前号で登四郎がライバルと目した秋野弘について見てみたい。
秋野弘または秋野ひろし。生年は調べたが判らなかった。馬酔木に戦前(少なくとも19年)から投句していたようである。戦後、21~22年頃から馬酔木の新人たちの中心となった三菱俳句会、富国生命俳句会のうち、三菱俳句会に属しそのホープであった。その後、藤田湘子とともに22年8月に発足した新人会の中心を成した。さらに24年2月には水原秋桜子、篠田悌二郎の支持を受けて、藤田湘子とともに、新人会俳句機関誌「新樹」を創刊、編集した。しかし、23年以後、登四郎、湘子、翔が巻頭を独占していたのに対し、巻頭経験はない。特に24年12月、登四郎、湘子、翔の3人が同人になったにもかかわらず、弘はその後新樹集では精彩を欠き、二三句欄に低迷した。25年4月、秋桜子から次の句について、最後の選評を受けたが、5月号を最後に名前が消えている。結社を変えたというわけではなく、俳句をやめてしまったようだ。流星のように戦後馬酔木を駆け抜けた天才であった。
雪つもらむ誰もしづかにいそぎゐつ(25年4月)
「官庁会社等の退け刻であらう。大きな建築の建ち並んでゐる街路で、人通りも相当に多い。
先刻から降り始めた雪が、見る間に降り募つてゆき、止む気配を見せぬどころか、いまではもう大雪になりさうな様子を呈して来た。先程から街路が灯つてゐるが、その黄色の光の周囲には雪片が紛々と舞ひ、ビルヂングの入口に停車してゐる自動車はすでに上部を真白に覆はれてゐる。
道を行くのはたいてい退庁の人か或は会社が退けた人達でこれから家路へ急がうといふところである。この人達は皆雪のやむことを希望してゐたらう。また実際空模様を見上げつつ、三十分なり一時間なりを空費した人があるかも知れない。しかし今は到底やむ気配のない雪だ。これから電車に乗り、バスに乗り、家が郊外にでもある場合は、帰り着く門前の積雪がすでに深くなつてゐることを思はねばならない。多くの人は、久しぶりに雪の降り出すのにあふと、いささか興味を持つものであるが、このやうに止む見込みのないことがわかれば、すでに興味などは問題ではない。道を行くにも空を仰がず、肩に胸につもる雪を払ふことさへせずに、ただ黙々とさきを急いでゐるのである。
「誰もしづかにいそぎゐつ」の「しづかに」といふ言葉はこの歩行の状態をまことに簡潔に描き得てゐるばかりか、舗道にもすでに雪がつもり、靴も車輪も音をたてぬことを示してゐる。それに「雪つもらむ」をあじめに置いたことも大きな効果をあげてゐる。ここで家に帰りつく頃の雪の深さを暗示してゐるがために「しづかに」が、ただの「しづかに」でなく心の暗さを含んだ「しづかに」となつて、句全体にも陰翳が加はつて来るわけである。用語は普通でありながら、感じはかなりつよく出てゐると思ふ。」(水原秋桜子「馬酔木俳句の評釈」)
秋野弘の活躍した期間は3年半程の極めて短い期間であったが、能村登四郎がライバルと目する程の活躍をしたのは意外である。ここではもう誰も語ることのない秋野弘の作品を眺めてみよう。数字は掲載月、○の数字は新樹集の席次、(二)(三)は二句欄、三句欄を示す。
[22年]
枯堤われくだるより犬はやし・22年5月⑥(この月より弘)
散る花に麦生の風のあつめれる・22年6月⑮
片蔭をいでてひとりの影うまる・22年7月⑤
ゆふだちのさなかにともり螢籠・22年9月③
遠雷となりてひぐらしに雨つのる
寝ねどきを草しろきまで月照りぬ・22年10月⑪
わだつみも秋茄子も紺の色ふかし・22年12月⑱
[23年]
光りつつ冬の笹原起伏あり・23年1月④
