2017年5月22日月曜日

【角川「俳句」広告】俳壇論争の中心にいた草田男  筑紫磐井




角川書店「俳句」2017年5月号の特集〈人物特集 中村草田男の遺したもの〉で、俳壇論争の中心にいた草田男というテーマで「吼えるライオン――草田男の論争」を執筆している。戦前からなくなるまで、いつの時代も草田男は俳壇の中心にいた。取り上げたのは次の9つのテーマだが、いまさらながらに人騒がせな作家だったと思う。現代の金子兜太に匹敵するだろう。と同時に、俳句の世界の元気はこうした中で生まれるものだと思う。

…筑紫磐井
 

①ミヤコホテル論争

②人間探求派座談会

③戦争俳句論争

④守旧派に囲まれて(甘やかさない座談会)

⑤戦争責任論争

⑥第二芸術論争

⑦社会性俳句

⑧前衛論争と行動

⑨軽み論争



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2017年2月24日金曜日

【エッセイ】ふけとしこ『ヨットと横顔』(2017年2月創風社出版刊)を読む / 筑紫磐井


「俳句四季」〈俳壇観測〉で「はがき俳信」としてふけとしこ「ほたる通信Ⅱ」をとりあげたら、掲載直前にふけとしこ『ヨットと横顔(俳句とエッセイ)』が届いた。「ほたる通信Ⅱ」と重なっている記事はないのだが、ミニエッセイと俳句で構成されている内容は両者よく似ている。ここで併せて紹介したい。

そもそも、「俳句新空間」でお世話になっている割りにはふけとしこの俳歴もよく知らなかった。新しい本で確認すると、市村究一郎に師事し、「カリヨン」入会、俳壇賞を受賞し、現在「船団の会」と「椋」に所属しているそうであるが、句集や句文集が多いのには驚いた。余り知らなかったのはお互いの環境に原因があるようだ。

市村究一郎は「馬酔木」に所属していたが、昭和59年の歴史的分裂騒動の時、「馬酔木」本体(発行人水原春郎、選者杉山岳陽)から堀口星眠、大島民郎らが分派し「橡」を創刊したとき「橡」に移籍している。私は橋本栄治など残留派の人と親しかったので、「馬酔木」本体の人たちとのつきあいは殖えたが、「橡」との関係は比較的冷淡であった。ただ、馬酔木時代の市村究一郎の作品は読んでいたし、「橡」に移って後には編集を担当し活躍していたことは知っていた。だからどういう事情であったのか、さらに「橡」を退会し、「カリヨン」を創刊するという経緯は不審さが残った。ふけとしこは市村が「カリヨン」創刊前から師事していたと言うから、或いはその辺りの事情を知っているかも知れないが私は余り関心はない。私自身、その後、結社の離合集散と愛憎の激しさは幾つかの例で知っていたし、余りそうしたモノに関与しないで済んだことは幸福だったと思っている。

ただこの本の履歴には載っていないことがある。BLOG俳句新空間で、現在「平成アーカイブとその鑑賞」で「街」を論じているが、「街」のある号にふけとしこという名前や句集特集を見つけて驚いている。当時のふけにもいろいろ揺れる思いもあったのかも知れない。俳人には、様々な巡り会いがあるということだ。そして、俳句雑誌という記録媒体は、たやすくそうした歴史を確認できるということでもある。

   *   *

『ヨットと横顔』を飛び飛びに読んでみる。

「ストロンチウム90」は時期がらだけにてっきり福島原発のことかとおもったが、どうもそれ以前の文章らしい。ビキニ水爆の話から始まり、放射能の恐ろしさより、それを被曝状況を検証するため、乳歯の保存を活用するという実験があったらしいというのが話題で、これも面白い。

「あんぽんたん」では自作の歴史をたどるが、動詞が3つも入っていた時代、それが船団に入って何でもありでどんどん散文化している、と述べているのは納得できる。いい俳句を作ろうと方針もなく足掻くより、自作の歴史をたどる方がよほど上達のためには重要かも知れない。

「秋山小兵衛」は、池波正太郎の『剣客商売』の主人公だが、シリーズ最後の秋山小兵衛の老残の寂しさを考えている。しかし、私より4つ年上のふけとしこの心境は何か身につまされるものがある。

「ホタル」は、実はホタルは可愛がっていた猫の名前だったという落ち。「ほたる通信Ⅱ」はそこから名づけられたのかも知れない。ちなみに、このホタルは2004年新年号に写真が載ったというが、我が家の愛猫ガッチャンは週刊文春2007年1月4日号及び石田郷子監修『猫帖』(ふらんす堂)の2番目に登場している。

