2017年2月24日金曜日
【エッセイ】ふけとしこ『ヨットと横顔』(2017年2月創風社出版刊)を読む / 筑紫磐井
「俳句四季」〈俳壇観測〉で「はがき俳信」としてふけとしこ「ほたる通信Ⅱ」をとりあげたら、掲載直前にふけとしこ『ヨットと横顔(俳句とエッセイ)』が届いた。「ほたる通信Ⅱ」と重なっている記事はないのだが、ミニエッセイと俳句で構成されている内容は両者よく似ている。ここで併せて紹介したい。
そもそも、「俳句新空間」でお世話になっている割りにはふけとしこの俳歴もよく知らなかった。新しい本で確認すると、市村究一郎に師事し、「カリヨン」入会、俳壇賞を受賞し、現在「船団の会」と「椋」に所属しているそうであるが、句集や句文集が多いのには驚いた。余り知らなかったのはお互いの環境に原因があるようだ。
市村究一郎は「馬酔木」に所属していたが、昭和59年の歴史的分裂騒動の時、「馬酔木」本体(発行人水原春郎、選者杉山岳陽)から堀口星眠、大島民郎らが分派し「橡」を創刊したとき「橡」に移籍している。私は橋本栄治など残留派の人と親しかったので、「馬酔木」本体の人たちとのつきあいは殖えたが、「橡」との関係は比較的冷淡であった。ただ、馬酔木時代の市村究一郎の作品は読んでいたし、「橡」に移って後には編集を担当し活躍していたことは知っていた。だからどういう事情であったのか、さらに「橡」を退会し、「カリヨン」を創刊するという経緯は不審さが残った。ふけとしこは市村が「カリヨン」創刊前から師事していたと言うから、或いはその辺りの事情を知っているかも知れないが私は余り関心はない。私自身、その後、結社の離合集散と愛憎の激しさは幾つかの例で知っていたし、余りそうしたモノに関与しないで済んだことは幸福だったと思っている。
ただこの本の履歴には載っていないことがある。BLOG俳句新空間で、現在「平成アーカイブとその鑑賞」で「街」を論じているが、「街」のある号にふけとしこという名前や句集特集を見つけて驚いている。当時のふけにもいろいろ揺れる思いもあったのかも知れない。俳人には、様々な巡り会いがあるということだ。そして、俳句雑誌という記録媒体は、たやすくそうした歴史を確認できるということでもある。
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『ヨットと横顔』を飛び飛びに読んでみる。
「ストロンチウム90」は時期がらだけにてっきり福島原発のことかとおもったが、どうもそれ以前の文章らしい。ビキニ水爆の話から始まり、放射能の恐ろしさより、それを被曝状況を検証するため、乳歯の保存を活用するという実験があったらしいというのが話題で、これも面白い。
「あんぽんたん」では自作の歴史をたどるが、動詞が3つも入っていた時代、それが船団に入って何でもありでどんどん散文化している、と述べているのは納得できる。いい俳句を作ろうと方針もなく足掻くより、自作の歴史をたどる方がよほど上達のためには重要かも知れない。
「秋山小兵衛」は、池波正太郎の『剣客商売』の主人公だが、シリーズ最後の秋山小兵衛の老残の寂しさを考えている。しかし、私より4つ年上のふけとしこの心境は何か身につまされるものがある。
「ホタル」は、実はホタルは可愛がっていた猫の名前だったという落ち。「ほたる通信Ⅱ」はそこから名づけられたのかも知れない。ちなみに、このホタルは2004年新年号に写真が載ったというが、我が家の愛猫ガッチャンは週刊文春2007年1月4日号及び石田郷子監修『猫帖』(ふらんす堂)の2番目に登場している。
「蒲公英」は自宅の一本のタンポポの観察記録。日付、状況、茎長を丹念に記録する。何が面白いのか分からないのが面白い。
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思うに文章は「起承転結」が必要だと言われているが、それは論理をたどろうとするからだろう。俳人の文章は「起承転」だけでよいと思う。「結」は読者が勝手に自分の頭の中で補うからだ。「ほたる通信Ⅱ」もそうだし、『ヨットと横顔』もそうだが、みじかい分だけ、「結」を削ってしまって良い。これは更に短い俳句について、一層言えることだ。俳人ふけとしこは「起承転」の名手だと思う。
2017年2月10日金曜日
<平成アーカイブ> 「街」とその鑑賞①(創刊号・第3号を読む) 筑紫磐井
