2014年9月26日金曜日

(「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代(6)波郷の登四郎批判

ぬばたまの句をめぐる波郷との登四郎の争いを眺めて見たい。波郷のぬばたま批判が初めて活字になるのは次の文章による。


「能村登四郎氏が水谷晴光氏の法隆寺四句を、馬酔木調の綺麗事で現代的な匂ひが乏しいとし、斯かる新古典派的魅力を現代の若い作家が追ふのはどうかといひ乍ら、今後の馬酔木の句は斯くあるべしとして『しらたまの飯に酢をうつ春祭』の句を挙げてゐるのは合点がゆかない。この句や能村氏自身の『ぬばたまの黒飴さわ(ママ)に良寛忌』の方がかへつて法隆寺の句よりも非現代的と、僕などには思へる。かういふ考へが新人会あたりで不思議とされないのだつたらこれは問題であらう。」 
(「仰臥日記」――「馬酔木」24年3月)

これだけでは経緯が分からないであろう。批判される登四郎の文章があるのである。長文であるが引用しよう。

「この「法隆寺」の連作の一聯は、月明の法隆寺の参籠と言ふアトマスフェアに凭れかかつてゐるだけで、この恵まれたモチーフを十分生かしてゐない。私はこの種の作品は昭和十二、三年頃にこそ魅力も価値もあつたが今の苛烈な世相の中でそれがうすれつつあり、やがては全く過去のものとなるであらうと考へる。 
関西から「天狼」が生まれ複雑な戦後の俳壇の潮は又一つうねりを加へて来てゐる。馬酔木の若い私たちはそれらを一種の昂奮に似た気持で眺めてゐるのであるが、そのうねりを私達よりも近くに見てゐる名古屋の若い作者諸君に、私はもつと現代色の濃い作品を詠んでもらひたいのである。 
俳壇で言はれる馬酔木調と言ふものは、根強いものに欠けた綺麗事の句を指摘したものであるが、この作品は遺憾ながらその譏りを受けさうな気がする。 
私はこの句の持つ豊饒さに敬服し、今後の馬酔木の句はかくあるべきだと思つてゐるほどで、晴光君にはこの作よりも遥かに佳いものを期待してやまない。」 

(「馬酔木」24年1月)
しらたまの飯に酢をうつ春祭

この文章も、これだけでは意味が充分分からない。実は馬酔木23年12月号の新樹集で秋桜子の巻頭となった次の作品を批判した文章であったのである。

法隆寺 

松籟にこころかたむけ月を待つ 
十六夜の脇戸くぐるや苔匂ふ 
坊更けてはばかり歩む月の縁 
  勤行に参ずる暁の霧ふかき
つまり、水谷の巻頭句である法隆寺4句に対し、登四郎は

しらたまの飯に酢をうつ春祭(23年6月3席)
をよしとし、この句の持つ豊饒さに敬服した(逆に言えば、法隆寺の作品は根強いものに欠けた綺麗事の句であり全く過去のものとなるであろう作品、これに対し、白玉の句はもつとの苛烈な世相に堪え得る現代色の濃い作品)と述べたのである(「しらたま」の句は23年6月の3席句で秋桜子の推薦句。秋桜子は「酢をうつ」という言葉は俗であり、「しらたまの飯に」という言葉と本来は調子が合わないはずであるが、そこが言葉の生きものであるところで、巧みに配合すれば雅語と俗語がこのようによく調和する、この調和の魔術を心得ているのが詩人なのである)と激賞した)。

ところがこれを波郷は

しらたまの飯に酢をうつ春祭 
ぬばたまの黒飴さはに良寛忌 
ともども法隆寺の句よりも非現代的と思える、と述べている。

確かに法隆寺の句が現代的であるとはとても思えないのであるが、二つの傾向の比較はこの論戦の中で消滅している。ただ「しらたま」「ぬばたま」ともに典雅な趣味の句であることに間違いはない。それを波郷は批判したのである。

