2016年9月30日金曜日

【記録】私的な第一回姨捨俳句大賞記録「久保純夫と杉山久子」――「理解されてたまるか」 / 筑紫磐井




  • 姨捨俳句大賞の趣旨

9月17日、芭蕉ゆかりの信州更科で、新発足した第一回姨捨俳句大賞が久保純夫と杉山久子で争われた。結果は、速報した通り杉山久子の受賞となった。今後永続する賞の第1回だけに価値は高いだろう。

通常、賞は結果だけが残る。選考の過程であった論争は消え去ってしまい、受賞者の一覧表だけが残る。しかしそれだけでよいのだろうか。受賞の過程での論争こそが重要なのではないか。受賞の論争の中で新しい俳句の認識、歴史が生まれて来てこそ意味のある賞といえるのではないか。

33回続いた(昭和58年発足、地方の主催としては数少ない、歴史のある俳句大会であろう)信州さらしなおばすて観月祭全国俳句大会を強化するために設けられたこの俳句大賞とは、「明日の俳句を切り開く気鋭の俳人の句集」を顕彰するものとして、公開審査、選考方法等様々な趣向が凝らされた。全国200人の俳人から推薦を受けたリストの中から、選者3人が2冊の句集を選んだもので、重複1点、その後の辞退者1人がいたためこうした俳句賞としてはやや少ない4点が残った。

注意しておきたいことは、この賞にあっては、予選を通過したということが十分顕彰に値する句集であったということだ。3人の選考委員が特殊な傾向を持っていたり、自分の結社に肩入れをするようであれば問題であるが、今回それはなかったと確信をもって言える。それぞれの価値観は異なるところもあるが、自分たちの信念で選んだ意味では立派な選考であったと思う。受賞に躊躇のあるものは候補にすら上がらなかったはずだからである。逆になぜこんな句集を上げたのかという選考委員同士での批判も辛らつにあった。



  • 予選作品の紹介

予選で選ばれたのは4冊であり、通常の俳句賞とくらべるとかなり数の少ない候補作品である。その意味では、予選に残ること自身狭き門であったし、密度の高い選考が行われたと思う。また、主催者もかなり気を使い、事前に候補者を紹介したり、受賞決定後も壇上で紹介したり、受賞できなかった候補者と、受賞者、選考委員と懇談の場を設けて存分に不満が言える機会も作ったが、今回の候補者は人格円満であったせいか、あまりつるし上げの場はなかったようである。選考委員の一人としては、びくびくものであったのだが。

予選作品を紹介しておこう。アイウエオ順である。


①久保純夫 『日本文化私観』(2015年10月飯塚書店刊)

【略歴】

1949年大阪府生まれ。71年鈴木六林男「花曜」入会、2006年「光芒」創刊、2013年「儒艮」創刊。1986年六人の会賞、1993年現代俳句協会賞受賞。句集に『熊野集』『比翼連理』『光悦』など。評論集『スワンの不安』。所属「儒艮」、現代俳句協会員。

【作品と概要】

論点は最終選考の次節で述べる。

自選句から
「犯されている眼差の桜鯛」
「砂丘からときどき蝶を掘り出せり」
「絶倫の湧き立っている白牡丹」
「生き腐れして向日葵が立っている」
「少年の白きスーツや日雷」
「放蕩の淵を動かぬ花筏」
「烏瓜孤高というがぶらぶらし」
「放屁する女愛しき吾亦紅」
「純愛を開いてみれば黒海鼠」。


②杉山久子 『泉』(2015年9月ふらんす堂刊)

【略歴】

1966年山口県生まれ。1989年から句作開始。2006年芝不器男俳句新人賞受賞。句集に『春の柩』『鳥と歩く』など。所属「藍生」「いつき組」「ku+」、俳人協会会員。

【作品と概要】

論点は最終選考の次節で述べる。

自選句から
「白南風や鳥に生まれて鳥を追ひ」
「人間を映して閉づる兎の眼」
「わが杖となる木に雪の記憶あり」
「ラブホテルある日土筆にかこまるる」
「日輪や切れてはげしき蜥蜴の尾」
「人悼む白シャツにかすかなフリル」
「花吹雪先ゆく人をつつみけり」。



③椿屋実梛 『ワンルーム白書』(2015年9月邑書林刊)

