2014年9月19日金曜日

(「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代 (5) 新人会 /  筑紫磐井

既に述べたように、昭和22年1月25日に高雄山麓高橋家で馬酔木の復刊記念俳句大会が開かれていた。この時、湘子は秋桜子特選となった。

風音のやめば来てゐし落葉掻 藤田湘子
ただし、この時の参加者申し込み者は100名を超え、特選句も20句ほどが取られているから、湘子だけが特別扱いになったと言うことではないようである。ただ1点も取れなかった登四郎のショックは大きかったようである。

湘子が本当に特別扱いになったのは、22年4月に、その登四郎を傍目に巻頭となった時である。

高雄山麓 
雪しろき奥嶺があげし二日月 藤田湘子 
夕月や雪あかりして雑木山 
雑木の芽尽き照るまでに太りをり 
月落ちて川瀬に小田の雪あかり

「(「月落ちて」の句)1月末の俳句会のとき、遠くから来た人が二三人高雄の宿屋に泊まり、未知どうしながらすぐうちとけて、また句会をひらいたといふ話をきき、いかにも俳句作者らしくて面白いと思つた。この作者もその中の一人で、句はその時に出来たものであらうと想像される。
私達が高雄から引き上げようとする頃、西空に繊い月が出てゐたが、夜も更ける頃は、それが峰のかげにかくれ、谷沿ひの小山に積ってゐた雪が、ほのかに川瀬を照らしてゐたのであらう。実に静かで、且つ淋しい風景であるが、感じが確と捉へられ、そのままに現はされてゐるので、読んでゆくうちに身にしみるやうな寒さをおぼえる。勉強ざかりの人が、かういふ仕事をするのは実によいことで、後になって見ると、かういふ一句一句が、骨となり、肉となって、自分を築いたといふことがわかるであらうと思ふ。」(水原秋桜子「選後に」)

やがて若手の中核、藤田湘子、秋野弘を得た馬酔木では、前述した通り、22年8月23日篠田悌次郎による新人会での指導が始まる【補注】。毎月の会は三菱地所勤務の五十嵐三更の便宜により丸ビルで開かれていたのである。水原秋桜子の指示により、12月から登四郎、翔が新人会に参加を許される。

私は、林翔からこんな手紙をもらっている。

登四郎・翔の両人が初めて新人会に出席したのは昭和二十二年十二月です。出席は悌二郎先生以下十三名、悌二郎は出句せず、各自二句の出句でした。宮城了子が紅一点で、夫の二郎も出席していましたが、二郎は病状の悪化で翌年から来られなくなり、了子も翌年は一度しか出席していません。十二月の会では小生が最高点で悌二郎特選にも入りましたが句集に入れていません。新人会の例会場は丸ビル8Fの一室で、新人会員五十嵐三更が三菱地所の社員だったから借りられたのだと思います。 
新年だけは会場を変えるならわしで、二十三年一月は涵徳亭、二十四年一月は八王子の喜雨亭でした。涵徳亭での句会では秋野弘が最高点、登四郎が二位、しかし登四郎は「ぬば玉」の句が悌二郎選に入ったわけです。二月は登四郎が断然トップで、悌二郎特選三句を独り占めしました。三月は湘子が最高点、この月から民郎も出席するようになりました。民郎は鎌倉の草間研究会(正式な名称かどうか知りませんが)に出ていたので新人会へはやや遅れて入ったのです(草間研究会は時彦氏の厳父草間時光の指導する会でした。時光は馬酔木同人、後の鎌倉市長です)。女流は宮城了子が来なくなってから馬場移公子が紅一点となりました。小林広子、山本貞子を挟んで、殿村敏子派女流の五番目、二十四年一月からの入会です。」(昭和59年4月5日付)

 少し分かりにくいので、整理してみよう。昭和22年12月は丸ビル8階の会議室で13名で新人会が開かれた、話題の宮城二郎も出席していたが、おそらく最後の新人会への出席であったろう。翌昭和23年1月は後楽園の涵徳亭で句会が開かれ、ぬばたまの句が悌二郎選に入る。文面からすると悌二郎「特選」であったかどうかは分からない。

ぬばたまの黒飴さはに良寛忌
さらに、この句を馬酔木に投じて、馬酔木3月号の新樹集で秋桜子選の巻頭となる。登四郎は、やっと、これで湘子たちに追いついたのである。

今の世で、童達がたやすく貰へる菓子といつたら、まづ第一に飴に指を屈することになるだらう。いや、これは現代だけの話ではない。むかしも飴ならば手に入れやすく、童好きの良寛上人は、袂の中にこえをしのばせて、童達に与へるのを楽しみにされたと想像される。良寛忌にあたつて、黒飴を見た作者の頭の中では、自然にこの句の着想が浮かんで来たにちがひない。
そのうへに、良寛上人は、飴屋の看板を書いてゐる。これが越後のどこかに残つてゐる筈だ。
――そんな因縁もからんで来ると、この句の味はひは相当に深くなる。さうして全体に高雅な燻しをかけるために、作者は「ぬばたま」といふ枕詞を用意したのである。
こんなわけで、この句はなかなか念が入つてをり、古典的の風格を持つと共に、現代生活とも関聯してゐる。完成するまでに相当時間がかかつてをることと思はれる。」(水原秋桜子「選後に」)