ところで、波郷は能村登四郎の傷跡に再度、塩を塗るようなことをするのである。それは、『咀嚼音』の跋文で再び批判をしているのである。

「私が清瀬村で療養の日を送つてゐた頃、馬酔木には、能村登四郎、林翔、藤田湘子の三新人が登場して、戦後馬酔木俳句のになひ手として活躍してゐた。然し馬酔木に復帰して間もなかつた私は能村氏の、の句が、馬酔木で高く認められ、新人達の間でも刺戟的な評価を得てゐるのを見て奇異の感にうたれた。 
「黒飴さはに」の語句に、戦後の窮乏を裏書きする生活的現実がとりあげられてゐる。それだけに、これらの句の情趣や繊細な叙法は、趣味的にすぎて戦後の俳句をうち樹てるべき新人の仕事とは思へなかつた。私は手術をしても排菌が止らず絶望の底に沈んでゐたが、これらの句を馬酔木の新人達が肯定し追随する危険を、馬酔木誌上に書き送らずにはゐられなかつた。 
 その頃の句はこの句集には収められてゐない。私が、今これらの句に触れたのは能村氏には快くないかもしれない。が、たとへその句は埋没しても、その中を通つてきた事実は、能村氏の俳句の内的体験として、後の俳句に何らかの影響(反作用であつても)をのこしてゐると思ふ。」 
(石田波郷『咀嚼音』跋文)

ぬばたまの黒飴さはに良寛忌

実は波郷は、馬酔木に記事を執筆する(24年3月)以前に、登四郎が馬酔木の巻頭としてこの句が掲載された時点(23年3月)で批判をしていたという事実があるのである。冒頭の波郷の文章はその根拠を明確にしただけであって、「ぬばたま」の句が生まれた段階ですでに波郷はこれを否定していたのである。

 「私は有頂天であった。俳句でこのような幸運が得られるとは全く考えたこともなかったからである。ところがこの句には横槍が入った。それは病重く清瀬で呻吟していた石田波郷からであった。当時波郷は未だ「馬酔木」へ復帰していなかった。波郷氏はあの黒飴の句は俳句に必要な具象性を持たない、余りに趣味に溺れた句である。ことに枕詞を使用するなどは、若い生活派といわれる作者のすべきことではない。と難じられたと言うことを「鶴」作家のKからきいた。 
 相手が尊敬している波郷だっただけに、私はようやく獲た王座から転落していくような気がした。私は俳句の世界が考えていたような甘いものではないことをしみじみと知らされた。」 
(「野分の碑」――「馬酔木」41年9月)

「鶴」作家のKとは当時の親交状況からいって草間時彦であろう。これは馬酔木に掲載した文章であるから、波郷が読むことを覚悟して微温な表現になっていると思われる。しかし、少し離れたところではもう少し違った本心を登四郎は覗かせている。

「当時未だ「馬酔木」へ復帰しなかった頃の波郷がひどくその句を非難したということを人づてに聞いた。当時波郷という人についてよく知らなかった私は、何とひどい先輩かと恨んだり、一見おだやかな風の吹く俳句の世界にも、こんな足をひっぱるような残酷があるのかと驚かされたほどである。 
しかし当時の私にはこの先輩のことばを無視する力はなかった。だから私は極めてすなおにしかも謙虚に反省した。私の作風はこの時から美よりも人間興味に傾いていった。」 
(「悪評について」――「南風」43年3月)


一瞬ではあるが登四郎は波郷を人格的に非難しているのである。ただその後の登四郎は、波郷の助言に従って行くようになる。その経緯はまた回を改めて考えてみたいので、ここでは結果だけを示しておく。

