1.「文学」のこと
岩波書店の「文学」が本年末の11・12月号をもって休刊するそうである。つい近年も堀切実氏の現代俳句に関する論文が載っていたので、こうした場もなくなると思うといささか寂しいものがある。
国文学関係ではこのほかにも、すでに「国文学―解釈と鑑賞―」が至文堂からぎょうせいを経て休刊、「国文学―解釈と教材の研究―」が学灯社で休刊となっている。(俳句関係で、一時期「俳句とエッセイ」「俳句朝日」「俳句研究」立て続けに休刊となったことを思い出す)
分厚い専門書と違って、様々な切り口からトピカルな話題が満載されていて、不謹慎だが、週刊誌を読むような面白さがあった。以前、評論執筆に当たりずいぶん利用させていただいたし、特に後者については、愛読しているころは思ってもいなかったことだが、自分自身が執筆する機会まで何回か得た。
ここから連想するのが「文学」の運命だ。
2.文学部のこと
さて文部省では、大学の機能の再構築のために大学のガバナンスの充実・強化が求められたとして近年大改革を進めている。「大学改革実行プラン」(平成24年6月文部科学省)、「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて」(平成24年8月28日中央教育審議会)などだ。
国立大学の機能強化は全分野に対するものだが、従来から、人文社会科学系の細分化・蛸壷化による国内外を通じた閉鎖性、現実的課題への対応、が指摘されており、中央教育審議会答申では、特に人文社会科学系学部・大学院の教育について、
①授業内容が体系的に編成されていない、
②博士課程修了者の多様なキャリアパスが確立していない、
③標準修業年限内の学位授与率が低い
などの課題が指摘され今回の改革も人文社会科学系学部の見直しが特に取り上げられているとされる。
このことから当局の「文学部廃止」というセンセーショナルな見出しが新聞でも踊ったこともあり、文部省では次のような説明を行った。
この点に関して、一般に、「人文社会科学系学部・大学院を廃止し、社会的要請の高い『自然科学系』分野に転換すべきというメッセージだ」、「文部科学省は人文社会科学系の学問は重要ではない」として、「すぐに役立つ実学のみを重視しようとしている」「文部科学省は、国立大学に人文社会科学系の学問は不要と考えている」との受け止めがある。果たしてそうなのかと問われれば、いずれもノーである。
すなわち、文部科学省は、人文社会科学系などの特定の学問分野を軽視したり、すぐに役立つ実学のみを重視していたりはしない。人文社会科学系の各学問分野は、人間の営みや様々な社会事象の省察、人間の精神生活の基盤の構築や質の向上、社会の価値観に対する省察や社会事象の正確な分析などにおいて重要な役割を担っている。
また、社会の変化が激しく正解のない問題に主体的に取り組みながら解を見いだす力が必要な時代において、教養教育やリベラルアーツにより培われる汎用的な能力の重要性はむしろ高まっている。すぐに役立つ知識や技能のみでは、陳腐化するスピードも速いと言えるだろう。」「先般の通知において、全ての組織の見直しを求める中で特に教員養成大学・学部や人文社会科学系を取り上げているのは、このような課題を踏まえ、教育の面から改善の余地が大きいと考えているためである。「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」とは、例えば、いわゆる「新課程」を廃止するとともに、その学内資源を活用して、学生が生涯にわたって社会で活躍するために必要となる能力を身に付けることのできる教育を行う新たな教育組織を設置すること等を想定している。
(「新時代を見据えた国立大学改革」(平成27年9月18日日本学術会議幹事会における文部科学省説明資料)より)
しかし、やはり、「古き良き文学部」が残ることは難しいようだ(文部科学大臣決定を受け、関連する学部のある国立大学のうち、8割以上の大学が人文科学系や社会科学系の学部の見直しを予定していると言われる)。
3.文学雑誌がなくなること・文学部がなくなること
文学雑誌がなくなること・文学部がなくなることが、「文学」がなくなることを意味するものではないのはもちろんである。文学研究の発表媒体が変わること、論文作成者――文学研究者の生活基盤が変わること(多くを依存している、国費である文部科学省の科学研究費の応募要領が変わってゆくこと、国立大学の職員の雇用条件)、それを踏まえて学会(俳句関連のものとしては俳文学会であろうか)が変質することが遠い将来はあるかもしれないが、だからと言って直接「文学」そのものが変質するわけではない。
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そもそも、研究活動である文学研究と、創作活動である文学創作が同じ「文学」で語られていること自身が誤解を生みやすいのだろう。もっともこれは、文学に限らす医学(医学研究と治療行為)、法学(法学研究と裁判所における訴訟活動)のように、社会通念上も境目がはっきりしないものもある。
それはそれとして、次の問題は、文学はいかにあるべきかという理念論と、実際の出版業を前提とした現象論とは全く違うことだ。文学研究と文学創作活動が異なるかだけでなく、文学研究現象と創作活動現象の違いにまで落とさないと、上述の問題もよくわからないのである。
理念論では「作者」や「読者」がしばしば出てくるが、逆にそこでは決して出てこない現象活動のアクターがある。
文学研究現象にかかわるのは、大部分の大学研究者と一部評論家であろう。
創作活動現象は俳人である我々自身だ。
文学研究現象が影響を受けても、創作活動現象はそれから独立している。いや、歴史的には創作活動現象のあとを文学研究現象が追いかけるのが普通だろう。
(むしろ近年言われているのは、この二つの現象が乖離し、特に文学研究現象が専門家集団(学会)の中で閉ざされている傾向であろう。この限りにおいて、文科省の見解もわからなくはない。)
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文学雑誌がなくなること・文学部がなくなることを所与の条件として考えるとどんな時代が来るのだろうか。
正岡子規が、文学研究における、帝国大学(東京大学)と東京専門学校(早稲田大学)の比較をしている。記憶にある限りでは、学生の質などはともかく、学問領域が違っていることを漠然と指摘していた記憶がある。確かに、東京大学は国学系の歴史を踏まえて記紀や万葉集、早稲田大学は近世文学とすみ分けをしているようだ。俳文学会の名簿を見ても、会員に国立大学教員は少ないようである。
文学部がなくなるということはすべての文学部がなくなるわけではないだろう。国立大学の改革プランだからだ。文学部における国立大学の地位の低下と、私立大学のウエイトの高まりが待っているような気がする。したがって、おのずと東大系の研究テーマから、早稲田系の研究テーマへシフトするとすれば、俳句文学にとってネガティブな結論ばかりではないようである。(以上は極めて大づかみな、早い意味、家計の議論の際に国民経済分析を持ち込むような議論であるが)
また、最も知的な活動ですら下部構造に支えられてそのパラダイムは決まっていく。旧レジームが作り出したものが現在の研究費の要領や領域だとすれば、新レジームは長い時間をかけて次第にそれらを作り変えてゆく。文学研究現象が文部科学省の言うように、タコツボの中で作り出したテーだとすれば、上記の変動・改革の中で、創作活動現象に接近せざるを得ない。芭蕉・蕪村の詳細・微細な研究から、やがてもっと現実社会や実践に即した、花鳥諷詠や造型俳句の研究こそが未来の研究として登場するのではなかろうか。