「蒲公英」は自宅の一本のタンポポの観察記録。日付、状況、茎長を丹念に記録する。何が面白いのか分からないのが面白い。

    *     *

思うに文章は「起承転結」が必要だと言われているが、それは論理をたどろうとするからだろう。俳人の文章は「起承転」だけでよいと思う。「結」は読者が勝手に自分の頭の中で補うからだ。「ほたる通信Ⅱ」もそうだし、『ヨットと横顔』もそうだが、みじかい分だけ、「結」を削ってしまって良い。これは更に短い俳句について、一層言えることだ。俳人ふけとしこは「起承転」の名手だと思う。

2017年2月10日金曜日

<平成アーカイブ> 「街」とその鑑賞①(創刊号・第3号を読む)  筑紫磐井


「俳句四季」〈俳壇観測〉とBLOG俳句新空間出今井聖の隔月俳誌「街」にふれたので、この際「街」のアーカイブを続けてみることにしよう。もう20年も以前のことである。

●「街」創刊号(平成8年10~11月号)

創刊号の巻頭に「街宣言」が載っている。意味はよく分からないが、今井聖のハイテンションな心の昂ぶりが伝わってくる。「豈」の創刊号にも、攝津幸彦の書いた悪文の「創刊の辞」があるがそれに負けず劣らずの文章だ。

     街宣言 
私たちの俳句よ
魔法のような遠近法に固執しながら
鮮烈な色彩とイメージの連繋によって
リズムは決して意味よりも出しゃばらぬよう
言葉から言葉以上の思いが湧き出す奇跡を
花や鳥や風や月や
歯車やネジやボルトや一切の情趣の束縛を解放して
もっとも素朴なかたちの中に強靭な認識と原初の驚きが拮抗するように
私たちの俳句よ
驀進する「今」という機関車に眺び乗ろう

それがいつ頃か次のような宣言に変わっている。果たして良くなったのか悪くなったのか。
    街宣言 
俳味、滋味、軽み、軽妙、洒脱、諷詠、諧謔、達観、達意、熟達、風雅、典雅、優美、流麗、枯淡、透徹、円熟、古いモダン、睥睨的ポストモダン、皮相的リベラル、典拠の達人、正義の押し付け、倫理の規定、自己美化、ではないものを私たちはめざします。
肉体を通して得られる原初の感覚を私たちは基点に置きます。
私たちは「私」を露出させ解放することを目的とします。

詩のような文章が箇条書きになって、分り易いが面白味には欠けているようだ。特に、複合語の部分は、「古い」モダン、「睥睨的」ポストモダン、「皮相的」リベラル、典拠「の達人」、正義「の押し付け」、倫理「の規定」と価値観の押しつけがあるような気がしないでもない。歴史を書くことは、そのとき真面目なつもりであっても、10年、20年たつと歴史の気恥ずかしさが目立つ物だ。それを超えて通用しなければ歴史的な作品にはならない。

さて、「俳句四季」〈俳壇観測〉で引用した北大路翼の今井批判に「②行き過ぎた拡大解釈」というのがあった。俳句の読みを超えてしまって感傷過多になっているという批判であろう。そのうってつけの例が創刊号の今井聖の作品鑑賞〈未来区鳥瞰〉にあった。

     短夜や明日こそ君に謝らん  北大路 翼

率直、素直な感慨。この作品には輝くような若さが感じられる。年齡的な若さではない。率直、素直な述懐の中にある気持の柔軟さである。俳壇は今若さを求めているらしい。どこの結社も若い人たちの勧誘や養成に力を入れている。しかし、年齢の若さは、肉体の若さ以外の何を意味しようか。芸術の世界はもとより、政治の世界もそうだが、若者なのに考えが古く保守的なひともいれば八十歳を超えても考え方が柔軟で、志を立て理想を追っているひともいる。僕達はそういうひとを何人も見てきた。年を取るということはいろいろなことを知るということだ。知ったあげくに老獪になるか、より純粋な眼差しを持てるかはそのひとの気持にかかっている。知らないで純粋であることはちっとも偉くない。

取り上げているのが北大路翼の作品であることも皮肉である。現在の作風に比較して、北大路の作品としてみれば余りにもあっけらかんとして、古今和歌集を読んでいるような気がしないでもない。創刊号にはこうした気恥ずかしさが免れ得ないものだ。

    *    *

 次に、第3号では、「抒情の現在」という特集を行っている。坪内稔典・宇多喜代子・坂井修一(歌人)・筑紫磐井・今井聖で執筆している。

 当時は私も「街」にしばしば呼ばれている。前回の「俳句総合雑誌八誌の回答から見えてくるもの(鼎談)」もそうだし、次のものもそうだ。初めて「街」に書いた論だと言ってよい。