「同人の末席についたその時から私は第二の危機にのり上げていくのを感じた。自分の作品についてもっと厳しい批判と反省がなくてはならないと感じた。そんな時に波郷氏のことばが静かによみがえって来た。趣味とした俳句を考えている人は知らないが、少なくとも私は血の滲むような貧しい生活の底から俳句を作っているのだ。当時私は学校の他に夜学を教え、さらにいく人かの家庭教師に自分の持時間のすべてをつかっていた。俳句を作る時間は人の眠る時をつかわなくてはできなかった。そんな中でつくる俳句に生活の実感が流れないのは嘘だ。貧しい自分の現実を確かめ確かめしながら俳句をつくろうとした。」(「野分の碑」――同前)

こうして、26年には馬酔木30周年記念特別作品に「長靴に腰埋め野分の老教師」の句を含めた「その後知らず」(25句)で応募し、その時批評に当たった石田波郷がこの句を激賞したことにより、教師俳句へのはっきりした道が開けてゆく。それが処女句集『咀嚼音』に結実する。やがてさらに、社会性俳句、現代的な心象風景句と登四郎は変貌してゆくのだが、そのなかで、「ぬばたま」の句は、ますます遠く置き去られた作品となっていたのである。

 これが大きく変わるのが、『咀嚼音』が定本として復刊されるときである。

「改版にあたって気に染まない句を二十句ばかり捨て、初版に洩らした句を三十八句ほど加えた。その中には「ぬばたまの黒飴さはに良寛忌」のような私の思いでふかいものも載せた。二十年という歳月が私にそうしたものを許容させたのかも知れない」 
(『定本咀嚼音』後記――昭和49年5月)

 これは理由がやや不分明だ(また加えた句38句は、後述の湘子の論によれば57句だそうだ)。加えた理由をもう少し具体的に述べている言葉がある。


「あの作品が作られた二十年から二十九年はいわゆる戦後の暗黒時代で、国民全体が戦争という罪の贖罪のような苦業に充ちた生活をしていたので、私は俳句を通して美や自然を詠うことをつとめて避けた。自然、職場とか仮定とかに素材が限られた・・・。

それから二十年経って世の中も私の俳句観も変わった。今は人間や生活と言うものにそれほど固執しなくなった。むしろ、大きな自然の中に人間も生活も存在しているのだと思っている。生活のにおいがないという理由で落とした何句かが、こんど採録されている。」


(「定本咀嚼音について」――沖49年4月)

 しかし、これだけでもまだ状況が判明しない。理由が痛切には伝わらない綺麗ごとなのである。そしてこれをはっきり明言した資料がある。

「波郷が、5年前に書いた“ぬばたま”批判を、作者の処女句集の跋文であえて繰り返した理由はなんであったか。それは、という波郷推薦の一句に到るまでの、能村さんの成長過程を語るための行文上の手段であったようにも思える。そう思うほうが当たり障りなくて無難である。けれど、私はもっと下賎な推測をはたらかしてしまう。どういう推測か。それは『咀嚼音』の草稿に“ぬばたま”の句も含まれていたからだ、ということである。『咀嚼音』は自選四百五十句を草稿として波郷の閲を乞い、波郷はこれを三百八十余句に削ったと「後記」にある。つまり、波郷が削った七十句足らずの作品の中に“ぬばたま”があった。こんなことは能村さんに訊いてみればすぐ判ることだけど、私はあえて自分の推理を楽しむ。“ぬばたま”の句を見たからこそ、波郷はカチンときて、これに跋文でまず触れたのではあるまいか。下種の勘ぐりと言われるかも知れないが、私はそう思うのである。 
 もっとも、私がそうした推測をする根拠が全く無いわけではない。能村さんの“ぬばたま”に対する愛着が、とりわけ深いと言うことを感じ取れるからだ。」・・・自註シリーズの『能村登四郎集』に、<秋桜子に褒められたが波郷に難じられた句。これも後に定本の中に加えたのは、とにかく出世作だったからである>とあるのをまつまでもなく、こうした要(かなめ)の句は作者の溺愛をうけるようになっているのだ。『咀嚼音』の草稿に“ぬばたま”が入っていたことは、ほぼ間違いないと思う。」) 
(藤田湘子「『咀嚼音』私記」――沖55年10月)
長靴に腰埋め野分の老教師

