てくる基準としては、〈符牒的比喩・寓意表現を否定し、重層的表現としてのメタファー(暗喩)を採用する〉ということのようである。しかし、俳句とはそれだけの単純なものではないだろう。符牒的比喩や寓意表現だとていいではないか。俳句という形式の秘密は、実は我々には永遠に分からない、だからささやかな仮説を組み立てつつ、一歩一歩真実に近づき得た満足を感じる、しかしそれはまた新しい考えによって否定され修正され克服されてゆく、そうした宿命にあると考えたい。少なくともそれくらい謙虚であるべきだ。

 おそらく川名の最大の問題は、「表現史」の名前にこだわったあまり(本来、花鳥諷詠や雑俳までをふくめ、定型詩という)俳句の本質に「盲いている」ことではないか。ボードレールやマラルメの詩法(暗喩)を導入したところでそれは輸入にすぎない。明治時代にチェンバレンが欧米の文法を直輸入して日本最初の文法書を書いたが、結局それは日本語の本質に「盲いた」ものであり、山田孝雄・橋本進吉・時枝誠記の深い洞察を待たなければ日本語文法は完成しなかった。堀切が、ことさら芭蕉の表現に現代俳句の由来を探る――川名に倣えば「蛮勇を奮おうとする」――ことに我々が危惧しながらもなお共感するのは、こうした過去の過ちを知っているからなのである。

 改めて言えば、俳句はある理論に適っているから価値があるというのではなく、俳句一句一句を率直に眺めることによってある瞬間、我々の価値観が転換し、今までの自分の俳句理論を撤回しなければならない事態に立ち至ることさえある、そうした危うさをもつからこそ俳句評論の信頼性、健全性があるのだろうと思っている。

 私が堀切・兜太の歴史探究の方法を科学的方法論として一応是とするが(結論を是としている訳ではない)、前述のような川名の方法は疑問とする理由である。川名の批判に対して、殆どの伝統俳人が論争の面倒さを厭うて反論しないが、それではそれがそのまま言説として肯定されたことにもなりかねないので、あえて憎まれ役をかって私が批判してみた。

  筑紫磐井『戦後俳句の探求』推薦文
              金子兜太
戦後俳句の全貌を
表現論を梃に
見事に整理してくれた
のが、この本。
著者は、初めての本格詩論
『定型詩学の原理』で
注目を集めた、
俳壇を代表する評論家。
料理の腕前は冴えている。             


②「八月の記憶」――従軍俳句の真実(「俳句新空間」第4号より転載)  筑紫磐井

一.川名からの電話

「豈」第57号の筑紫の記事「発行人よりお詫び」「従軍俳句の真実」に関して川名大とやり取りがあったので報告する。予め「豈」を読んで頂くと分り易い。

元々は、川名がしばしば筑紫に対して行った社会性俳句に関する批判があった。これに対して筑紫が「ウエップ」80号でまとめて批判し、さらにこれに対する川名の「ウエップ」82号における反論「江戸の仇を長崎で打ちそこなった男――子供騙しの詐術を止めない筑紫磐井――」が掲載された。「お詫び」の記事は、それが当初予定された「豈」ではなく「ウエップ」に掲載された経緯と、関係者へのお詫びを述べたものである。またこれとは別に、「従軍俳句の真実」では川名の記事に不備があることを指摘したものである。「豈」刊行後次のような電話があった。

【川名から1回目の電話(平成27年5月2日朝9時)】

(1)謝辞

川名大:もう来ないと思っていたが「豈」をありがとう。「発行人よりお詫び」を読んだ。筑紫と、以前は良好な関係だったのに、最近こんな関係になるのは残念だ。

(2)筑紫からの批判に対する応酬

川名大:「ウエップ」(80号)の筑紫記事のような、自分の発言を文脈から一部だけを切り離し部分を取り上げるのは心外だ。自分は、重信が正しい、兜太が間違っているという予断で兜太や太穂を批判してはいない。

筑紫:研究手法の違いであろう。私は構造分析によって見えないものを見せる手法をとっている。以前川名から高く評価してもらった『飯田龍太の彼方へ』も龍太の俳句の文末構造をキーワードに構造分析した手法である。この手法を川名が書いた「俳句四季」等の社会性俳句批判に関する記事に適用しただけである。「一部を抜き出して」というが、実はそのページを複写して細かく発言ごとに切り刻み、①単なる引用、②川名の肯定発言、③否定発言とすべてリストアップして分析したものであり、恣意的に抜き出しているわけではない。この手法が文学の研究法として適当かどうかは議論の余地があるが、この手法をとる限り出てくる結論である。執筆者がどのような心理であったかを論じているものではない。