 今井は、4人の論を受けてまとめとして寺山修司を素材に新興俳句批判をしている。今と変わらないのは立派だが(私は、北大路が今井の特徴であるとする③権威に阿ることに全面的に賛成しているわけではない)、寺山作品は大道芸なのだ、真実とか新しみとか文学とか芸術とかそう言うものとは無縁である、としている。どこか大道芸が劣り、文学芸術が至高のものであるように受取れるが、これこそが文学派の限界ではなかろうか。我々は認識を高めるためにいろいろな概念を使う、それはそれで有効であろう。しかしそこに価値観が生まれるのは胡散臭いものがある。以下の論で、私が多少(今井の心酔している)誓子を揶揄している気味があるのは、こうした理由によるものである。


●第3号(平成9年2~3月号)

抒情の現在性
                

今井聖が雑誌を創刊したという話を聞き感慨深かった。昭和五十六年、聖が楸邨の寒雷集の俊英として活躍していた時期であるから、まだお互い自分の俳句の模索や格闘の真っ最中ということになるであろうか。馬酔木の私と、寒雷の聖とでは物の掴み方、感じ方がかなり違っていたが、硬質な詩性を持つ俳人は余り身近にいなかっただけに聖の一言一句が刺激的であった。新しく「街」という雑誌が創刊され、同人の牙城、佳之子、知津子、義弘という懐かしい名前に微笑むとともに、この「街」が単に結社誌と違い、今では珍しい文学的主張をもった同人誌的青臭ささえ匂わせていることに、今井聖らしい主張と人柄を感じたものである。そんなこんなも含めて、まずはじめに祝意を述べておくことにしよう。

    *     *

与題の《抒情の現在》も、依頼を受けていかにも今井聖らしいなあ、と感じたものであった。いまどき、抒情を――それも抒情の現在を論じようとすること自身逆説的であるからだ。「街」の冒頭宣言に沿って言えば、現代の俳句はむしろ花鳥風月の情趣がのさばり、音喋を喪失している時代のように見える。そうした中で、世の中で余り抒諤眄とも思われていない論者三人(歌人についてはよく存じ上げないので)に抒情を論じさせるのは、今井聖の挑戦でもあるのだろう。

 そうは言いながらも私などの俳句の初学時代を思い起こすと、俳句は新娶な抒情にあふれたものとして現前していたことは告白しておきたい。

来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり 秋櫻子 
ピストルがプールの硬き面にひびき  誓子 
冬空をいま青く塗る画家羨し     草田男 
驀誰かものいへ声かぎり       楸邨

作品は違っても、このような句に感動して俳句を始めるきっかけを持った者は多いはずだ。いずれも新しい風景であった。小説でも詩でも短歌でもなく独特の提示された風景であり、しかも余計なことが書かれていなかった。後代になってみると4Sとか人間探求派とか分類することになってしまうのだが、そうした後知恵を排すれば、昭和初期の俳句とは抒情の時代であったと言ってもおかしくない。少なくとも、俳句を始めたばかりの私などにとっては、こむずかしい俳句史などの理解の無い分これらの俳荀を抒情と信じて疑わなかった。〈作者の俳句史〉とは別に〈読者の俳句史〉として考えるとき、こうした理解は決して誤ってはいないと思う。

     *   *

 しかしそう言いながらも、抒情の俳荀はそれぞれに発展を遂げてゆく。秋櫻子は抒慄から表現の厳密さへ、誓子は抒情から内容素材の拡大へ、草田男は抒情から思想の深みへ、楸邨は抒情から真実へと、抒情はむしろ多様な近代俳句の様相に発展してゆく源泉と成っていたように思われるのである。

ここで最も端的に抒情を代表する秋櫻子を取り上げてみよう。

上に、秋櫻子を抒情から表現の厳密さへと特徴づけたが、通常〈色彩と外光の抒情美〉といわれているだけに目を剥く人もいるに違いない。しかし秋櫻子を抒情に終始した作家と見るのは早計過ぎよう。秋櫻子は余りにも典型的な抒情俳句を完成した為にそこで生み出した財産が見えにくくなっている。

しかし秋櫻子の残したものは決して小さくはなかった。それは新しい範文であった。それまでの俳句は、詩や小説といった他のジャンルの文章にならっていたに過ぎない。子規も虚子も以後の痣豕たちも皆そうだ。

小説が小説として、詩が詩としてその範文を自らの内に作り出したように、俳句が他の真似でない自らの範文を確立したのは秋櫻子によってであった(一例〈来し/かたや/馬酔木/咲く/野の/日の/ひかり〉が、当時の四~五文節の間のびした句に対し七文節という凝縮された俳句に相応しい言語空間を与えているのを見よ!)。誓子は近代俳句の確立者のように言われ、それは誤っていないがそれだけでもない。近代俳句の形式・内容をそれぞれに代表するのが秋櫻子と誓子であった。