これは推測だと言うが、登四郎がまだ元気な頃書かれた文章である。登四郎はそれを否定していない。特に、『咀嚼音』直後『途上』と言う句集を出し、その出版社が同じ近藤書店であり、その句集の構成も『咀嚼音』と全く同じ秋桜子の序文・波郷の跋文のついていたことを思えば、この状況が最もよく分かるのは湘子自身であったし、ここにあるようにいかにもありそうな状況だったのではなかろうか【注】(その後、平成2年の富士見書房『能村登四郎読本』の「自句自解(五十句)」で「初版『咀嚼音』は波郷選によるものでこの句は落とされている」とさりげなく書いているから湘子の指摘はまさしく正しかったのだ)。

 そしてこのことからも、波郷が跋文いうように「その句は埋没しても」はたった今埋没させたのだとすれば、それは6年前(23年)の過去の事実ではなくて、句集編纂の現在(29年)の問題であった。そしてそれを再び復活させない波郷の固い意志は「後の俳句に何らかの影響(反作用であつても)をのこしてゐる」に明らかなのである。“ぬばたま”の句は「反作用」としてしか価値を持っていない。

 波郷との闘争がそこから始まるのである。


【注】「ぼくが「咀嚼音」を出版した後で、洩れきいた話では先生が湘子に「能村君が句集を出すまでは待っていなさい。先に出してはいけないよ。」といわれたそうである。つまり湘子の句集上梓は、すでに先生のそんな言葉があった程熟していたのである。「咀嚼音」出版後一年にして彼の青春句集「途上」が出版された。(能村登四郎「偽青春」――「南風」32年3月)

2014年9月19日金曜日

(「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代 (5) 新人会 /  筑紫磐井

既に述べたように、昭和22年1月25日に高雄山麓高橋家で馬酔木の復刊記念俳句大会が開かれていた。この時、湘子は秋桜子特選となった。

風音のやめば来てゐし落葉掻 藤田湘子
ただし、この時の参加者申し込み者は100名を超え、特選句も20句ほどが取られているから、湘子だけが特別扱いになったと言うことではないようである。ただ1点も取れなかった登四郎のショックは大きかったようである。

湘子が本当に特別扱いになったのは、22年4月に、その登四郎を傍目に巻頭となった時である。

高雄山麓 
雪しろき奥嶺があげし二日月 藤田湘子 
夕月や雪あかりして雑木山 
雑木の芽尽き照るまでに太りをり 
月落ちて川瀬に小田の雪あかり

「(「月落ちて」の句)1月末の俳句会のとき、遠くから来た人が二三人高雄の宿屋に泊まり、未知どうしながらすぐうちとけて、また句会をひらいたといふ話をきき、いかにも俳句作者らしくて面白いと思つた。この作者もその中の一人で、句はその時に出来たものであらうと想像される。
私達が高雄から引き上げようとする頃、西空に繊い月が出てゐたが、夜も更ける頃は、それが峰のかげにかくれ、谷沿ひの小山に積ってゐた雪が、ほのかに川瀬を照らしてゐたのであらう。実に静かで、且つ淋しい風景であるが、感じが確と捉へられ、そのままに現はされてゐるので、読んでゆくうちに身にしみるやうな寒さをおぼえる。勉強ざかりの人が、かういふ仕事をするのは実によいことで、後になって見ると、かういふ一句一句が、骨となり、肉となって、自分を築いたといふことがわかるであらうと思ふ。」(水原秋桜子「選後に」)