川名大:やはりあの時代文脈で見ると兜太の「原爆許すまじ」は不適切だ、そのかわり「わが湖あり」を自分は誉めている。

筑紫:「ウエップ」(85号)の『戦後俳句の探求』の特集で、今の若い世代に論じてもらった時に、「白蓮白シャツ」は決して低い評価ではなかった。時代文脈で見る必要がないのというのは私も彼らと同感である。

(3)「豈」に載らなかった経緯顛末

川名大
:反論を「ウエップ」で書くより筑紫のいる「豈」で書いた方がいいと思って大井にお願いした。ただすでに最新号は編集が走り、次号で特集にしその中で書かせるといわれたが、論争は旬があり、それまで待てないので「ウエップ」に頼むことにした。

筑紫:大井が私に連絡しなかったということか。

川名大:大井にいった。二股をかけたわけではない。

筑紫:川名からの要請があったから、「豈」の特集号を立てることにし、堀切氏を初め何人かにすでに依頼をしてしまった。今回の「お詫び」は川名批判ではなく、依頼してしまった人に対する本当のお詫びである。

(4)『戦後俳句の探求』の請求

川名大
:自分のことを書いた本なのだから『戦後俳句の探求』を送ってくれてもいいではないか。(筑紫注:実はまだ『戦後俳句の探求』を送っていない)

筑紫:ゲラの段階では読まなかったが、豈の「お詫び」を書いた後「ウエップ」が届いて川名の筑紫批判論文をちらっと見たら、編集者がいうように本当に論末で「(このような)人物[筑紫]と共に俳句を語ろうとは思わない」と書いてあったから、共に俳句を語ろうと思わない人物に本を送ってもしょうがないと思った。これを撤回して、共に俳句を語ろうと思うならお送りする。

川名大:勉強したいと思う。

(5)「豈」での執筆の要求

川名大
:川名に二度と「豈」で書かせないと書いてあったが、そういわないでまた書かせてほしい。
筑紫:(無回答)

(6)現代俳句協会『昭和俳句作品年表』解説の誤り

川名大
:豈のもう一つの記事「従軍俳句の真実」で指摘された自分の『昭和俳句作品年表』解説記事は間違っていたかも知れない、新興俳句以外の戦争俳句が少なかったかどうかを実は確認していなかった。あれはすでに作品年表ができあがっていたのでそれを見て書いたのでその範囲でしか書いていない。

筑紫:私も自分の論が完璧だといっているわけではない。ただ阿部誠文氏がこのことに関連しては立派な仕事をしており、こうした仕事が抹殺されたり無視されることに対しては不満である。

川名大:阿部氏が調査で朝鮮に行った話は知っている。

[(後日追補)阿部氏より朝鮮に行ったことはない旨のご連絡を頂いた]


【川名から2回目の電話(同朝9時30分)】

川名大:先ほどいったようなわけであるから、次の編集後記で川名が二股をかけたのは間違いであったと書いてほしい。自分は雑誌がないので訂正する手段がないから。

筑紫:経緯をよく聞き大井と相談してみる。

【川名から3回目の電話(同午後5時)】

家人:主人は歯医者に出かけています。

【川名から4回目の電話(同午後7時)】

川名大:従軍俳句の記録を確認していなかったから、戦前の「俳句研究」の二つの特集(「支那事変三〇〇〇句」・「支那事変新三〇〇〇句」)を読んでみて、確かに一回目の特集は従軍俳句と銃後俳句の割合は50%と50%、二回目はさらに従軍俳句の割合が高かったから筑紫の言うようなことも一応言えそうだが、しかし俳人で従軍した割合は内地に残った俳人に比べて少ないはずだから自分の記述は間違っているわけでもないのではないか。特に当時の「俳句研究」はことさら戦地の作品を多く取り上げようとしたと想像される。戦争俳句に詳しい人に聞いて見たら同様の感想を述べていた。

筑紫:それは飽くまで想像だろう。俳句研究の特集のデータを元に、川名がいうような修正を必要とするのはなぜかを定量的にいってもらえれば納得する。そんな状況証拠や想像だけで誤っているというのはおかしい。

川名大:いや、そういう考え方があるということに対するあなたの考え方を聞きたい。

筑紫:私が絶対正しいといっているのではなくて、そちらが銃後俳句が多いといったから定量的におかしいと言っただけだ。異議があるのならこんな電話をしてこないで、それこそ私は現代俳句協会の著作に問題ありと指摘したわけだから、「現代俳句」誌上で批判すればいいではないか。そうなればそこでの論争には応じたい。「支那事変俳句」の範囲をどう設定したかは、それを選び出した山本健吉に聞かねば分らない。現在あるのは六〇〇〇句のデータベースだけである。そこから議論はスタートすべきだ。川名がいうように国内に従軍俳人より多い数の俳人がいたことは間違いないだろうが、しかし国内にいた圧倒的多数の俳人は「花鳥諷詠俳句」を詠んでおり「支那事変俳句」を詠んでいないのではないか。一方従軍俳人は相当多数が身近な従軍俳句を詠んだ可能性がある。そうでないというなら、戦争期間中のホトトギスの全作品を分析すべきだ。