以上は一例だが、いずれにしろ抒情は、抒情以外の近代俳句の新しい展開をそれぞれの内部で触発してゆく。私はこれを近代抒情の法則と考えている。ともすれば抒情は抒情だけで存在するようにみられがちであるが、抒情とともに存在したものを見抜くことが実践者にも必要であろう。




2017年1月27日金曜日

<平成アーカイブ> 「街」とその鑑賞①(総合誌を斬る) ――「街」平成16年6月号(第47号)を読む―― 筑紫磐井



平成29年となった。平成という元号もあと2年後の天皇誕生日までであるらしいと新年の新聞各紙が伝えている。そこで後1~2年は眼をつぶり、平成を一つの単位として俳句界を回顧するのも価値があるであろう。私の手元にはそうして執筆したアーカイブがまだ相当あるので、平成の回顧とともに、その一部を紹介してみたいそもそも時評である「俳句四季」〈俳壇観測〉も15年間経過しているが、そこで取り上げなかった時評的記事が幾つもあるので、平成俳壇史を眺める上で参考に供したいと思う。

*****

「俳句新空間」本号に載せた<抜粋「俳句四季」〈俳壇観測〉>に関して少し補足したい。ここで記述した今井聖主宰「街」に関する記事の中に、古い「街」の特集が取り上げてある。それは今から12年前、平成16年4月号(第46号)で行ったアンケート特集である。表題は「鼎談・俳句総合誌八誌編集長に七つの質問〈総合誌の視座・総合誌への視座〉」である。これは結社誌の主宰である今井聖が、8つの俳句総合誌の編集長に質問状を送り、更にその後その回答に関して鼎談を行ったり批評文を書かせるという、挑発的な企画であった。

特集冒頭の今井聖による趣旨を言えば、当時俳人たちが結社誌に内向する傾向が見えてきたけれど、かつては総合誌が登竜門となって新人を発掘したり、俳壇的議論を巻き起こしたりしてきた(山本健吉と高柳重信を例に挙げる)。そこで「現在只今、総合誌は、俳句の様相をどう捉え、何を感じ、どう予測しているのか、またそこに自らはどう関わろうとしているのか」を編集者に聞いてみたというのである。

質問された総合誌と編集長は次の通りである(このうち、現在は3誌が終刊し、また石倉氏以外すべてが編集長から離任している)。

「俳句」海野謙四郎
「俳句αアルファ」石倉昌治
「俳句朝日」越村蔵(終刊)
「俳句界」山口亜希子
「俳句研究」石井隆司(終刊)
「俳句四季」鈴木すみ代
「俳句文芸」勢力海平(終刊)
「俳壇」大塚正彦

また行った質問は次の通りである。

問1 俳句作品の現状をどう見ますか。

問2 俳人について、現状をどう見ますか。

問3 俳句結社(雑誌)の現状をどう見ますか。

問4 俳句総合誌が俳句の未来に対して果たすべき責任があると思われますか。ある、無しのご意見とともにその理由もお聞かせ下さい。

問5 賞を設けている総合誌の方にお聞きします。俳句総合誌が設けている「賞」は、俳人としての評価の確立や新人の登竜門として、公的な役割を持っていると思われますが、多くの賞は、予選の段階では選考委員の選を得られません。それは応募句が多くて、すべてを選考委員が見るのは無理であるという理由によるものと思われます。例えば、応募者に応募原稿冒頭に自選五句を記してもらい、それをもって一次選考とすれば、選考委員に予選から関わってもらえることになりませんか。如何でしょうか。賞の持つ意義等も含めてお考えをお聞かせください。

問6 「売るための企画」と「意義ある企画」の間で苦慮されたことがありますか。ある、無しについて、あればその内容についてお聞かせください。

問7 貴誌の編集方針についてお聞かせ下さい。

顔ぶれ・内容とも何とも空恐ろしいアンケートであるが、質問者でも回答者でもなく、第三者の人ごとだとみれば、こうしたアンケートが意味があるのか、そもそもアンケートが成り立つのかも含めて面白い。今井でなければとても出来ない質問であり、特集企画であった。

どのような回答があったかは興味深いが全文掲げるわけにもいかない。取りあえず、「俳句」編集長海野謙四郎氏の発言を部分的に掲げておこう。海野氏は問1に関して次のように述べている(逆にその他の問には殆ど答えていない)。

「このアンケートについての打診を予め電話で今井聖さんからいただいたとき、とても奇妙な印象というか、違和感を抱きました。」 
「とくに1~3の設問は、総合誌の編集長よりも俳人お一人お一人に向けてお訊きになるべきことであるように思われます。また、俳人お一人お一人は、これらの設問にストレートに答えなくとも、おのおの俳句活動で答えればよいのではないでしょうか。」 
「俳句総合誌があって俳句という文芸があるわけではなく、また俳句総合誌があるから俳人や俳句結社や俳壇があるわけでもありません。山本健吉や高柳重信が編集者として活躍していた時代でも、決してこの順序は変わりはなかったはずです。」 
「編集者は俳人の方から現状や未来について訊かれてお答えする立場にはないと考えるのです。最初に申し述べた違和感とは、こうした、ベクトルの向きが逆であることによって引きおこされたものでした。これは、私が自分の編集する総合誌で「俳句の過去・現在・未来」というような企画を立てるのとはまったく別のことです。」