やがて若手の中核、藤田湘子、秋野弘を得た馬酔木では、前述した通り、22年8月23日篠田悌次郎による新人会での指導が始まる【補注】。毎月の会は三菱地所勤務の五十嵐三更の便宜により丸ビルで開かれていたのである。水原秋桜子の指示により、12月から登四郎、翔が新人会に参加を許される。

私は、林翔からこんな手紙をもらっている。

登四郎・翔の両人が初めて新人会に出席したのは昭和二十二年十二月です。出席は悌二郎先生以下十三名、悌二郎は出句せず、各自二句の出句でした。宮城了子が紅一点で、夫の二郎も出席していましたが、二郎は病状の悪化で翌年から来られなくなり、了子も翌年は一度しか出席していません。十二月の会では小生が最高点で悌二郎特選にも入りましたが句集に入れていません。新人会の例会場は丸ビル8Fの一室で、新人会員五十嵐三更が三菱地所の社員だったから借りられたのだと思います。 
新年だけは会場を変えるならわしで、二十三年一月は涵徳亭、二十四年一月は八王子の喜雨亭でした。涵徳亭での句会では秋野弘が最高点、登四郎が二位、しかし登四郎は「ぬば玉」の句が悌二郎選に入ったわけです。二月は登四郎が断然トップで、悌二郎特選三句を独り占めしました。三月は湘子が最高点、この月から民郎も出席するようになりました。民郎は鎌倉の草間研究会(正式な名称かどうか知りませんが)に出ていたので新人会へはやや遅れて入ったのです(草間研究会は時彦氏の厳父草間時光の指導する会でした。時光は馬酔木同人、後の鎌倉市長です)。女流は宮城了子が来なくなってから馬場移公子が紅一点となりました。小林広子、山本貞子を挟んで、殿村敏子派女流の五番目、二十四年一月からの入会です。」(昭和59年4月5日付)

 少し分かりにくいので、整理してみよう。昭和22年12月は丸ビル8階の会議室で13名で新人会が開かれた、話題の宮城二郎も出席していたが、おそらく最後の新人会への出席であったろう。翌昭和23年1月は後楽園の涵徳亭で句会が開かれ、ぬばたまの句が悌二郎選に入る。文面からすると悌二郎「特選」であったかどうかは分からない。

ぬばたまの黒飴さはに良寛忌
さらに、この句を馬酔木に投じて、馬酔木3月号の新樹集で秋桜子選の巻頭となる。登四郎は、やっと、これで湘子たちに追いついたのである。

今の世で、童達がたやすく貰へる菓子といつたら、まづ第一に飴に指を屈することになるだらう。いや、これは現代だけの話ではない。むかしも飴ならば手に入れやすく、童好きの良寛上人は、袂の中にこえをしのばせて、童達に与へるのを楽しみにされたと想像される。良寛忌にあたつて、黒飴を見た作者の頭の中では、自然にこの句の着想が浮かんで来たにちがひない。
そのうへに、良寛上人は、飴屋の看板を書いてゐる。これが越後のどこかに残つてゐる筈だ。
――そんな因縁もからんで来ると、この句の味はひは相当に深くなる。さうして全体に高雅な燻しをかけるために、作者は「ぬばたま」といふ枕詞を用意したのである。
こんなわけで、この句はなかなか念が入つてをり、古典的の風格を持つと共に、現代生活とも関聯してゐる。完成するまでに相当時間がかかつてをることと思はれる。」(水原秋桜子「選後に」)

ちなみに、5月には盟友林翔も巻頭となっている(花烏賊やまばゆき魚は店になし)から、まとめて言えば、後発組が先発組に追いつき始めた時期であったわけである。

23年3月号の馬酔木では「新樹集関西の人達」という関西の新樹集上位作家の批評座談会が載っている(2月1日丸ビルにて)。これは登四郎が作品以外で登場した初めての場であったのではないか。このときのメンバーは、篠田悌二郎、藤田湘子、能村登四郎、林翔、宮田忠一、大網弩弓、五十嵐三更、浅沼稚魚、秋野弘(司会をしていると思われる)が出席しており、登四郎は既に新人会の中心作家となりつつあるのである(登四郎は直前の2月号では次席であった(咳なかば何か言はれしききもらす)。盟友林翔は1月号で3席と、登四郎に先立ち巻頭の近くにいたのである(今日も干す昨日の色の唐辛子・寒釣は残り釣見る人は去る))。