もの音にこころうつすも冬の夜は・23年2月⑥
霜いたり外套の紺まさりける
身につくる色濃きものとなり寒し
笹の上やがてはつもる雪舞へり
ひさびさに来れば銀座の時雨る日・23年3月⑩
春の風邪夜は疲れもくははりて
風荒れて春めくといふなにもなし・23年4月③
風邪声が多くをいはずつくしけり
蝶の息づきわれの息づき麦熟るる・23年7月⑧
踊り子のひとりごつなり梅雨のこと
緑蔭の蝶にしづかな翅音あり
青芝にわが子を愛すはばからず・23年8月⑦
帽とりぬ青葉の声のおこるとき
夏めくや何せしとなき手の汚れ
七月のかなかななけり雑司ヶ谷・23年9月(三)
紫蘇の実の匂ふや過去はかなしきを
木犀や人にもあはぬ夜をゆけば・23年11月(三)
[24年]
とおき過去近き過去にも悴かめる・24年2月④
凍鶴の身じろがざるに似る生活
寒きびし貧しさつひに心まで・24年3月⑥
悴みてあかるき色を好むわれ
灯も音もはや消えし夜は春いまだ
春炬燵誰も姿のくづれゐて・24年4月⑭
着て見する春の着物のうすみどり・24年5月⑯
見ずなりぬさむさもどれど霜氷
桜漬すすまぬ箸をつひにとりぬ
降りやめば夜はひとしほに春ふかし・24年6月⑯
こころより為したり風の光りける
椎にほひ病むとてもなくうすき胸・24年7月⑨
人寄るに梅雨の冷よりくるしづけさ
梅雨茸や濁世をさらし汚しける・24年8月⑪
夏雲やうつむき生くる世にあらず
暑き野にかたみさびしむゆきあひて
朝顔や母にすがしき刻わづか・24年9月⑮
海山の日焼にあらぬかくまでに
夏芝のまぶしさ人はよぎるのみ
風すぎて日ざかりの道かがやかす
見えねども片蔭をゆくわれの翳・24年9月特別作品「翳」
若くしてうすものの膝の正しさよ
夏ふかししづかな家を出でぬ日は
新秋やしづかなのぞみ湧く日なる
[25年]
菊しろきしづかな寒さ見舞はれぬ・25年2月(二)
枯芝に影は肩寄すふれざるに
悴みて人の幸福ききをるも・25年3月(三)
ばらをくれぬ冬草の色明るき子
雪つもらむ誰もしづかにいそぎゐつ・25年4月⑬
冬ばらの影消えて待ちし人の影
やがて次の句をもって馬酔木の誌上から秋野は姿を消す。
雪敷きて朝日の道のけふは照りぬ・25年5月(三)
春風に吹かれてぞ髪ゆたかなる
能村登四郎のライバル
秋野弘が極めて繊細な感覚を持っていたことは理解できると思う。それにしても能村登四郎がライバルといって憚らないその特徴とは何なのか。特に藤田湘子をライバルと目さずに、秋野を名指しした理由を考えてみたい。
まず、湘子の巻頭時代の句を眺めてみる。
雪しろき奥嶺があげし二日月(22年4月) 藤田湘子これに対して能村登四郎の巻頭時代の句を眺めてみると明らかに色調が異なる。
蜑が家の年用意とて干せる烏賊(23年1月)
茶摘唄ひたすらなれや摘みゐつつ(23年6月)
夕虹の紺や紫紺や夏果てぬ(23年9月)
あてなくて急げば蝶に似たらずや(24年4月)
ぬばたまの黒飴さはに良寛忌(23年3月)言ってみれば、湘子は明るくてリズミカルだが、単純で陰影がない。登四郎の句は、子を失ったときの「萬葉」の句以外、みなしづかで陰鬱をもち、心理の襞を描いている。句のリズムそのものがそうした匂いを漂わせているのである。
部屋ごとにしづけさありて梅雨きざす(23年7月) 能村登四郎
逝く汝に萬葉の露みなはしれ(23年10月)
咳了へてほのかにぞ来る人の息(24年1月)
冴え返る今まで人のゐし畳(24年5月)
これを例えば、当時の他の新人作家と照らしても、