海野氏の発言が8人の編集長を代表しているように読めたので、失礼ながら限って紹介した。この回答自身、読者の判断にも肯定の意見、否定の意見があろう。しかしそれはさておき、これを当時読んだ私はどうも編集長たちが怒っているのではないか、と感じたものである。ことさらこんな感想を述べるのは、実はこれについて次の座談会に参加することとなった私の状況認識だったからである。こうした怒れる編集長たちに読まれることを認識して、私も注意深く発言しているつもりだからである。

     *        *

さて、前置きが長くなったがこのように、このアンケートを受けて、「街」の翌号(平成16年6月(第47号))において、アンケート特集(Ⅱ)「鼎談・俳句総合誌八誌の回答から見えてくるもの」として、片山由美子・筑紫磐井・今井聖で鼎談が行われることとなった。10数年を経た今それを紹介してみようと思う。ただし、片山氏・今井氏の発言をそのまま引くわけにはいかないのでそれらは簡単に紹介しつつ、もっぱら私の発言を主に引用したい。それだけでもそれなりに全体の印象が分かると思うからである。

実はこのテーマを今再び復活させるのは、「俳句総合誌があって俳句という文芸があるわけではない」という海野氏のまことにもっともな正論が、実は10年以上たった今眺めてみると、「俳句総合誌があるから俳句という文芸がある」という意識に着実に変わっていることに気付きはじめたからである。俳句総合誌(外部)があって俳句(内部)がある――今や俳句はこんな状態にあるようである。俳壇観測で紹介した「街」(平成28年10月号)の今井聖の発言は多少その意図が分かりにくかったが、こんな焦燥から出てきた発言として読めば分かりやすいかもしれない。

俳句総合雑誌八誌の回答から見えてくるもの
 
鼎談・片山由美子 筑紫磐井 今井聖

●冒頭
今井聖の特集意図は既に前のところで掲げたが、座談会本文ではもっと具体的に、「総合誌は厳然と存在し、我々俳人はかなりその存在を意識しているんだけど、総合誌は今いった何を考えているのだろうか、又我々はどういう風に総合誌を捉えているのか、今一つ距離感がはっきりしないというようなことを感じている」と述べている。海野氏の「俳句総合誌があって俳句という文芸があるわけではない」という毅然とした考え方からは必ずしも出発していない。これはやはり、編集者とは違う――編集者から依頼を受ける制作者(俳人)という――現場の弱い立場であるのは否めない。しかし、海野氏がどんなに否定しようと、またそれが正直な印象でもあるだろう。

こうした論点からはじまって、片山氏、筑紫、今井の鼎談がはじまる。冒頭はお互いさりげない。本鼎談のポイントから外れているので飛ばして読んでいただいてもよい。


筑紫
 総合誌は、結社誌とか同人誌では出来ない企画が読めるから魅力があると思うんですが、逆に今回の「街」の企画は総合誌では出来ない企画ですね。結社誌が敢えてやったのは、非常に面白いと思いました。 
 一応各誌の編集長にそれぞれ話を聞いたということで、それなりに編集している人達の考え方が判りますね。ただ回答が必ずしも全部揃っているわけではありませんから、やや情報が足りないということがあるかも知れません。 
 私が俳句を始めたのは、片山さんと同じで、昭和46年か47年かと思いますが、取り敢えず「馬酔木」に、最終的に「沖」に入り、かなり長い間「沖」にいたわけです。 
 「沖」を選んだのは自分なりに現代俳句とは何だろう、と関心を持って色々調べた結果得た結論でした。その時の総合誌は大いに役に立ちました。当時の総合誌では「現代の風狂」シリーズとか「期待の作家」シリーズとか言って兜太とか龍太とか登四郎とか、戦後俳人の中堅クラスが年間を通じて特集されていましたし、それに加えて一世代前の楸邨や誓子等に関する評論が沢山載っていて、それなりに当時の注目俳人の顔ぶれ、俳句の問題などが見えてきていました。それで、当時現代俳句で関心を持たれている作家の一人として能村登四郎という作家も判ってきたんです。因みに当時の「俳句」の誌上構成は、30句作家、15句作家、7句作家という風に作家がランク付けされて発表が行われ、作家の格付けが歴然としていましたね。 
 今は中軸になる作家の特集をシリーズで紹介することも余りないし、句数で作家をランク付けすることもありません。各人が好みで自分が気に入った作家を先生として選べばいいんだということかも知れません。ただ私が俳句を始めた頃のやり方では、いいのか悪いのか別にして、俳壇全体の展望というようなものがよく見えましたね。