川名大:データを示さなければ納得しないのか。

筑紫:さきほどの記事へのクレームならまだしも、こんな論争を電話ですべきではない。もしそれが現代俳句協会の公式見解というなら、私から協会に抗議する。

川名大:いやこれは私ともう一人の相談した人の見解で個人的なものである。お話はこれから勉強してみたい。

 川名とのこんなやり取り【注1】の後で考え方をまとめてみた。

①「発行人よりお詫び」は川名の文章を批判するためのものではない。もちろんウエップに掲載された記事で見ても、「子供騙しの詐術を止めない筑紫磐井」と題を設け、「筑紫磐井・・・が書くものについて、私はかなり以前から信用しなくなった」「(このような)人物[筑紫]と共に俳句を語ろうとは思わない」などは、まさに川名が言う名誉毀損そのものだろう。しかし、問題は別にある。

②川名が筑紫と論争すると宣言した以上川名は自らその場を用意すべきだ。それをよりによって非難中傷する当の相手の筑紫の雑誌に掲載してくれと申し入れるのは、非常識である。これこそ俳壇始まって以来の珍事と思う。

③川名は理由として、「反論を「ウエップ」で書くより筑紫のいる「豈」で書いた方がいいと思って大井にお願いした」というがこんな軽いノリで済むような問題ではない。言っておくがこの「反論」とは、「子供騙しの詐術を止めない筑紫磐井」・「筑紫磐井・・・が書くものについて、私はかなり以前から信用しなくなった」・「[筑紫]と共に俳句を語ろうとは思わない」の罵詈だったのである!善意の編集人もさすがに後から呆れていた。これを論争といわない。

④一番の疑問はこのような重大な案件をなぜ論争相手であり発行責任者の筑紫に言ってこなかったのかである。筑紫と論争すると宣言した場面で顔を合わせていたのだからいくらでも言う機会があったはずである。コソコソと、旧知の編集人に言う話ではあるまい。事後から了承したが、掲載時期の条件等はつけざるを得なかった。

⑤その後の撤回も、当方からすれば掲載したくもない頼まれた反論原稿を、(よしんば時期が気に入らなかったにせよ)掲載撤回をするのなら川名から筑紫に説明があるべきである。編集方針を狂わせたからである。重ねて言うが、これは非常識な原稿持ち込みの依頼なのである。「豈」は、寄稿された原稿はそのまま載せる。このような記事が載ることを許容する雑誌は「豈」以外考えられない。

⑥最後に、そもそも、原稿を「豈」に載せると聞いた時、川名は「豈」や私に感謝したのだろうか、是非聞いてみたい。当然だと思っていたのではないか、だからいつでもキャンセルできると考えたのではないか。残念ながら(前述の電話のやりとりでも分かるように)未だ一度もそうした感謝や陳謝を私は川名から聞いていない。

二.「未定」掲載記事と従軍俳句

川名は、1回目の電話はウエップに回した理由を言い訳し、更に豈に書きたいと言い、2回目の電話で自分は雑誌がないので訂正する手段がないから編集後記で訂正してほしいといって来た。だから私は「俳句新空間」で存分に書いていいと川名に申し入れたのである。やがて烈火のように怒った断り状が来た。何を怒っているのか解らなかったが、それから一週間ほどして「未定」が届いた。「未定」で書く場所が確保できたかららしい。

「未定」99号で川名大は「筑紫磐井の執筆モラルを糺す――嘘で固めた誹謗と論理のすり替え――」というウエップの記事と同様仰々しい大時代的なタイトルで同じような非難をしている。ここでは、「従軍俳句の真実」で『昭和俳句作品年表』解説記事を批判したことに対する反駁が新しいと言えば新しいので紹介する。

①解説記事で川名は「時系列で眺めて気づくことは、前線俳句は銃後俳句(戦火想望俳句を含む)に比べて数が少ないこと。」と書いていているが、「未定」の反論ではやけに「時系列で眺めて気づくことは」に重要な意味があったように言っている。しかし「時系列で眺めて」言えることは、50%から、大幅に増加することである【注2】。時系列に見ようが何であろうが、従軍俳句が銃後俳句より数が少なかったことは一度もないのである。