山の日に焼けてつとめのあすがまた(23年9月⑦) 大島民郎のような直接的な表現とは矢張り相当異なるものがあるのである。そうしたとき、秋野弘と能村登四郎との類似性はかなり見て取れるように思う。確かに秋野の素材は都会的なものであり、登四郎は短歌的詠嘆と少し違うようであるが、どこか疲れた影が二人の作品には漂っているのである。
野の霧に暁の車窓はみなくもる(23年10月③) 岡谷公二
ためらはで剪る烈風の牡丹ゆゑ(24年6月①) 殿村菟絲子
約ありて継ぐ息勁し麦は穂に(24年7月①) 野川秋汀
ライバル意識は全く違った素質では生まれない。お互い目指すものが見えているとき、猛烈な闘争心がわくのである。
風荒れて春めくといふなにもなし 秋野弘登四郎が巻頭になった翌月、3席であったとはいえこの句は新人たちの大きな話題となった。「なにもなし」の用語がいたるところ句会等に頻出するぐらい、流行となって若い作家たちに影響を与えたのである(当時の「新樹」の記事による)。巧緻といえば巧緻である、立春の心を詠んでいるのだが、風が荒れる、春めくものがなにもない、と否定を重ねながら、どこか作者の心の片隅に、あるいは読者の心の中に春が生まれていることを期待させる。「ぬばたま」の句と違って、こうした句であれば極めて現代的であり、波郷の否定も呼ばないはずだ。馬酔木俳句の未来はここに示されているかに見える。能村登四郎が、これに敵愾心を燃やさないはずがなかった。じつは、こうした句を登四郎が詠んでもおかしくなかったからだ。
登四郎と秋野弘を比較した場合、秋野の最盛期にあっては、ほとんど二人は対等にあったと言うべきだ。登四郎がやや思いを重くこめすぎていたのに対し、弘は憂愁を漂わせながらも軽やかだった。表現も登四郎が重かったのに対し、弘は口語や助詞の使い方などが軽妙であった。少なくとも平成の現代人の心にかなうのは、登四郎でもなく、弘の句ではなかったか。湘子でもなく、登四郎でもない、こんな軽やかさを現代は求めているような気がする。再掲しよう。
蝶の息づきわれの息づき麦熟るる 秋野弘最後の句を秋桜子は次のように鑑賞している。
踊り子のひとりごつなり梅雨のこと
緑蔭の蝶にしづかな翅音あり
帽とりぬ青葉の声のおこるとき
夏めくや何せしとなき手の汚れ
七月のかなかななけり雑司ヶ谷
凍鶴の身じろがざるに似る生活
悴みてあかるき色を好むわれ
灯も音もはや消えし夜は春いまだ
見えねども片蔭をゆくわれの翳
「日盛どきの街路で、炎暑のために視覚に妙な作用の起こることを詠んだものと思ふ。向ふ側の片蔭をめざして舗装路横切るとき、眼に灼きつくやうに感じられるのは建築物の影と自分も含めた通句尾者の影とである。これが片蔭にたどりつき、そこを歩いてゆくときにも、まだ視覚のどこかに残つてゐて、自分の周囲に陰翳の附きまとふやうな感じがする。それが「片蔭をゆくわれの翳」なのであらう。
かういふ翳を取扱つた句は、これまでに殆どないのであるから、それを詠んで見やうとした作者の考はたしかにおもしろい。しかし表現はいかにもむづかしいもので、適確にわからせるところまで漕ぎつけるのは容易なことではないであらう。
この句に於ては「見えねども」といふ五音が、余りに説明にすぎて趣を浅くしてゐる。けれどもこれを省いたら、おそらくこの内容を現はす訃報は他に無かつたであらうと思はれる。して見ればこの「見えねども」は、一応我慢することの出来るもので、作者としては苦心の措辞であつたことと肯けるのである。
見た眼には派手でないが、感じの上で在来より一歩深く進もうとする努力は受けとれ、そこに点を入れる事が出来る。」
(水原秋桜子「馬酔木俳句の評釈」24年9月)