●総合誌の意図
ここからが本論である。今井によれば、「街」編集部が提出した質問の冒頭の3問は、編集著たちに対し、①俳句作品と、②俳人と、③結社に対して総合誌からどう見ているかという質問なのだと言う。①から各人が答えている。

筑紫 会社と編集長との関係は、昔のように大らかでなく、編集長はかなり経営の圧迫を受けながら、やらなければいけないという事情があり、ナーバスになっている編集長が多いのではないでしょうか。 
 「俳句」の海野さんとは日頃話しているんですが、俳句に対して何の意見も持っていないなんてことはありませんよ。ここに書くに当たって自ずとナーバスになっている。そうでなければ、一つの雑誌のアイデンティティーなんて出せないと思いますね。「俳句」の編集長の意向に迎合しちや困る、右顧左眄しない俳句作家を求めるという意味じやないですか。 
 戦前の「俳句研究」の山本健吉は、新興俳句に対して人間探求派を生み出したと言われていますが、新興俳句はコマーシャルの対象として改造社が社の方針として採り上げたもので、それに対立するような人間探求派を作りたくて作ったのかなという気もするんです。そういう風に見てくると、編集長は自分の理念通りやっているところと、会社の理念に流されてやっているところとあるように思います。だけどこれは本題から逸れるけれど、実は山本健吉が本当に好きだったのは虚子だったんじやないですか。虚子をべた褒めにしていますよ。だから山本健吉が俳句一般について言っていることは、虚子の例句を前提にして読むと実によく判る。人間探求派は、健吉の論理からいうと新興俳句と同じくらい好きじゃない。ジャーナリストとして、行きがかり上作ってしまったのではないかと思う。 
筑紫 まあ、しかし総合誌の編集長が何を思っていても、作家は作家として活動出来ますね。結社の主宰と違って俳人は何も編集長に迎合する必要はありませんから。

●俳人の意識・総合誌のモラル

②俳人と、③結社に関しては私が口火を切っているようだ。それは勢い、俳人と編集者の関係、矜持の問題となってくる。

筑紫 問2、問3あたりになると、かなりずけずけとした回答がありますね。俳人について「俳句界」の山口さんが、「含羞のある本物の俳人は、本物であるからこそ俳人然としない、ゆえに目下注目される俳人は俳人らしさに欠ける」と、言っていますが、露出している俳人は本物の俳人でないと言っているんですね。そうすると本物の俳人はどこにいるのか、と言いたくなるんだけど、随分思いきったことを言っていますね。(笑)
 それから問3の「俳句文芸」の勢力さんが、「俳句の判っていない主宰が多すぎる、結社の功罪は罪の方が大きいだろう」、なんて言っていますが、これが編集にどういう風に反映するのでしようね、今一つ判りません。 
 しかし、これだけ自分の意見を過激に言う編集者がいるということは、(海野さんと違って)かなり、対等に俳人にもの言うつもりの人もいるということですね。
*     *

筑紫 ある雑誌の特別号に、原稿依頼があったんで、その中にある俳句作家について書いたら、間接的ないい方で削除を求めてきたんです。その作家のことは取りあげない、締め出すというのがその編集長の方針だったんです。結局、先方の言ってきた理屈にもならない枝葉末節な編集上の都合部分は何回も書き直したけど、その作家を取りあげるという本旨の削除はせず通しました。私も意地ですから。
筑紫 俳人の方が毅然とした対応をしていれば、雑誌社の方もそれに応じた対応をしてくる。むしろ弱い俳人が多すぎるので、変な編集長とか雑誌社が出ちゃうということではないですか。 
筑紫 昔、短歌の総合誌では、広告を載せているところに経常的に原稿を依頼しているのがありました。広告によって掲載歌数、頁数まで決まりますから、広告即編集です。 
どうしても生臭い話にならざるを得ない。すると、途中で司会の今井は質問を変えて、これまでの雑誌の企画で印象に残った企画を上げてくれと言い出した。ちょっと軟弱な司会ではないか。 
筑紫 戦前の「俳句研究」の季語特集なんか、潁原退蔵とか、岡崎義恵とか、誓子とか三十人位で書いていて、殆ど単行本と言っていいような内容の企画がありました。これは今でも重宝しています。 
 戦後では、例えば昭和二十九年の「俳句」にある「搖れる日本」という特集で、森澄雄とか、楠本健吉が戦後発表された句を全部点検して、戦後の色々な事件に結びついた二千句を選んでいるんです。これを今読むと、俳句が語る戦後十年みたいな、俳句であるから詠めたんだというようなものがありますね。 
 要するに、五十年、百年たっても使える雑誌もあるんですよね。 
一応司会の指示に従い具体的な企画に移り、片山氏は「俳句研究」の行った〈誰々研究〉あるいは〈追悼特集〉(これは面白い!)、今井は、「俳句研究」で高柳が論争をさせた〈ものと言葉〉論争だという。私は少し斜めを向いたことを発言している。