②川名は「私は一次資料の原典〈支那事変三千句〉〈支那事変新三千句〉から・・・まで制作(発表)年の特定できたものを合わせて40句程収録した。筑紫が引用した諸句等を通覧したことは言うまでもない。」と言っている。しかし電話では、解説記事は間違っていたかも知れない、従軍俳句の記録を確認していなかった、作品年表ができあがっていたのでその範囲でしか書いていないといっている。どうも読んでいなかったらしい(作品年表に上がった従軍俳句の数は少ない)。どちらが嘘なのだろう。

③ひるがえって、最初の電話で誤りを認めていながら、第4回目、なぜあのような電話をしてきたか趣旨が私には解らなかった。今思うと、これは最初の電話で誤りを認めたことに対する悔恨の八つ当りではないか。最初の電話の陳謝は流石に評論家らしい態度だと思った。しかし、その後この文章を読んでそうした念は急速に凋んでしまった。過ちを認めた最初の電話を何とか隠蔽したい気持ちが見えているからである。

   *     *

 私がこの件にこだわるのは、川名に代表される戦中俳句に関する一種の思いこみが、善意であれ悪意であれ、戦争の本質を見えなくしているように思うからである。戦後70年という特別な節目を迎えたが、我々は思いこみを超えて、より真実に近い実体を発掘することが必要なのだ。川名らが見過ごして来た歴史の中で、実はこんな従軍俳句が数々あったのである。何もこれが文学的に優れた作品だというのではない。こんな衝撃的な句が今まで紹介もされずに来たことがショックなのだ(もし、川名が万が一〈支那事変三千句〉等をすべて見ていたのなら、これらをことさら除外したことになる。これこそ私には怖ろしい表現史に思えるのだ。)。

夏草や逃げ隠れしを捕虜にする 竹魚 
戦死者も焼け下萌も焼かれけり 松寿 
執念くも屍の顔に来る虻か   純火 
炎天や死体かかへてすはりゐる 純火 
人間の骨の白さのすずしかり  柿太 
   無想、敵弾は戦友の額より後頭部に貫通
脳みそは一片もなく天灼けたり 利巳 
手袋はかなし失ひたる指ありぬ 多行 
眼帯をとれば眼がなし毛布落つ 定祥

「豈」の記事を読んで急遽私に執筆依頼をしてきた朝日新聞の記事で、この点について協会の著書に問題があることも示唆した(6月1日付「うたを読む 従軍俳句の真実」)。これに対して協会から抗議は来ていない。協会としては、戦中戦前についてはさまざまな議論があることなので正々堂々と議論をしてほしいということではなかろうか、協会が川名の歴史解釈に凝り固まっているわけではないと思われる、まさに正しい態度だと思う。余計なことだが、私は川名に、協会が川名の発言のようなことを公式に認めているなら協会に抗議するといったところ、川名は、これは自分の個人的見解である、これから勉強してみたいと言って慌てて電話を切っている。
 提案だが、川名にこれ以上反論があるのなら「現代俳句」など公の場で堂々と議論してほしい。協会で支援されないような川名の主張なら私も回答しない。協会の著作に問題を指摘した私にはこう言う権利があると思う。

     *      *

と、ここまでいっても、私は川名を批判するつもりはない。なぜなら第一回目の電話はある意味立派であった。お互い意見は言い合い、一方、間違いは間違いで認めていたからである。だからこそ川名に弁明なり論争の場を与えたく思ったのである。しかし実は、奇怪な第四回目の電話、またその後来た手紙の背後には川名の裏にいて操っている一人の人物が浮び出して見えたのである(「戦争俳句に詳しい人に聞いて見たら同様の感想を述べていた」「これは私ともう一人の相談した人の見解で個人的なものである」と言っている)。巧みに隠れて姿を見せず、安全なところにいて川名に指示している人物である。戦前の新興俳句に詳しい川名より年配の人物であるらしい。私は何よりもこうした人物をこそ批判したい。決して川名批判が本意なのではない。
 暑苦しい夏に、暑苦しい記事となってしまったが、今年は戦後70年の特殊な年だ。戦争に対する態度を表明する以前に、(左右どちらであれ)イデオロギー的な思いこみから見えなくなっていた本当の戦争とは何であったかを、埋もれた資料から知ることがより大事であると思う。「未定」の記事で川名が言う「結論は実証的、統計的に慎重に導き出されねばならない」はもちろん賛成だ。ただこの言葉は私が先に電話で川名に提案している言葉なのである。

【注1】電話のやり取りはおおよそこんなことであった。当然激しながらしゃべっているので逐語的に正確ではないかもしれないが、直後に大井に報告するためにその都度記録したので大筋ややりとりは間違っていない。

【注2】〈支那事変三千句〉では50%、〈支那事変新三千句〉に到っては66%が従軍俳句である。ついでに言えば、昭和17年以降の〈大東亜戦争俳句集〉〈続大東亜戦争俳句集〉では従軍俳句は100%となっている。