2014年7月25日金曜日

(「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代 (2) /  筑紫磐井 

(2) 登四郎俳句の初出

能村登四郎の俳句の始まりは、昭和14年(28歳)に「書店で表紙の美しい「馬酔木」を見、いままで自分の抱いていた俳句のイメージと全くちがうのに動かされて、投句をしてみる気になった」ことに始まるとされる。これは『能村登四郎読本』などの「年譜」に載っている記事だが、能村研三の編となっているが、実際はこの時期に関する記事は登四郎自らが書いたことになるから当然正確であるべきである。

登四郎の弟子の今瀬剛一は主宰誌「対岸」に連載した記事をまとめた『能村登四郎ノート』(ふらんす堂平成23年)でこの記事を踏まえて、

芦焚けば焔さかんとなりて寂し(昭和14年2月)
この句を登四郎の最初の句として掲げている。ホトトギスの雑詠欄に相当する水原秋桜子選「新樹集」に最初に載っているからである。昭和14年はこの他、次の句があるだけだといい、当時の馬酔木の厳選ぶりを想像している。

頬白の飛び去りし枝揺れやみぬ(昭和14年12月)
しかし、実は登四郎が俳句に関心を持ち、自らも始めたのは、昭和13年、市川学園に就職した直後からである。動機も、「石見に帰った牛尾三千夫からよく俳句雑誌「馬酔木」を買つて送れとたのまれたので送つている中に表紙の美しさが私の今までの俳句に対して抱いていた観念を一掃させた。私は牛尾に送る本の他にもう一冊買つて読み、その月から投句をはじめた。昭和14年ごろであつた。

殆ど休みなく投句したが殆ど一句で年に何回か二句取られた。句会や吟行にも出かけたが全く振るわなかつた。」(「恩寵」/「俳句」昭和46年12月)という。少し年譜とは異なる。ちなみに、牛尾三千夫とは國學院大學の二年先輩であり、能村登四郎に短歌同人誌「装填」に参加を勧めた人であり、卒業後石見に帰り民俗学、特に石見の田歌研究でよく知られている。だから、上記以外にも次のような句が初期の句として馬酔木には掲げられているのである。おそらく登四郎の評伝では初めて登場する句であろう。これらを見れば、登四郎の最初の句は昭和13年秋の「葦の風」の句と訂正しなければならない。

葦の風遠のく風と思ひけり(昭和13年11月「新葉抄」加藤かけい選) 
凍つる夜をかさねきたりしいのちなる(昭和14年2月「新葉抄」加藤かけい選) 
あめつちに霜きよらなり鶴啼けば(昭和14年3月「新葉抄」加藤かけい選) 
篁に霰ふりやみしとき薄日(昭和14年4月「新葉抄」加藤かけい選)

  靖国神社招魂の夜

葉桜に今浄闇のきはまりぬ(昭和14年7月「新葉抄」加藤かけい選 
秋の薔薇おもらかなるを鋏みたり(昭和14年11月「新葉抄」木津柳芽選)

ちなみに「新葉抄」とは馬酔木にあって秋桜子選「新樹集」の他に馬酔木主要同人(加藤かけい、木津柳芽、山口草堂)が選をする投句欄であり、馬酔木の初心者指導欄の役割を果たしていた。登四郎も投句をしやすかったし、ここでは没となる可能性も少なかったのである。

なお話題を戻せば、今瀬は14年中には2句しか掲載にならなかったと言うが、実際は次の句も「馬酔木集」に発表されている。資料の厳密性を確認するために一応指摘しておく。

黒南風は岩がくれゆくバスを追ふ(昭和14年8月)
登四郎はこのように、秋桜子、加藤かけいらの選を恒常的に受けていたが、興味深いことに、さらに山口誓子の選も受けていたのである(昭和14年10月「深青集」山口誓子選)。その後の登四郎の作風から行っても縁が薄いと思われる山口誓子であったが、当時の登四郎は貪欲であった。

熱海にて――初島よりの遠泳着きぬ 
渡ゆるやかに遠泳の近づきくる 
汀に上りくる遠泳の子の歩はたしか 
遠泳の子を抱くべく浜をはしる 
山口誓子は昭和10年に「馬酔木」に参加していたが、4Sの一人の参加と言うこともあり別格の待遇を受けた。その一つが、「深青集」の設置であり誓子選の連作俳句欄であった。年4回応募があった。「深青集」投句者にはその後の「天狼系作家」が多い。

従来の資料の乏しかった中での考察と違い、少ないとはいえ、これだけの資料を集め、眺めると、能村登四郎の最初期(昭和14年時期)の作風や態度ががおぼろげながらに浮かび上がるように思う。それは、

①登四郎は秋桜子に入門したと言うよりは「馬酔木」に入門したのであり、秋桜子、加藤かけい、木津柳芽、山口誓子など様々な作家の選に貪欲に挑戦したのである。

②こうした選を経た作品から、(従来、限られた資料でははっきり分らなかったが)今回示した相当数の作品を見ることにより、初期には極めて短歌的なしらべの作品が多いことが判明する。