筑紫 今ちょっと書いていますが類句のことです。俳句は類句が多いということで、昔から色々と特集がなされています。今の類句特集と昔のそれとを較べて見ると、昔の方が遥かに読みでがあります。かつ、昔は否定派が多い。俳句は文学だから類句はいけない、(「降る雪や明治は遠くなりにけり」は先行類句があるから)草田男はいけない、と錚々たる人たちが書いているんです。それと昔の執筆者は過去の論文や記事を真剣に調べて書いているんです。今の類句特集を見ると、僕はこんな類句を作っちやったとか、極く数年の事例をまとめているものが多いような気がします。 
これは、ちょうどこの頃、櫂未知子・奥坂まや、車谷長吉などの類句に関する論争が頂点に達しつつある時期のことであると分からないと、特殊な指摘のように見えるかも知れない。しかし古くて新しい類句・類想問題は、総合誌の厳しさを比較するのに、当時にあってはなかなか面白い基準であったような気がした。もちろん、そういった補足がないと意味が分かりにくかったと反省している。

●「角川春樹」問題

一連の議論の中でやや異質だったのは「角川春樹」問題であった。問4に関連していると考えて今井は取り上げたのであろうが、「角川春樹」問題はこの問いに関し余り本質的な問題ではなかったように思う。今井が、角川春樹の発行編集する総合誌「現代俳句」(当時すでに休刊していたかも知れない)で今井にこの問題で寄稿を依頼し、今井はここで春樹批判をしていたということで片山・今井の二人は盛り上がっていたようだが私は余り関心が無く殆ど発言していない。

筑紫 逆に春樹氏が捕まって、現俳協系の人たちから雑誌に春樹氏の作品を載せるなというキャンペーンが行われたのですが、編集者が載せるに値するとしたものを止めさせることはこれまた言論弾圧につながるだろうと思います。

●賞について
問5では、各雑誌が出している賞について、具体的な提案をしたらどうかと今井が挑発し、結構私もそれに乗って発言している。

筑紫 確かに予選というやり方でやっているところがあると思います。やはり全部見てもらった方がいいと思います。私の本音は、すべてが衆目にさらされていれば悪い選をした選者は干されるといったような選考方法になるだろうということです。結果的に緊迫した評価が行われると思います。情実なんてつけこむ余地がない。それと、皆の点数を足し算して順位をつけるのは問題があると思います。どの委員からであれ、一位の評価を受けた作品の中から最優秀賞は選考されるべきだと思います。

後者の選考方法には片山氏も賛意を表したが、考えてみるとこれから12年たった昨年、私も選考委員に加わった『第1回姨捨俳句大賞』(選考委員:小澤實・仲寒蟬・筑紫)で初めてここで述べた考え方に基づく選考(選者の1位から選ぶ)が行われている。決して思いつきではなかったのだ。
また、予選方式の是非も議論となった。

筑紫 私は予選委員をやったことがあります。

筑紫 二人でやったんですが、色々な個性の作品があったほうが選考委員も楽しいだろうと思って、ユニークな作品も混ぜて渡しました。そしたら現在超大家である或る選者が激怒したというのです。誰だ、こんな句を通した奴は、つて。悪い作品を入れたつもりはないけど、出来るだけ巾を広くし、いいことをしたつもりなんですが。

(片山 選考委員として、なんでこんなものが予選を通って来たの、ということもありますね。)

筑紫 レベルではなくて、バラエティーに富んだ作品がある方が面白いですよ。
 私も「俳句研究」に応募したことがあるんです。予選は通ったんですが、最終的には落ちました。ところが選者の一人の角川春樹が突然こんなものを出して来た奴がいるとがなり立てたというんです。そうしたら、それに応じて皆が、あれはよくないと言い出して、一位の作品はそっちのけの大議論になったというのです。

(今井 でも今、磐井さんの句を種々の賞に応募しても、予選を通るのが厳しいのではないですか。(笑))

 私は予選は悪いとは思っていないが、その多様性ある基準が損なわれるならば、予選も本選も不適当だと考えているだけである。

 
●企画と現実

問6の質問は「売るための企画」と「意義のある企画」を問うのだが、これは今井聖の個人的な関心のようであり、私も余り真面目には答えていないようだ。


筑紫 「売れるための企画」、「意義ある企画」と、「貴誌の編集方針」(問7)の回答を読み合わせていくと、なんとなく。微妙に編集者の辛い気持ちが感じられます。やっぱり「いい企画」というより、商売の成り立つマスで抑えないといけないという気持ちが浮び上ってきます。「いい企画」が売れるとは思っていないのかもしれません。

