昭和14年から、戦後、秋桜子のもとでの新人たちの活動に参加するまでの期間を、登四郎は「一句十年」と呼ぶ。「殆ど休みなく投句したが殆ど一句で年に何回か二句取られた。句会や吟行にも出かけたが全く振るわなかつた。」(「恩寵」)というように、「馬酔木」に投稿しても一句しか選ばれない時期をこう呼んだである。しかし、実際当時の「馬酔木」を読んでみると、決してそんなことはなかったようである。
「一句時代」が「脚光時代」と対比されるとすれば、登四郎の脚光時代はまだ確かに到着していなかったのであるが、だからといって本当に一句しか選ばれなかったわけではない。登四郎は、こうした印象の強いキャッチフレーズを選ぶ才能に長けていた。おそらく、若い作家を指導するような時期になってから、俳句は息長く、辛抱強く修練しなければならない、ということを言い聞かせるために作り上げた標語であったようだ。特に我々のように移り気な戦後生まれ世代を指導するためには不可欠な標語であったろう。
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萩うねり悉く月のさす方に(昭和15年12月)
枯山の星するどくてひとつなる
入会2年目にして初めての2句欄への登場である。この年登四郎は結婚を果たしている(29歳)。
蒲の穂のしづかなれどもふれあひぬ(昭和16年11月)
盆のものなべてはしろくただよへり
2回目の2句欄であり、長女が誕生している(30歳)。初期の登四郎の志向をよく示している、いい作品である。
ながれあり雨の浮き葉をつづりたる(昭和17年8月)
朝の茶のくらくなりつつ蟇なきぬ
三樹荘
三つの椎いづれも蝉のこゑこもる
初めての3句であり、以後2句欄に定着している。入門4年目であり決して悪い成績ではない。「年譜」では翌18年の項目に「「馬酔木」に殆ど休まずに投句したが、常に一、二句入選の境をさまよっていた。」とあるが状況は少し違うようである。
今瀬剛一『能村登四郎ノート』では面白いデータを上げている(昭和18年12月のデータという)。馬酔木集の入選状況である。いかに厳選であったか、2句、3句となることは至難の業であったことが理解できる。にもかかわらず、登四郎は昭和17年以降、2句常連組を続けるのである(17年8月以降は3句1回、2句4回、18年は2句8回、1句4回、19年は2句8回、1句2回、0句2回であった)。
5句入選・・・・・3人
4句入選・・・・・2人
3句入選・・・・・7人
2句入選・・・・46人
1句入選・・・638人
実際、昭和17年9月号の「諸学者のために(座談会)」第3回では、昭和17年8月の句が馬酔木幹部同人の間で盛んに論じられ、注目を浴びていたことが分る。
滝春一「登四郎さんでは第二句の「朝の茶のくらくなりつつ蟇なきぬ」がいい。」
篠田悌二郎「事柄はしぶい感じなのですが、何か清新な趣がありますね。」
木津柳芽「「・・・つつ」は省略がよく聞いてゐて、俳句の好さを十分に発揮して余情の深いところ、今月の集中で秀れたもののひとつに数へることが出来るでせう。」
だからこそ、実際自信があったものか、愛着が強かったものか、第一句集『咀嚼音』(初版本)では収録されなかったが、戦後出された『定本咀嚼音』で復活している戦前の句が幾つかある。
篁のたそがれあをく雪を敷く 16年7月(新葉抄編集部選)
畦塗にとほきさくらの散り来たる 16年6月
塗桶に芍薬のまだ珠ばかり 19年6月
はたらきに行くは皆ゆき朝ぐもり 18年9月
秋の薔薇重らかなるを鋏たり 14年11月(新葉抄木津柳芽選)
秋耕の何かよばれて屋に入りぬ 15年11月(新葉抄編集部選)
大霜のあかるさ鳰を見うしなふ 15年2月
霜晴の窪まりごとの葦火あと 19年1月
『定本咀嚼音』では、秋桜子選で巻頭となったにもかかわらず波郷の指導で削除された「ぬばたまの黒飴さはに良寛忌」の復活ばかりが有名であるが、これほど沢山の句が復活しているのである。伝説は自分で作るものであるといういい証拠である。
この他に、後の登四郎の作風と通うところのある気になる句を上げておく。
月の暈きのふよりけふのあたたかく 18年4月
調ものうぐひすまれに近くなきぬ 18年5月
寝返ればふたつとなりぬ遠蛙 18年6月
うすきもの掛けし夜よりの青葉木菟 18年7月
きのふ焼きけさは雨ふる畦堤 19年4月
四五枚のいつも雪解のおくるる田 19年4月
いつの間に見てゐし雲や春の雲 19年5月
朝は子とゐし緑蔭や人のゐる 19年8月
ひとりゐる葦刈に鳰もひとつゐる 20年1月
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侘び助や小雪に昏るる壁あをく 15年5月(新葉抄水内鬼灯選)
くつぬぎの下駄かへし穿き十三夜 16年12月(新葉抄編集部選)
三樹荘
ふたつ寄りひとつは離れ月の椎(17年11月例会)
これが戦前の登四郎の俳句だったのである。戦後の特徴とも成る短歌的しらべが顕著であると言うだけでなく、切字や切れのない登四郎の特徴のよく出ている俳句が目に立つのである。
いずれにしろ、「一句十年」は登四郎の作り出した伝説であり、事実でもなく、いかに初学時代に青年は苦しむかの自虐的な教訓に過ぎなかったのである。