2015年11月27日金曜日

中島敏之の死 / 筑紫磐井



急な報せだが、「鬣」に所属していた中島敏之がなくなった。「鬣」で健筆を奮っていたし、1年程前に書評集である『俳句の20世紀を散歩する』(2014年11月刊)が出され好評だったから、余りにも急な死であった。1952年生まれであるから、社会的にいろいろなしがらみから解き放たれていよいよこれからライフワークに取りかかろうとという年齢であろうから一層残念なのである。

私は中島と会ったことも、彼の経歴も全く知らない。人々の話によれば俳句作家というより読書の人であるようで、彼が生前まとめた俳句関係の本が唯一、句集でもなく評論集でもなく、書評集であると言うところがいかにも中島らしいところであったかも知れない。

ほぼ同時期に、中島は書評集を、私は時評集(『21世紀俳句時評』)を出し、私は中島の書評を高く評価したが、中島は私の時評を酷評した。先ず題名がよくないというのはさておくとして、次のように言っている。

「・・・・筑紫は以上の経緯を分っている。だから筑紫の思想で現代の「俳句」状況を点検すればもっと面白いものになったはず。本書は俳句表現そのものを視野に入れた、いわば俳句版「修辞的現在」になる可能性もあった。しかしそうならなかった。十年を映す俳壇時評でしかなかった。それもここにある現在だけが10年の歴史的現在ではない。現代「俳句」史はまだ自らを発見できていないが、この時評も現実をなぞる単なる羅列になった。」
時評も書評も自由でない制限された条件で書く意味では、実は何もできない形式なのだ。俳句と同じである。むしろ、中島が望むようなことをしたいならば、積極的に評論を書くべきであろう。中島の書評も優れてはいるが、1頁の書評は決して万能ではない。それでも、中島の発言の中に好意を感じたのは、「・・・・筑紫は以上の経緯を分っている」の部分であった。中島も分っている・・・という共感を持ったのである。

さてこの書評集の中で私が至極感心したのは、金子兜太の造型俳句論(正確には『定型の詩法』)を取り上げて、そこで兜太の造型俳句論の画期的な点は「「創る自分」を設定して、俳句創造の意識操作を明確にしたこと」と「俳句表現史を構築したこと」だというが、特に後者は「誰も指摘していないが、こちらがこの本の真骨頂と思う」と述べていることだ(2013年5月)。実は、2013年7月7日に金子兜太を招いて開いたシンポジウム「金子兜太に聞く戦後」でパネラーのひとりとして中島も発言している。そしてこの書評集と同じことを述べているのだが、兜太からは明確な反応を得られていなかったし、パネラーや参加者からも同感を得られていないようで残念であった。なぜなら中島のこの発言にもっとも共感しているのは私ではなかったかと思うからである。

実は私も、『金子兜太の世界』(2009年9月刊)の「金子兜太の実像」でも、最近出した『戦後俳句の探求』(2015年1月刊)でも、近く出る予定のウエップ12月号の「新しい詩学のはじまり――兜太造型論の未来」でも、兜太の造型俳句論が、独特の俳句史観で書かれていることを指摘している。しかし、その反応ははかばかしくない。

世の中で唯一共感してもらえそうな中島と会う機会もなく、幽冥を隔ててしまったと思うと、残念でならない。もちろん、中島の仕事はこれだけではないのだが、とりわけ私に痛切と思わせる事件であるのは間違いない。長く忘れたくない人物である。