「俳句四季」〈俳壇観測〉とBLOG俳句新空間出今井聖の隔月俳誌「街」にふれたので、この際「街」のアーカイブを続けてみることにしよう。もう20年も以前のことである。
●「街」創刊号(平成8年10~11月号)
創刊号の巻頭に「街宣言」が載っている。意味はよく分からないが、今井聖のハイテンションな心の昂ぶりが伝わってくる。「豈」の創刊号にも、攝津幸彦の書いた悪文の「創刊の辞」があるがそれに負けず劣らずの文章だ。
街宣言
私たちの俳句よ
魔法のような遠近法に固執しながら
鮮烈な色彩とイメージの連繋によって
リズムは決して意味よりも出しゃばらぬよう
言葉から言葉以上の思いが湧き出す奇跡を
花や鳥や風や月や
歯車やネジやボルトや一切の情趣の束縛を解放して
もっとも素朴なかたちの中に強靭な認識と原初の驚きが拮抗するように
私たちの俳句よ
驀進する「今」という機関車に眺び乗ろう
それがいつ頃か次のような宣言に変わっている。果たして良くなったのか悪くなったのか。
街宣言
俳味、滋味、軽み、軽妙、洒脱、諷詠、諧謔、達観、達意、熟達、風雅、典雅、優美、流麗、枯淡、透徹、円熟、古いモダン、睥睨的ポストモダン、皮相的リベラル、典拠の達人、正義の押し付け、倫理の規定、自己美化、ではないものを私たちはめざします。
肉体を通して得られる原初の感覚を私たちは基点に置きます。
私たちは「私」を露出させ解放することを目的とします。
詩のような文章が箇条書きになって、分り易いが面白味には欠けているようだ。特に、複合語の部分は、「古い」モダン、「睥睨的」ポストモダン、「皮相的」リベラル、典拠「の達人」、正義「の押し付け」、倫理「の規定」と価値観の押しつけがあるような気がしないでもない。歴史を書くことは、そのとき真面目なつもりであっても、10年、20年たつと歴史の気恥ずかしさが目立つ物だ。それを超えて通用しなければ歴史的な作品にはならない。
さて、「俳句四季」〈俳壇観測〉で引用した北大路翼の今井批判に「②行き過ぎた拡大解釈」というのがあった。俳句の読みを超えてしまって感傷過多になっているという批判であろう。そのうってつけの例が創刊号の今井聖の作品鑑賞〈未来区鳥瞰〉にあった。
短夜や明日こそ君に謝らん 北大路 翼
率直、素直な感慨。この作品には輝くような若さが感じられる。年齡的な若さではない。率直、素直な述懐の中にある気持の柔軟さである。俳壇は今若さを求めているらしい。どこの結社も若い人たちの勧誘や養成に力を入れている。しかし、年齢の若さは、肉体の若さ以外の何を意味しようか。芸術の世界はもとより、政治の世界もそうだが、若者なのに考えが古く保守的なひともいれば八十歳を超えても考え方が柔軟で、志を立て理想を追っているひともいる。僕達はそういうひとを何人も見てきた。年を取るということはいろいろなことを知るということだ。知ったあげくに老獪になるか、より純粋な眼差しを持てるかはそのひとの気持にかかっている。知らないで純粋であることはちっとも偉くない。
取り上げているのが北大路翼の作品であることも皮肉である。現在の作風に比較して、北大路の作品としてみれば余りにもあっけらかんとして、古今和歌集を読んでいるような気がしないでもない。創刊号にはこうした気恥ずかしさが免れ得ないものだ。
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次に、第3号では、「抒情の現在」という特集を行っている。坪内稔典・宇多喜代子・坂井修一(歌人)・筑紫磐井・今井聖で執筆している。
当時は私も「街」にしばしば呼ばれている。前回の「俳句総合雑誌八誌の回答から見えてくるもの(鼎談)」もそうだし、次のものもそうだ。初めて「街」に書いた論だと言ってよい。
今井は、4人の論を受けてまとめとして寺山修司を素材に新興俳句批判をしている。今と変わらないのは立派だが(私は、北大路が今井の特徴であるとする③権威に阿ることに全面的に賛成しているわけではない)、寺山作品は大道芸なのだ、真実とか新しみとか文学とか芸術とかそう言うものとは無縁である、としている。どこか大道芸が劣り、文学芸術が至高のものであるように受取れるが、これこそが文学派の限界ではなかろうか。我々は認識を高めるためにいろいろな概念を使う、それはそれで有効であろう。しかしそこに価値観が生まれるのは胡散臭いものがある。以下の論で、私が多少(今井の心酔している)誓子を揶揄している気味があるのは、こうした理由によるものである。
●第3号(平成9年2~3月号)