この結果、23年の巻頭は次の通りである(22年の巻頭も参考に加えてみた)。23年の新樹集巻頭は、ほとんど若手によって占められているのが分かる。それも、藤田湘子が3回、能村登四郎が3回、水谷晴光2回、林翔2回と少数の作家が独占することとなった。登四郎が「一句十年」という言葉で述べた鬱屈した思いは、ここにやっと氷消するかに思える。

22年 2月 忽然と雪嶺うかぶ海のうへ      澤聡
   4月 月落ちて川瀬に小田の雪あかり    藤田湘子
23年 1月 揚舟をかくさんばかり干大根     藤田湘子
    2月 日を仰ぐ咳やつれせし面輪かも    竹中九十九樹
    3月 ぬばたまの黒飴さはに良寛忌     能村登四郎
    4月 さふらんに沖かけて降る雪しばし   水谷晴光
    5月 花烏賊やまばゆき魚は店になし    林翔
    6月 茶摘み唄ひたすられや摘みゐつつ   藤田湘子
    7月 部屋ごとにしづけさありて梅雨きざす 能村登四郎
    8月 霧騒ぎいたましきまで鮭群れつ    沢田緑生
    9月 夕潮の紺や紫紺や夏果てぬ      藤田湘子③
   10月 逝く汝に萬葉の露みなはしれ     能村登四郎③
   11月 さつまいもあなめでたさや飽くまでは 林翔②
   12月 十六夜の脇戸くぐるや苔匂ふ     水谷晴光②
(数字は年間通算巻頭回数)

24年も同様に多くの若手が巻頭を占め(23年ほど独占的ではなかったが)、25年には晴れてこの巻頭作家たち――藤田湘子、能村登四郎、水谷晴光、林翔の4人が同人に迎えられるのである。

  *

私が思うに、こうした結社での抜擢は、その作家の力量だけでなく、選者・主宰者の「発見」が画期的な抜擢を生むのである。高雄で馬酔木の復刊記念俳句大会の特選がなければ藤田湘子は巻頭になることもなかったであろうし、篠田悌二郎の推薦・特選がなければ能村登四郎の巻頭もなかったであろう。これは依怙贔屓とは違う、認識論の問題だ。それまで同じ俳句を作っていても、選者・主宰者の注目を浴びることでその作者の価値が変わって見える。そしてまた、選者・主宰者の見る目が変わることによって、作者自身にも自分の目指す方向が新しく見えてくるのである。

同様のことはずっとのちのことであるが、当時大学生だった福永耕治が「ざぼん」主宰米谷静二に変わって福岡空港に水原秋桜子を迎えに行くことがなければ、その後の福永耕治の巻頭、そして東京に出て馬酔木編集長として活躍するという抜擢はあり得なかったと思われるのである。
注目されるということが作家を大きくするポイントなのである。

