2016年9月16日金曜日

【エッセイ】 「オルガン」第6号座談会の部分的な感想  /  筑紫磐井



このエッセイの本編に当たる記事は、「俳句通信WEP」の方で書いているが、「オルガン」第6号で「オルガンからの質問状」として金子兜太と鴇田智哉・田島健一・宮本佳世乃が座談会を行っている。今もって社会性に対する強い意識を持っている兜太と、対照的な立場に立つ「オルガン」メンバーのやりとりは刺激的であり、本編の方の議論と関係することもあるので、一部だけ紹介させて貰うこととする。


この座談会の中で、田島は、現在仲間と兜太の造型俳句論を読んでいるが、兜太の「造型論」をちゃんと理解して批判的に乗り越えていくんだというものは未だに出ていないといっている。座談会の中で再三述べているのでこれは田島の信念なのだろうが、問題が二つあると思う。

①は「造型論」をちゃんと理解している者がいないと言うこと、
②は造型論を批判的に乗り越えていくものが未だに出ていないということである。

慥かに、造型論を正しく理解している者がいるかどうかは、本人に聞いてみるのがいい。


金子筑紫磐井とか対馬康子は正確ですね。筑紫磐井の[造型俳句六章]の読み方は分析的ですね。読むのにくたびれちゃう。


読むのにくたびれてしまうのは、私や対馬の責任ではなくて、多分造型論自身が持っている本質的難解さだろう。本人は分り易く説明したつもりだろうが、田島が「「造型論」をちゃんと理解しているものがいない」というぐらい、やはり難解で読むのにくたびれてしまうのである。もちろんだから読む価値がないなどということは全然ない。

次に、造型論を正しく読んだあとで、「造型論を批判的に乗り越えていく」については、そもそも造型論つまり兜太を乗り越える必要があるかどうかからして疑問なのであり、兜太は乗り越えられるつもりは全然ないし、今の若い作家、特に「オルガン」の作家たちのやり方に迎合するつもりはないようである。


金子あんたがたの場合は日常性のなかで捉えようとしている。批評性とか主張性とか社会性とかいうことを日常性のなかに置こうとしている。これがちょっと食い足りない。それが俳句の弱さを作っている。もっとパンチを効かせてハツタリを効かせてもいいんじやないかということは思ったね。」

金子「さっき言った、社会性は態度の問題だと。イデオロギーも何も日常生活に消化しちやってその消化した状態のなかで出てくるものを書く、それが大事なんだと言い続けているんだけどね。そのことを理解してもらえると今あなたの言ったことはわかってもらえると思うんだけどね。日常生活に本当の意味で消化しちやっているような主張性がほしい。日常生活に消化するという努力をあまりしないで一種の教養としてあんたがたは俳句のなかで自分の主張、言いたいことを書いている、そんな印象ですね。

 「ハッタリ」は兜太独特の用語であり、真剣さとでも言いかえていいかも知れない。また、特に「一種の教養」は若い世代に対して痛烈な批評となっているように思える(田島の「考えていても書けない」という趣旨の発言に対して)。もちろんこれは兜太の勝手な科白であり、それが正しいとも、「オルガン」メンバーが間違っているとも思わない(むしろ、日常生活の中に昇華することは私も俳句で心掛けているところだ)。しかし、この座談会で、兜太が乗り越えられてなどいないことだけは慥かである。

私自身は兜太が何故乗り越えられなければならないかは分からない。つまりまだ田島に共感していないわけである。では、乗り越える必要がないとすれば何をすべきか。それについては、近く岩波書店から出る金子兜太/青木健編『いま、兜太は』に小論を送ったところなので、ちょっとここでは差し控えて予告に留めておく。ただ、当然のことながら同じ執筆者が書くのであるから、俳句通信WEPの記事とは無関係ではあり得ないだろう。