抒情の現在性
今井聖が雑誌を創刊したという話を聞き感慨深かった。昭和五十六年、聖が楸邨の寒雷集の俊英として活躍していた時期であるから、まだお互い自分の俳句の模索や格闘の真っ最中ということになるであろうか。馬酔木の私と、寒雷の聖とでは物の掴み方、感じ方がかなり違っていたが、硬質な詩性を持つ俳人は余り身近にいなかっただけに聖の一言一句が刺激的であった。新しく「街」という雑誌が創刊され、同人の牙城、佳之子、知津子、義弘という懐かしい名前に微笑むとともに、この「街」が単に結社誌と違い、今では珍しい文学的主張をもった同人誌的青臭ささえ匂わせていることに、今井聖らしい主張と人柄を感じたものである。そんなこんなも含めて、まずはじめに祝意を述べておくことにしよう。
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与題の《抒情の現在》も、依頼を受けていかにも今井聖らしいなあ、と感じたものであった。いまどき、抒情を――それも抒情の現在を論じようとすること自身逆説的であるからだ。「街」の冒頭宣言に沿って言えば、現代の俳句はむしろ花鳥風月の情趣がのさばり、音喋を喪失している時代のように見える。そうした中で、世の中で余り抒諤眄とも思われていない論者三人(歌人についてはよく存じ上げないので)に抒情を論じさせるのは、今井聖の挑戦でもあるのだろう。
そうは言いながらも私などの俳句の初学時代を思い起こすと、俳句は新娶な抒情にあふれたものとして現前していたことは告白しておきたい。
来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり 秋櫻子
ピストルがプールの硬き面にひびき 誓子
冬空をいま青く塗る画家羨し 草田男
驀誰かものいへ声かぎり 楸邨
作品は違っても、このような句に感動して俳句を始めるきっかけを持った者は多いはずだ。いずれも新しい風景であった。小説でも詩でも短歌でもなく独特の提示された風景であり、しかも余計なことが書かれていなかった。後代になってみると4Sとか人間探求派とか分類することになってしまうのだが、そうした後知恵を排すれば、昭和初期の俳句とは抒情の時代であったと言ってもおかしくない。少なくとも、俳句を始めたばかりの私などにとっては、こむずかしい俳句史などの理解の無い分これらの俳荀を抒情と信じて疑わなかった。〈作者の俳句史〉とは別に〈読者の俳句史〉として考えるとき、こうした理解は決して誤ってはいないと思う。
* *
しかしそう言いながらも、抒情の俳荀はそれぞれに発展を遂げてゆく。秋櫻子は抒慄から表現の厳密さへ、誓子は抒情から内容素材の拡大へ、草田男は抒情から思想の深みへ、楸邨は抒情から真実へと、抒情はむしろ多様な近代俳句の様相に発展してゆく源泉と成っていたように思われるのである。
ここで最も端的に抒情を代表する秋櫻子を取り上げてみよう。
上に、秋櫻子を抒情から表現の厳密さへと特徴づけたが、通常〈色彩と外光の抒情美〉といわれているだけに目を剥く人もいるに違いない。しかし秋櫻子を抒情に終始した作家と見るのは早計過ぎよう。秋櫻子は余りにも典型的な抒情俳句を完成した為にそこで生み出した財産が見えにくくなっている。
しかし秋櫻子の残したものは決して小さくはなかった。それは新しい範文であった。それまでの俳句は、詩や小説といった他のジャンルの文章にならっていたに過ぎない。子規も虚子も以後の痣豕たちも皆そうだ。
小説が小説として、詩が詩としてその範文を自らの内に作り出したように、俳句が他の真似でない自らの範文を確立したのは秋櫻子によってであった(一例〈来し/かたや/馬酔木/咲く/野の/日の/ひかり〉が、当時の四~五文節の間のびした句に対し七文節という凝縮された俳句に相応しい言語空間を与えているのを見よ!)。誓子は近代俳句の確立者のように言われ、それは誤っていないがそれだけでもない。近代俳句の形式・内容をそれぞれに代表するのが秋櫻子と誓子であった。
以上は一例だが、いずれにしろ抒情は、抒情以外の近代俳句の新しい展開をそれぞれの内部で触発してゆく。私はこれを近代抒情の法則と考えている。ともすれば抒情は抒情だけで存在するようにみられがちであるが、抒情とともに存在したものを見抜くことが実践者にも必要であろう。
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