筑紫 実は私も「俳句空間」という総合誌の編集に加わっていたことがあるのです。

 「俳句空間」という雑誌は、税金対策上、本体の会社の利益を調整する意味合いの雑誌でしたから、経営陣は儲かることを建前としていたでしょうが。編集長は儲からないと確信していました。儲からなくても、節税になっているから責任は問われない。だから初期は夏石番矢さんが、途中からは摂津幸彦さん、仁平勝さん、それに私が加わっていろんな企画を出させてもらいました。

 要するに、いい企画でも、売れるための企画でもなく、自分達はこれをやりたいと思う企画だけをやりました。その意味で自分達がのめり込んでいたから、共感する人には面白かったようです。
 考えて見ると、今の総合誌は潰れていないではないですか。「俳句界」のように身売りをしたり、「俳句現代」のように発行人の特別の事情で止めたのはあるけれど、これだけ犇いていて潰れていないんだから、儲けることだけを考えず、いろんな企画でやったら内容が面白くなるのではないかなあ。

筑紫 おそらく角川書店の場合でも、安定株主の維持と、銀行から円滑な資金調達を確保するためには、健全な経営を維持しなければならない。創業者の遺業だから採算を無視して続けるということは、かなり重荷になってくるのではないでしょうか。


これは当時角川書店系の「俳句」と「俳句研究」が並立しているのは難しいと考えていたための発言だが、やがてしばらくしてから「俳句研究」は終刊し、やはり予想した事態となってしまった。しかし「俳句朝日」の方は、独自のスタンスを持っていたから終刊はまだ予想せず、早すぎる撤退は意外であった。

    *     *

私の発言はおおむね列記したが、ここには載せない片山氏や今井聖の発言も刺戟に溢れていた。しかしかといってこの特集がどれほど生産的であったかはよく分からない。それは参加した各人の責任ともいえようが、状況認識があまりそぐわなかったからだともいえる。今にして思うと、むしろこの時なすべきだったのは、結社の主宰者に対し総合誌に何を期待するかという質問であったかも知れない。

「結社の時代」という景気のいいキャッチフレーズが俳壇に溢れたのはこの10年前のことであった(平成2年7月~平成6年7月)。そしてこれ以後、俳句とは何かといえば、〈俳句上達法を学ぶことだ〉という意識が広く深く浸透して行く時期であった。俳句が精神を動かすという「神話」は、潮の引くように、かつ褪せていった。このようなときに、本当は、総合誌「が」求めるものではなく、総合誌「に」求めるものがあったはずなのだ。総合誌が俳人・結社に求めるものばかりでなく、読者として総合誌に求めるものがあってよかったはずである。もちろん、この座談会の末尾で「総合誌にのぞむこと」で締め括っているが、総合誌「が」求めるもので質問を進めていった結論としては総合誌的視点からのやや矮小な結論で終ってしまったようで、ここで紹介するほどのことはなかったようである。その意味で本来望まれる特集は、海野氏の言うのとは別な意味で「ベクトルが違っていた」かも知れない。鼎談に参加したそれぞれの発言が間違っていたというわけではないが、全体の方向が少しそっぽを向いていたかも知れないのだ。そんなことを思いつつ、なつかしい「僕たちの失敗」としてこの鼎談とアンケートを再び読み直してみたらと思うのである。

 ただそれはそれとして、「街」のこのアンケートは、平成俳壇を代表する「奇問」であったことは間違いないと思う。「俳句四季」29年2月号の「それにしてもこうした特集を組む今井聖の脳構造に興味がある」という私の指摘はこんな背景があったのである。

【付記】当然この平成16年の特集は、平成28年10月号の「街」の特集「師系の内側と外側」に繋がることは、今井聖が編集をやっている以上間違いない。今井聖の心理や成長を探る上でも興味深い。しかしそれについては改めて考えてみることとしたい。

【注】念のため。「俳句総合誌」という名称を使って「街」の鼎談に参加したが、この名称が間違いなく明瞭な概念で使われたか自信がない。今井が質問を提出した雑誌は、「俳句商業誌」であろうが総合誌とはこれに限るものではないだろうし、総合誌といえない俳句商業誌もあり得るだろう。

私のイメージする総合誌とは、短歌で言えば与謝野鉄幹の「明星」、前田夕暮の「詩歌」のようなものである。俳句で過去にさかのぼれば、「ホトトギス」や「馬酔木」も一時期そうした機能を持っていたようである。この定義を決めないと、なかなか正確な議論が出来ないような気がする。


※詳しくは「街」平成16年6月号をお読み下さい。