【補注】初期の新人会の様子を、秋桜子はこう語っている。

(水原秋桜子が疎開していた八王子へ来て泊まって帰った藤田湘子と一緒に)東京へ出て、秋野弘君の勤務先へ立寄り、それから私は病院へ藤田君は篠田君の所へ行つた。この頃は、篠田君の所か秋野君の所かへ寄ると、たいてい若い人が集つてゐるし、居ないでも消息はよくわかる。我々もむかし最も作句に熱中したときには、たいていどこかに集ってゐたものだ。いままで新樹集の作者達には、かうした交わりがなかつたのである。近頃急にこのやうな状態になつたのは、やはり一つの機運といふべきで、俳句の向上する道程であると思ふ。私はこの人達十五六人の会を作つて、新人会と名づけ、その薫陶を篠田君に託した。そこで毎月一回後楽園に集り、お互いに厳しい俳句の批評をするのであるが、会員の二三人にあつたとき、感想をきいて見ると、とても怖い感じの会であるといふので、安心した。怖い感じのする会で、十分鍛錬されなければ、俳句など巧くなるわけがないからである。
(「江山無尽」馬酔木22年10月)
もちろんこの中にまだ能村登四郎は入っていない。

      *

こうしたところへ大事件が起こる。馬酔木にとっても大事件であったが、能村登四郎にとっても(あるいは藤田湘子にとっても)俳句人生を大きく転換させる大事件であった。23年3月(「ぬばたま」の句巻頭の月)、石田波郷が馬酔木に復帰するのである(作品発表は4月から)。

このたび、石田波郷君が同人に復帰し、石塚友二、石川桂郎、大島四月草、中村金鈴の四君が、新たに同人として加はることになつた。主宰者としても嬉しいことであるし、会員諸君も熱望して居られたことなので、とりいそぎ御知らせする。(三月三日喜雨亭)
(水原秋桜子「後記」――「馬酔木」23年3月)

2014年9月14日日曜日

(「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代 (4)  /  筑紫磐井 

それでは終戦直後の登四郎の俳句を眺めてみよう。特に気になった句を選んでみる。

【21年】

曇日のいささか晴れて枇杷の花(昭和21年1・2月)3月は休刊
咲く梅にみちびく畦の焼かれあり(昭和21年4月)
いちはつの二番花なり雨の後(昭和21年6月)戦後初めての2句
蟇ないてけさくる筈のひとが来ず
懐石や春の海ゆくさよりなど(昭和21年7月)
くすぶりてゐる籾殻に月のこす(昭和21年11月)
【22年】

日がさせばためらひてゐし雪やみぬ(昭和22年3月)
かまはずに置かれし客の梅に立つ
牡丹活けよしありげなる調度など(昭和22年7月)
緑蔭に居りし人なり漕ぎいづる(昭和22年8月)
とほき帆やさらにとほきは秋の雲(昭和22年11月)
出水なか灯りて常のひとりむし(昭和22年12月)戦後初めての3句
くちびるを出て朝寒のこゑとなる
さがしものあるや雨月のみだれ箱筥

戦前の作品と殆ど変化してないことが分るであろう。

   *

しかし、画期的な変化は、競争からくる。

上から見ても分かるように、21年から復帰を果たしたものの、5月、8月から10月、12月、22年の2月は作品発表がないが、これは落選していたものらしい。

没になった時、当時編集をしていた木津柳芽を訪れるが、柳芽は句稿をしばらく見て、「こりゃあひどい、並々ならぬまずさだ。」と言い放った。その時の絶望感は大きく、帰路涸れ川を前にしばらく座り込み、俳句を殆ど止めようと言うまでの決意をした、と後に語っているが、事実かどうかはよく分からない。「一句十年」と同じくフィクションかもしれない。

このようなさなか、昭和22年1月馬酔木復刊記念大会が高雄で開催された。戦後初めての大規模な大会で、全国から100人近くが集まった。この大会の句会で、藤田湘子は秋桜子の特選となったが、登四郎は全くふるわず、帰り道には俳句をやめようと決心したという。この時、俳句をやめかけていた能村登四郎を励ましたのが宮城二郎だという。この青年俳人は、石田波郷の「馬酔木」復帰への橋渡しをしながら、波郷の「馬酔木」復帰後、日を経ずして不帰の人となった伝説的人物であった。能村登四郎が参加した高雄の大会で帰る途次、二郎と出会い、俳句をやめようと思っている話をすると「いや貴方はもう一歩というところにいるんだ。秋桜子先生もそれを認めていらっしゃる。今やめては今までの努力が水の泡になる。一度先生と会った方いい。」とすすめられる。実はこれもフィクションかもしれない。ただこう言うフィクションでこそ語られる登四郎の心情はあるのであろう。