ちなみに、5月には盟友林翔も巻頭となっている(花烏賊やまばゆき魚は店になし)から、まとめて言えば、後発組が先発組に追いつき始めた時期であったわけである。

23年3月号の馬酔木では「新樹集関西の人達」という関西の新樹集上位作家の批評座談会が載っている(2月1日丸ビルにて)。これは登四郎が作品以外で登場した初めての場であったのではないか。このときのメンバーは、篠田悌二郎、藤田湘子、能村登四郎、林翔、宮田忠一、大網弩弓、五十嵐三更、浅沼稚魚、秋野弘(司会をしていると思われる)が出席しており、登四郎は既に新人会の中心作家となりつつあるのである(登四郎は直前の2月号では次席であった(咳なかば何か言はれしききもらす)。盟友林翔は1月号で3席と、登四郎に先立ち巻頭の近くにいたのである(今日も干す昨日の色の唐辛子・寒釣は残り釣見る人は去る))。

この結果、23年の巻頭は次の通りである(22年の巻頭も参考に加えてみた)。23年の新樹集巻頭は、ほとんど若手によって占められているのが分かる。それも、藤田湘子が3回、能村登四郎が3回、水谷晴光2回、林翔2回と少数の作家が独占することとなった。登四郎が「一句十年」という言葉で述べた鬱屈した思いは、ここにやっと氷消するかに思える。

22年 2月 忽然と雪嶺うかぶ海のうへ      澤聡
   4月 月落ちて川瀬に小田の雪あかり    藤田湘子
23年 1月 揚舟をかくさんばかり干大根     藤田湘子
    2月 日を仰ぐ咳やつれせし面輪かも    竹中九十九樹
    3月 ぬばたまの黒飴さはに良寛忌     能村登四郎
    4月 さふらんに沖かけて降る雪しばし   水谷晴光
    5月 花烏賊やまばゆき魚は店になし    林翔
    6月 茶摘み唄ひたすられや摘みゐつつ   藤田湘子
    7月 部屋ごとにしづけさありて梅雨きざす 能村登四郎
    8月 霧騒ぎいたましきまで鮭群れつ    沢田緑生
    9月 夕潮の紺や紫紺や夏果てぬ      藤田湘子③
   10月 逝く汝に萬葉の露みなはしれ     能村登四郎③
   11月 さつまいもあなめでたさや飽くまでは 林翔②
   12月 十六夜の脇戸くぐるや苔匂ふ     水谷晴光②
(数字は年間通算巻頭回数)

24年も同様に多くの若手が巻頭を占め(23年ほど独占的ではなかったが)、25年には晴れてこの巻頭作家たち――藤田湘子、能村登四郎、水谷晴光、林翔の4人が同人に迎えられるのである。

  *

私が思うに、こうした結社での抜擢は、その作家の力量だけでなく、選者・主宰者の「発見」が画期的な抜擢を生むのである。高雄で馬酔木の復刊記念俳句大会の特選がなければ藤田湘子は巻頭になることもなかったであろうし、篠田悌二郎の推薦・特選がなければ能村登四郎の巻頭もなかったであろう。これは依怙贔屓とは違う、認識論の問題だ。それまで同じ俳句を作っていても、選者・主宰者の注目を浴びることでその作者の価値が変わって見える。そしてまた、選者・主宰者の見る目が変わることによって、作者自身にも自分の目指す方向が新しく見えてくるのである。

同様のことはずっとのちのことであるが、当時大学生だった福永耕治が「ざぼん」主宰米谷静二に変わって福岡空港に水原秋桜子を迎えに行くことがなければ、その後の福永耕治の巻頭、そして東京に出て馬酔木編集長として活躍するという抜擢はあり得なかったと思われるのである。
注目されるということが作家を大きくするポイントなのである。

【補注】初期の新人会の様子を、秋桜子はこう語っている。

(水原秋桜子が疎開していた八王子へ来て泊まって帰った藤田湘子と一緒に)東京へ出て、秋野弘君の勤務先へ立寄り、それから私は病院へ藤田君は篠田君の所へ行つた。この頃は、篠田君の所か秋野君の所かへ寄ると、たいてい若い人が集つてゐるし、居ないでも消息はよくわかる。我々もむかし最も作句に熱中したときには、たいていどこかに集ってゐたものだ。いままで新樹集の作者達には、かうした交わりがなかつたのである。近頃急にこのやうな状態になつたのは、やはり一つの機運といふべきで、俳句の向上する道程であると思ふ。私はこの人達十五六人の会を作つて、新人会と名づけ、その薫陶を篠田君に託した。そこで毎月一回後楽園に集り、お互いに厳しい俳句の批評をするのであるが、会員の二三人にあつたとき、感想をきいて見ると、とても怖い感じの会であるといふので、安心した。怖い感じのする会で、十分鍛錬されなければ、俳句など巧くなるわけがないからである。
(「江山無尽」馬酔木22年10月)
もちろんこの中にまだ能村登四郎は入っていない。

      *

こうしたところへ大事件が起こる。馬酔木にとっても大事件であったが、能村登四郎にとっても(あるいは藤田湘子にとっても)俳句人生を大きく転換させる大事件であった。23年3月(「ぬばたま」の句巻頭の月)、石田波郷が馬酔木に復帰するのである(作品発表は4月から)。

このたび、石田波郷君が同人に復帰し、石塚友二、石川桂郎、大島四月草、中村金鈴の四君が、新たに同人として加はることになつた。主宰者としても嬉しいことであるし、会員諸君も熱望して居られたことなので、とりいそぎ御知らせする。(三月三日喜雨亭)
(水原秋桜子「後記」――「馬酔木」23年3月)