2014年10月3日金曜日

(「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代(7)登四郎聞き語り

第2回(7月25号)で、能村登四郎の馬酔木での初めての俳句について述べたが、何しろ35年前の手控えから写しているために若干心もとないところもある。もう一度入念に調べるべきだろう。
実は、私の「沖」の先輩に当たる安居正浩氏が「一句十年」の真実 ―能村登四郎小論―」で次のように書いている。

「最初に誌上に句が出るのは『馬酔木』昭和十三年十一月号である(筆者調べ)。
 秋櫻子選の新樹集に
    佐渡野呂松人形浄瑠璃
   秋燈に伏せる傀儡のいのち見つ
 市川市 能村登四郎」(「沖」平成22年12月号)
安居氏は同じ号の加藤かけい選の新葉集の「葦の風遠くの風と思ひけり」もあげているが、これは私の挙げておいたところと同じであるから、昭和13年11月が初出という意味では変わらないと思うがここに補正しておきたい。

安居氏の論文を読みながら、興味深かったのは、「一句十年」がフィクションだということを述べつつ、この時の能村登四郎の心情を、藤田湘子とのライバル意識が働いていたと指摘していることだ。「一句十年」がフィクションだとすれば、登四郎の鬱屈の原因が当時花々しく登場していた湘子に起因していただろうことは充分推測できる。しかし推測以上の確証はあるのであろうか。

   *

私は、批評とは、批評される人の現存していることが批評の基準として大事だと思っている。亡くなってからの批評は、やはりどこか不安な要素が抜けきらない。

私の著した『飯田龍太の彼方へ』は、「雲母」を終刊したものの、まだ俳句の世界で龍太は活躍していた。私が著した後、10年以上存命であったから不都合があればいつでも異議を申し立てることができた筈だが、とうとうそれはなかった。もちろんそれが真理であることを保証するわけではないが、批評としての公正さは担保してくれるであろう。

その後鷹羽狩行、稲畑汀子、金子兜太の批評をしているが、いずれも存命どころか、元気な作家ばかりである。糾弾が来ればそれはそれでまた、新しい批評を考えてみたいと思っている。
安居氏の論文で言えば、丹念で秀逸な論であるが、それを執筆した時点で能村登四郎は批判できない状態(物故)にあるという点がやはり残念である。

私は、昭和56年ごろ、「若き日の登四郎」「咀嚼音研究」という連載で登四郎の初期作品を細かく分析した作家論を書いたのだが、林翔編集長を引き継いだ渡辺昭氏が登四郎に「磐井君のやっている「咀嚼音研究」はどうですか」と質問したところ、「嫌だね、昔の細かいことをほじくりまわって」と言われたという。それはそうであろう、じっくり読めば「一句十年」がフィクションだということは読者にはよく分かる筈だからである。そんなこともあり、私の「咀嚼音研究」はやがて打ち切りとなった。それでも、水子のような存在ではあるが、能村登四郎の最初の評伝の片割れであったという名誉は持っているのである。

さてこのように嫌われているにもかかわらず、私はずうずうしくも「咀嚼音研究」のために必要なインタビューや質問を、能村登四郎、林翔にしている。その中に、能村登四郎のライバルは誰か――登四郎自身が誰と考えていたか、にかかわる質問があった。手控えなので正確ではないが、論旨は間違っていないと思う。

この他に、「ぬばたま」の句の政治的な意味合いまで問うてしまっている。今日では、なかなか調べようもない話であり、私ひとりの手元に残しておくのももったいないので議論の材料に提供することとしよう。

★能村登四郎インタビュー(筑紫磐井聞き取り)

日時:昭和61年6月22日(沖市川例会終了後喫茶店にて)

●戦後の馬酔木は小岩の人たちの力で復興した。宮城二郎や老川(老川翠波か?)等といった人たちなのであるが、今ではその頃の人たちもすっかり忘れられてしまっている。小岩の後市川(能村、林)へ中心が移っていった。老川さん(精土社?)はいい人なんだが、いつごろか俳句をやめてしまった。それでも俳句をやめた後まで秋桜子碑にタンポポを植えたりしていた。

●第1回の高尾での句会があった。当時江戸川が氾濫し、膝までズボンをたぐしあげて川を渡り、小岩へ出た。そこからやっと電車が走っていた。そんなにしてまで行ったのだから好い句と当人は思っていたのだが、高尾での句会――午前、午後あったのだが、午前の句会では1句も入らず、頭にきて、泊まるつもりで入金していたにもかかわらずどんどん帰ってしまった。その時二郎さんと出会い、先生は貴方を買っていると言われ、初めて秋桜子のところへ行くことになった。

ぬばたまの句が巻頭になった時見舞いに行った。それから一週間ほどで死んでしまった(23年3月17日)。僕らの巻頭が遅れてもあの人は巻頭にしてやりたかった。

●ぬばたまの句が落ちた経緯は、悌二郎と波郷の人間関係にあったらしい。悌二郎が取った句だから波郷が反対した。秋桜子もこれはいいのではないかと言っていた、しかし波郷が反対したら絶対だからね。波郷は長靴なんかを推したけど、現在となっては良寛忌の句の方がいいと成っているだろう。波郷も悌二郎の影響がなくなったあと聞けば、黒飴の句はいいといったんじゃないかと思う。

 悌二郎は繊細で、ものすごくうまい句を作った。秋桜子を凌いだほどだと思う。『風雪前』、『霜の天』等は今回特集を書こうと思ったが見つからなかったのだけれど。悌二郎と波郷のような関係で消えていったのが山口草堂。米沢吾亦紅が俳人協会関西支部長になったので、あんな奴の下にいられないと言ってやめちゃったのだ。

●ぬばたまの句が出た後、波郷が入院先から、こんな句を作っているような馬酔木には復帰できないとか何とか言っているって。周りの人間が言っていたのよね。

●新人会のころライバル意識を燃やしたのは秋野弘。死んではいないみたいだけれど、どうしたのか。あんなのに負けられないと頑張った。湘子なんかより以前に目標になった。
 岡谷鴻児(公二)は草間研究会から堀口さんが引っ張ってきた。いい句を作っていたけれどすぐいなくなっちゃった。今けっこう売れてるみたいだね(当時東大文学部、のち跡見女子大教授となり多くの著書がある)。

 馬酔木の若手は、三菱系と富国生命系で、富国生命の大網弩弓が中心になった。五十嵐三更(三菱地所)等もいたけどどうかねえ。いい加減に同人にしてやればいいのに、先生、一向してやらなかったから。金子伊昔紅(兜太の父)など、いつまでたっても並同人にしていたから、金子兜太が怒って、八十いくつの老人をあんな状態にしておく八十いくつの主宰者は何だと言っていたよ。

●宮城二郎の奥さんは了子(近藤了子)といい、鈴木節子さんみたいな人。後、中村金鈴と再婚した。

追加:林翔より(昭和61年7月27日市川例会にて)

●宮城二郎がなくなる前、先生の飲み残しの茶を飲みたいと言ったことがあり、それを届けて飲ませた。それぐらい馬酔木に熱心だった。

以上いくつかの情報が錯綜してしまっているが、冒頭に述べたように

①登四郎のライバルは誰であったか?

②波郷と悌二郎の関係は?馬酔木は割れたのか?


に見るべき情報があるように思われるので、以下これについて考えてみよう。