特に②は重要で、詠法、リズム感から言ってもそうなであるし、あるいは逆に俳句の代表的切字である「かな」「や」が見当たらないと言う意味でも、特徴が浮かび上がる。櫂未知子は『12の現代俳人論』(角川学芸出版平成17年)で「能村登四郎論」を執筆し、國學院時代の短歌を丹念に分析しているが、さらに時期を限ってはっきりと――特に昭和14年という、短歌から俳句に移行した直後において――、殆ど短歌と言ってよい俳句を詠んでいたことが確認できるのである。





2014年7月18日金曜日

(「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代 (1) /  筑紫磐井

(1)はじめに 

昭和40年代後半の沖における若手俳人の動向を書いて来たが、途中でふと気になりだしたことがある。昭和20年代には能村登四郎自身が馬酔木において若手作家として活動をしていた。登四郎にとってみれば、自身の昭和20年代の青春と、昭和40年代後半の弟子たちの青春とをどのような思いで比較していたのだろうか。自身を見る目と、他を見る目を比べてみると、戦後俳句の、移り変わったものと変わらないものとの違いが浮かびだしてくるのではなかろうか。

前の連載で、「沖」創刊早々の能村登四郎の青年作家に寄せる言葉を紹介したが、青春俳句はかくあるべきという変わらない思いと、一方で、実際の青年作家たちのギャップに当惑している登四郎がまざまざと浮かんでくる。登四郎の内心を考察するには、登四郎自身の青春時代をまず知らねばならないだろう。例えば、妙な言い方だが、昭和40年代後半の弟子たちの打算・戦略と、能村登四郎ら昭和20年代後半の作家たちの打算・戦略とを比較しなければ、両世代の作家としての動向を比較はできないはずだ。

ただ、こんなことに関心を持つのは、当時の「沖」の若手作家の中ではせいぜい私ぐらいであった、なにしろ皆は自分のこと(俳句)に夢中であったから。したがって、後日、「若き日の登四郎」「処女句集研究」という連載で登四郎の初期作品を細かく分析した作家論を書いたのだが、(編集長の林翔以外)およそ反応はなかったようである。しかし、こうした作家個人に注目した研究は、時代を理解する上で必須だと思う。そして同時に、能村登四郎の青年時代を研究するということは、藤田湘子をはじめとした馬酔木系の有名無名の青年作家(当時いずれも無名であり、その後結果的に有名になったに過ぎず、当時は誰も彼も無名でありながら、野心に満ちていたはずである)を研究するということである。そうした集団の歴史というのはなかなか研究する機会がないに違いない。

ここでは、能村登四郎のたどった俳壇的生活を能村登四郎の目から見て描いてみたいと思う。

    *

能村登四郎は昭和14年から「馬酔木」に俳句を投稿したといわれている(これが間違いであることは次回述べたい)。28歳であり、当時若い作家がたくさんいたから晩稲(おくて)であるといわねばならない。国学院大学在学中には同人誌で短歌を発表していたが、卒業後はそうした文芸からしばらく離れ、千葉の中学の教師として変化のない生活を送っていた。こうした中で俳句を始める。

当時の馬酔木の状況は、ちょうど加藤楸邨、石田波郷が活躍し、山口誓子が同人参加をして深青集という連作俳句の投稿欄を持っていた時期であった。昭和7年に「馬酔木」がホトトギスから独立してその存亡を危ぶまれた時期からだいぶ落ち着きを得、一方改造社から昭和9年に創刊された「俳句研究」が順調に俳壇をリードして、いわゆる新興俳句と草田男・楸邨・波郷ら人間探究派が脚光を浴びた時期で、これを受けて「馬酔木」は最も華やかな時代であったのだ。特にその直後、波郷は「鶴」(昭和12年9月創刊)を、楸邨は「寒雷」(昭和15年10月創刊)を創刊していたから、登四郎の新人時代とは俳句が希望に満ちあふれていた時代ではなかったかと思われる。

しかし、時代的には、既に昭和12年支那事変(日中戦争)が始まっていたし、直後の昭和16年から大東亜戦争(太平洋戦争)が始まるわけであるから、正確には光と影の交錯した時代であった。

「馬酔木」にも「俳句研究」にも、やがて戦時の風が吹きこみ始める。「馬酔木」には<聖戦俳句抄>が設けられ、「俳句研究」には<支那事変三千句>等の特集記事が出てくる。「馬酔木」作家からも、小島昌勝、相馬遷子、石田波郷らのように従軍して行く作家たちが続出した。いや何よりも、紙の配給制限からみるみる雑誌の頁数が薄くなり粗悪な資質となっていった。やがて、昭和15年には新興俳句系の「京大俳句」「広場」「上土」の俳人たちが治安維持法違反で逮捕されるという弾圧が行われるのである。

昭和16年から20年の休刊まで、この薄い雑誌に登四郎はささやかな市井の営みを詠った俳句を発表し続ける。