2016年8月26日金曜日

【エッセイ】  中山奈々とどのように出会ったか / 筑紫磐井



里の若手で構成する雑誌「しばかぶれ第1集」(平成27年11月)を入手したが、私の場合読むまで時間がかかる。別にもったいぶっているのではない、読んでも、読みとろうとする意欲が内心に湧くまで時間がかかる。直列的に読んで感想を抱くのではない、読む気になって自分の内部で枠組みが用意されて、そこから記事と対話しながら読み進んで行くことになる。


中山奈々への関心は、むしろ今回「俳句四季」で取り上げた「俳句文学館」の短い記事であった。その前に、「しばかぶれ」を読み、中山の大特集が組んであるのを見ても、俳句にもエッセイにも、他の人の中山論にも余り関心がなかった。やがて、「俳句文学館」を読んだが、それでも俳句にもエッセイにも、他の人の中山論にもまだ関心がなかった。しかし、〈自筆年表〉を読むにいたって唸った。


恐らく〈自筆年表〉は同世代作家の中でこんな凄い年表を書ける作家はいない、絶無であろう。――同世代作家と言ったが、自筆年表を書かせたとしても、中山より高齢者はますます自己を客観的に描写できる作家はいないから、むしろ、「およそ俳人では」こんな自筆年表を書ける作家はいない、といってよい。貴重な人材である。


これは、〈自筆年表〉をほめただけで、俳句もエッセイも貶していると受け取るかも知れないが、そうではない。中山に関心を持つ理由が〈自筆年表〉にある――そこから中山への関心が始まると言うことだ。若手への関心が男女の関係に似ているとすれば、先ず出会い――それが駅の待合いであれ、学食の隣の席であれ――が必要だと言うことなのである。関心がないと言うことは、ともかく致命的なことなのだ。「俳句文学館」の記事に即して言えば、俳壇大家は若手を欲してはいるが、個別若手俳人に関心がない、しかし、中山がいくら関心を持つ「べき」だと行っても、「べき」で関心は持てない。逆に関心がないからといって特定の俳句を誹謗するのも、また変なものである。「関心がない」は、「関心がない」だけで十分正当な理由なのだ。


 だから私の若い作家の出会いも、真っ正面からの俳句鑑賞からはあまりない。例えば、若手と言われる人々に注目したのは、

①御中虫の『俳コレ』評 
②西村麒麟の御中虫評 
③高山れおなの俳句の前書き 
④関悦史の広角打法(金子兜太に匹敵する社会性) 
⑤松本てふこの風俗出版産業論


俳人だから俳句で関心を持たれるべきだというのは昭和初期の4Sの古きよき時代のことだろう。人間探求派や新興俳句以降は、「俳句研究」等のジャーナリズムが関与したこともあり、俳句の本質以外の周辺に関心が拡散するようになった(もちろんそれが悪いこととは思わないが)。戦後は、角川書店の「俳句」のようなジャーナリズムや現代俳句協会・俳人協会のような集団が登場したことで、初期は社会性俳句・前衛俳句等の運動、その後は結社を媒体として作家への関心が持たれるようになった。長谷川櫂や田中裕明などの戦後生まれ作家はこの最後尾に属していると考える。では、現在の新世代はどうなのかと言えば、上にあげた5人のように俳句の最辺縁で際だたねばならない。最早、俳句自身でこの世代の差別化をすることは困難となっている。じっさい、俳句はあと2、30年後も存続することは保証されていない(私は近代における定型詩・ジャンルがどのようにして滅んできたかを研究しているが、近頃の俳句はそれらジャンル滅亡前の徴候が幾つか現われているように思えるのである)。俳句の最辺縁こそが僅かに希望にあふれている。このような中で中山は〈自筆年表〉に自分の居場所を発見したのである。それに私は関心を持ったということなのである。


もちろん出会ったからと言ってその後も私以外の人に注目が続いているわけではない。御中虫は事情があり自身俳句から離れていたようであるし、松本てふこは私が感心した傾向性からは遠ざかって行くようである。ただ、(私の)関心がないところにいても(私の)目に入ってこない。何も、立派なことを書くから関心を持つわけではない。関心はどこから湧き上がるかと言えば一種の恋愛感情のようなものである、きっかけがなければ関心の湧きようがないのである。


中山の場合は、〈自筆年表〉から始まって、「しばかぶれ」を読みなおしてみたのだが、エッセイは〈自筆年表〉と守備範囲が重なることもあって、〈自筆年表〉を超えるショックは受けなかった。〈自筆年表〉があって生きてくるエッセイなのだ。何と言っても、〈自筆年表〉が凄すぎるのである。


では、俳句は。俳句は、新作があり、また佐藤文香が旧作100句選を行っているのだが、同世代が同世代の選を行っている強みと弱みが出ているように感じた。新作・旧作の順に見てみる。



保育器に差し込む腕や小鳥来る 
援軍の家紋に秋の蝶よろよろ 
板前の小さき会釈寒椿 
ライ麦パン胡桃パン雪深くあり


鵙一羽とは思へざる声を上げ 
絆創膏外す大きな春の夢 
自画像にむらさき使ふ水の春 
虚子の忌や淡路島までしか見えず 
生理痛きつい日パセリまぶしい日


石田波郷に匹敵するのはまだこれぐらいではないか。もちろん新人を脱して「平成29年の俳句界」に登場しても悪くはない。なにしろ、あの〈自筆年表〉の執筆者であるのだから。