2015年7月24日金曜日

澤田和弥の過去と未来  /筑紫磐井



未見の人であったが気になっていたのは澤田和弥氏であった。『超新撰21』の時から候補にはあがっていたが、結果的に見送ってしまっていた人である。特にその後、句集『革命前夜』を上梓され、いい意味でもそうでない意味でも、『新撰21』の影響があった人ではないかと思っている。

『新撰21』等に入らなかったことについて西村麒麟氏から、『新撰21』がこれだけたくさんの新人(42人。小論執筆者まで入れれば80人。さらに『俳コレ』まで登場した)を発掘してしまうと、このシリーズに入らなかったことそれ自身が逆の差別をされてしまったような気になる、と企画者の一人に対する注文とも不満ともつかぬ発言をしたことがある。これは澤田氏にとっても同じ思いであったかもしれない。

逆に言えば、入らなかった御中虫、西村麒麟、最近の例でいえば堀下翔などは、すでに『新撰21』(例えば神野紗希、佐藤文香)を超越してしまった世代といえるのではないかと勝手に思っている。『新撰21』といえども企画者3人の独断と偏見に満ちた選考で上がった名前であるから、これら3人の枠組みの中でしつらえられている。御中虫、西村麒麟、堀下翔はこうした企画者に反発して自分たちの枠組みで自分たちの登場の場を確保したのだ。

以前、俳句甲子園に苦言を呈したのは、もちろん若い高校生たちが俳句に関心を持ってゆくのはありがたいが、彼らは、俳句甲子園企画者のルールに従い、枠組みの中で競っているのであって、自分たち独自のルールを作り上げたわけではない。以前の高校生は――つまり寺山修司などは、自分たちで同人雑誌を創刊し、全国の高校生を結集し、中村草田男などと交渉して俳句大会を開催していった。そうした活動と俳句甲子園とはずいぶん違うのだということである。もちろんどちらがいい悪いとは言わない、より多くの高校生俳人を結集させるには俳句甲子園方式はかなりいい手法かもしれないが、寺山流ではないのは間違いない。

『新撰21』から外れた動きを眺めるために、今回【アーカイブコーナー】で、御中虫、西村麒麟の活動を掲げてみた。これは明らかに「上から目線」を完全には排除できなかった(他の俳人たちに比べれば余程努力したつもりだったのだが、完全には排除出来ないのだ)『新撰21』に対する、反『新撰21』の活動であったと思っている。いや、ほどほどに妥協し、揶揄しながら自分たちの主張を断固として貫徹している。『新撰21』が存在しなくても自分たちの存在は明らかになっていると思っている人達であろう。

澤田は『新撰21』の影響を受けつつ、やはり独自の世界を模索し続けたようである。実に様々な媒体に挑戦している。私の関係するところでは、「豈」「俳句新空間」に登場しているし、その行く先は茫漠としていた。若い人らしい行方のなさだ。

澤田は自らも寺山修司への傾倒を語り、句集にもその痕跡を残したが、しかし作品として寺山の傾向が強かったとはあまり感じられなかった。むしろ早稲田大学を通して、寺山の系譜を確認し続けたといった方がよいかもしれない。彼のライフワークになると思われたのは(悲しいことにわずか4回で中断してしまったが)、遠藤若狭男の主宰する「若狭」に連載し続けた寺山修司研究(「俳句実験室 寺山修司」)だ。これが完成していたら、寺山と澤田の関係はもっと濃密に見えたかもしれない。

本人が存命している時の句集『革命前夜』と、亡くなってしまったあと読む句集『革命前夜』は少し趣が違っている。前者が今まで書かれた句集評の大半なのだが、後者を「俳句四季」10月号の座談会で取り上げ試みる予定であるが(齋藤愼爾、堀本祐樹、角谷昌子と座談)、妙に物悲しいものに思える(既に『革命前夜』は版元で売り切れ絶版となっている由)。有馬朗人氏の、「『革命前夜』をひっさげて俳句にそしてより広く詩歌文学に新風を引き起こしてくれることを心より期待し、かつ祈」るという、わずか2年前の序文がどうしようもない違和感を醸し出す。なぜなら今日のこの状況を誰も知らないからだ。私は当初、こんな句を選んだがそれは未来のある人の句としての鑑賞だ。

佐保姫は二軒隣の眼鏡の子
黄落や千変万化して故郷
冬の夜の玉座のごとき女医の椅子

実は死の予告のような句を選んでしまった。詳細は「俳句四季」10月号を見て頂きたい。だからここでは、『革命前夜』後の作品を掲げて締めくくりたい。澤田和弥の未来がどうあったか(亡くなっても作者としてはまだ未来があるのだ。後世の読者がどう評価するかは我々の思惑を越えているのだから)、考えてみたい。御冥福をお祈りする。

人間に涙のかたち日記買ふ   「若狭」より
菜の花のひかりは雨となりにけり
春夕焼文藝上の死は早し   「週刊俳句」角川俳句賞落選句より
復職はしますが春の夢ですが
女見る目なしさくらは咲けばよし