2014年12月26日金曜日

(「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代(10)波郷と秋桜子



さて話を少し戻して、馬酔木23年3月号で登四郎の「ぬばたまの黒飴さはに良寛忌」が巻頭となったときに戻ってみたい。すでに見てきた資料によれば波郷は、翌月馬酔木に復帰するという前提で到着した馬酔木の新樹集を読み、登四郎の「ぬばたま」の句が巻頭にあることを見て、「黒飴の句は俳句に必要な具象性を持たない、余りに趣味に溺れた句である」「こんな句を作っているような馬酔木には復帰できない」といっていた。その意味で、波郷にとっては、23年4月号の馬酔木復帰の第1回の投稿は、秋桜子はじめ馬酔木の同人会員に対するメッセージであると同時に、またその直前に馬酔木から離脱した山口誓子一派に対するメッセージでもあり(当時、秋桜子や波郷がいかに天狼に対し敵愾心を持っていたかは後述する)、ひいては全俳壇に対するメッセージでもあった(おそらく、その時の俳壇は、天狼(誓子と新興俳句派)、馬酔木(秋桜子・波郷)、寒雷、草田男を中心に動いていたといってよいであろう)が、しかし一方で、「こんな句を作っているような馬酔木には復帰できない」とまで直前に批判した能村登四郎に対するメッセージでもあったはずだ。
その記念すべき第1回投稿句「春べ」(7句)の第3句が次の句である。

 霜の馬車抱起されて眺めをり

楠本憲吉が触れていたような気がするが、他に余り言及する人がないようだが、この句は、その後推敲を経て、

霜の墓抱き起されしとき見たり

として、戦後の波郷の代表句集『胸形変』を飾る波郷復帰の序曲となったのである。

この句には二つの問題があるとされる。

第1の問題は、この句が昭和40年代に「霜の墓」論争として、抱き起こされたのは誰か(波郷か墓か)という議論が行われたことである。

第2は、この句が波郷の戦後俳句の中でも屈指の名作としての扱いを受けていることである。凄絶な波郷その人の戦後の闘病生活を心象風景として描いている傑作とされている。山本健吉の『現代俳句』を見ても、この句に質量ともに匹敵する大きな扱いで鑑賞を受けている句は波郷の句でも多くはない。次の作品ぐらいであろうか。

女来と帯纏き出づる百日紅 
秋の夜の憤ろしき何々ぞ 
雁の束の間に蕎麦刈られけり

健吉にはそれほど、迫真力ある句として詠まれたと感じられたのであるが、じつは、それは推敲を経た句であったのである。「生活の裡に満目季節をのぞみ、蕭々又朗々たる打坐即刻のうた」(「鶴」昭和21年3月号)ではなかったのである。

 健吉のさわりの文章を挙げてみよう。

江東の波郷の寓居の北側は一面の焼け野原であり、来た窓からそこに墓地が見わたされるのである。波郷は南向きに寝ており、病衰の身を奥さんか誰かに抱き起こされた時、ちらと北窓に「霜の墓」を見てしまったのだ。この「見たり」は、眼底に焼き付いたといったような強い響きがある。ただ霜の焼土に立ち並ぶ墓石を見た、しかもまざまざと見たのである。それは癒えざる病躯を抱いた彼の胸に、つきささるような冷徹な光景である。「霜の墓」――それだけでリアリズム以上のものを彼はつかみ出すのだ。背筋に伝わる冷汗までも、彼の心の衝動までも、性格に描き出すのだ。まことにこの強い響きは「われ霜の墓を見たり」といった衝迫が感じられる。徹底したリアリズムが、見えないものまで、見なくていいものまで、見てはならないものまで、透視させてしまうのである。作者の眼は飽くまでも澄明であり、魂は孤独と寂寥に戦いている。この句はかくて『胸形変』の序曲となる。」 
(山本健吉『現代俳句』)

 「霜の墓」が「霜の馬車」であったことを知って読むと少し滑稽になる。「見たり」が弛緩した「眺めをり」であったことを知るといささか失望を感じ得ない。しかしこれは、添削の力が絶大だと言うことを逆に語っているのだ。二つ三つの言葉を動かすだけで、天下の山本健吉を絶句させ、感銘させ、リアリズムを出現させてしまう、俳句にはそんな秘密の力がこめられているのだ。これは健吉を馬鹿にしているのではない。添削して命が生まれる俳句は、やはりその根底にエネルギーを秘めていたことは間違いないからである。現代の俳人であれば決して取らない「霜の馬車抱起されて眺めをり」は原石であり、磨けばダイヤモンドの光を放つことを作者も直感的に知っていたのである。「霜の馬車」の句を決して馬鹿にしてはいけないのである。

     *

第1の問題について言えば、波郷の「霜の馬車」→「霜の墓」の推敲過程で明らかである。もちろん読者の解釈は様々であってもよいが、もはや現在では余り論争にする価値はないかも知れない。
しかし、第2の、波郷の代表句とするか否かについては、この句の表現における推敲過程(「眺めをり」→「とき見たり」)、そして「霜の馬車」「霜の墓」による波郷の当時の関心など未だに考察する余地がありそうに思う。

ただ私はさらに第3の問題を新たに提起したい。つまり、ほぼ同じ時期に発表された、登四郎の「ぬばたま」と波郷の「霜の墓」の対比だ。登四郎は「波郷は長靴(長靴に腰埋め野分の老教師)なんかを推したけど、現在となっては良寛忌の句の方がいいと成っている」といったが、比較すべきは「ぬばたま」の句と「長靴」の句ではなく、「ぬばたま」の句と「霜の墓」(あるいは「霜の馬車」)の句なのだ。例え不熟な「霜の馬車」の句であってもそこにリアリズムが存在した。だからこそ、添削すれば波郷一代の名句となるのである。なおしようのない「ぬばたま」の句とは違っていた。根本の心がけが違うからである。そしてその視点から言えば、やはり波郷の登四郎に対する「余りに趣味に溺れた句である」という批判は、現在に於いても十分有効だったというべきなのである。

    *

実は、波郷の復帰は秋桜子にも絶大な影響を与えている。23年3月まで、秋桜子の作品は同人作品欄の冒頭に(つまり他の同人と同格で)水原豊の本名で掲載されていた。これは、同格の作家、山口誓子を並べるためにとった方式である(22年10月から誓子の句は掲載されなくなったが、それまでは秋桜子と誓子の掲載順は毎月交代で巻頭となっていた)。しかし、23年4月、つまり波郷参加の月から、秋桜子作品は別格の1頁建てとなった、名前も秋桜子となっている。些細なことであるが、文字通り秋桜子の結社となった宣言だったのである。そして、その23年4月の巻頭頁の作品「春暁」は次のような句であったのである。

夜の大雨やがて春暁の雨となる 
野の虹と春田の虹と空に合ふ 
﨟たけて紅の菓子あり弥生尽

スケールも大きく、また美しい句であり、戦後の秋桜子の復活を語る名句である。やがて、秋桜子の昭和初期の『葛飾』と好一対をなす戦後の名句集『霜林』となって結実するわけであるが、その精神の高調がこのような些細と思われる環境の変化に現れるのである。もちろん、波郷一派の復帰の喜びと、誓子への対抗心が生み出したものではあったが。