この時後述するように登四郎は、あまりの成績の悪さに前半の句会で帰ってきてしまったのだが、その時句会場では秋桜子がこんな訓話をしていたのを知っていたのだろうか。

「本日集った諸君は新樹集の二句一句級の人々であるが、この二句級の人々の使命といふものはなかなか重大で、二句のところにすばらしい着想の句があつたり、技巧の新機軸が示されてゐたりすると、三句級以上の人はそれによつてつよい刺激をうけ、発奮することになるから、集全体の価値が高くなる。しかし、この新発想とか新着想とかいふものは、必ず堅実な研究の上に立つべきもので、いい加減の思ひつきなどであつてはならない。また一方からいへば二句級の人の句は堅実な風をもつてゐて、集全体をしつかりしたものにしなければならない。要するに、ここには大きな使命があつて、責任は重いのであるが、とかく二句級まで進出すると、一安心といふ気持ちになつて、句が弛緩するおそれがあり、また二句を維持してゐたいといふ考から、当時流行の技巧を真似て、安易な作を提出することになり易い。ここらは大に戒心を要するのである。」

正に、二句一句級で右往左往している登四郎の迎えている危機であったのである。

  *

それはともかく、登四郎はそれまで句会に出ても、秋桜子に接して口をきいたことがなかったという。実は戦争中に自宅も病院も焼失して八王子に疎開していた八王子の秋桜子の家に、21年夏休みの終り頃、林翔と訪問したが留守で会うことが出来なかった。やがて、二郎の勧めもあり勇を奮って、秋桜子の勤める宮内省病院を訪れると、秋桜子は温かく迎え、帰りがけに「馬酔木は若い人を育てるために新人会というものを興して篠田君に指導してもらっている。そこに入る人は皆僕が指名した人を入れるようにしている。君もそこへ入って勉強したまえ。」と激励したのだという。
実はすでに馬酔木の新人発掘は動き始めていたのだ。登四郎が沈滞に陥っていた時期に、登四郎を置いてきぼりにして、21年の後半から馬酔木に漸く新人が台頭し始める。

その一つに、戦後、秋桜子傘下の句会として発足した三菱俳句会があり、この中に秋野弘、五十嵐三更その他の若手がいた。当時の秋桜子の最も期待している若手であった。

これと別に、先に述べたように高雄で馬酔木の復刊記念俳句大会で特選を得た藤田湘子も馬酔木をになう中心人物として注目され始めた。

やがて、これらの動きが(おそらく秋桜子の意図を踏まえて)合流して、22年8月23日に、後楽園涵徳亭に藤田湘子、秋野弘等9名が集会し、篠田悌次郎指導する新人会として始まる。しかしこの新人会にはまだ登四郎は招かれていない。

新人会に関しては、やや遅れてであるが上記のような秋桜子の薦めもあり遅れて参加する。しかし、林翔によれば、秋野弘から能村登四郎、林翔の両氏の参加を認めるという通知が届いたものの、林翔が登四郎にそれを伝えてもうれしそうな顔をしなかったという。秋野らとは微妙な関係があったことは後ほど述べたい。

このように、「一句十年」という戦前からの不遇の伝説よりももっと重要なのは、後からやってきた新人たち(湘子たち)に追い抜かれた鬱屈した感じの方であったと思うのである。

【注】当時秋桜子の眼中にあったのは、水島龍鳳子、藤田湘子、沢田緑生、矢吹蕗の薹、冨田蒼棲と言った人達であったが、もっと佳い句が出来る筈であると評されていた(21年12月)「片々帖」)。