【略歴】

1979年生まれ。予選通過者では最年少。2005年「河」入会。2015年「河」を退会し無所属。俳人協会会員。

【作品と概要】

筑紫は、「ヤクルトレディ祖国を少し語る秋」を激賞したが、仲はその句はよいと思ったが、一連で見ると「汗ばんでヤクルトレディがやってくる」にがっかりしたと述べた。平均点はまだ甘いということがほかの選者の感想であった。


④矢野玲奈 『森を離れて』(2015年7月角川書店刊)

【略歴】

1975年東京生まれ。2005年「玉藻」入会、2008年「天為」入会。句集『新撰21』。所属俳人協会会員。

【作品と概要】

『新撰21』に載った「明るさは私のとりえ秋刀魚焼く」を小澤はよしとし、筑紫はキャピキャピしすぎているといった。しかし小澤は『新撰21』で見た「かつぽれの膝の高きに夏兆す」をことさら削った選に不満を感じていると述べた。後の席でやはり多くの人の選を受ける影響がいい意味でもわるい意味でもこの句集ににじみ出ているようだった。




  • 最終選考

さてこの4編の作品から投票で最終選考作品が選ばれた。しかしその選考方法はほかの俳句賞と少し変わっており、点数制を取っているものの点数はほとんど意味がなく、各選者がたった一人を選んでその人が受賞するかどうかを決めるというものに近かった。

選者の選び方によって全員が1人を選べばその瞬間に受賞者が決まる、選考も何もないかもしれない。また3人それぞれが別の人を押せば、4人の中の一人が落ちて、3つを延々と論争しあうことになる。そして、2人が1つの句集を押せば、2対1で対立しあうことになる。今回はこの最後のケースとなった。

    *

最終選考作品は、投票の結果、久保純夫と杉山久子の2編となったが、結果的にはベテラン2人と新人2人の中でベテランが残った。こうした顔ぶれの中で、新人が残るのはなかなか厳しいものがあるが、かつて発足した当初の俳人協会賞が石川桂郎や西東三鬼などベテランばかりが受賞している中で突如これらをさておいて新人鷹羽狩行が受賞した(第5回)という例もあるから、主催者としてはそうしたことも期待していたかも知れない。本当は二人受賞、或いは本賞と新人賞の授与という考え方もあったろうが主催者からそれは禁じられていたので最終選考は落ちたが、私や仲としては矢野も椿屋も新人賞を受賞したようなものではないかと感じている。

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最終選考は、久保と杉山の対決となったが、対照的な句集であるだけに議論は伯仲した。

①久保純夫

伝統的な俳句とは違う、句集の構成――目次に「●●を眺めながら」とあるように、船越桂、酒井抱一、フェルメール、藤田嗣治、丸山応挙など洋の東西にわたり、古典的な作品からポップアート的な作品までの美術に触発された作品であるだけに、必ずしもすべての作品と触発の対応関係は見えないが、旗幟鮮明な作品であることは間違いない。これを推した小澤は自分にない俳句と見て強く魅力を感じたという。仲は、そうした魅力を感じるが、独りよがりすぎる点で躊躇されるとした。小澤と仲の論争で、私が小澤の推薦に明確に答えなかった点を不満と感じた仲が却って私を批判したが、小澤の主張も十分分かるので仲の立場に立った批判は行わなかった。私が思うのに、多かれ少なかれ3人とも、現在の俳句の風潮に対する挑戦という意味でポジティブに評価する点は共通していたが、ネガティブな点をどう評価するか、特にこれと対照的な杉山をどう見るかというのが論点であったように感じたのである。だから問題は杉山の評価の仕方であるように感じたのである。

②杉山久子

小澤は、杉山の直前の句集『鳥と歩く』であれば文句なしに推せたが、今回の句集でそれに何を加えられたか。特に、自分が角川俳句賞の選考をしている過程で杉山の影響を強く受けたと思われる若い作家の、安直な情緒と季語の配合で作る作品が増加しているのを見ており推せなかったという。「合歓ひらくさゝやくやうに逝くやうに」のように。例えば、「亀鳴くやかなしきものに袋とぢ」は杉山が読む必要のある句なのか疑問だといったが、これは仲寒蟬は悪い句ではないと応酬し、又仲は「露の世にたふれふすともハイヒール」を激賞したが小澤は分からないとした。私は、模倣作家がいるといっても、摸倣作家が悪くても、模倣された杉山が悪いわけではないし、逆に明らかに摸倣作家の摸倣の及ばない作品「深き深き森を抜けきて黒ビール」「白菫かたまり咲くをけふの糧」があり、そこにこそ杉山の独自性があると見るべきではないかと述べた。

結果的には、杉山には仲と小澤、久保には小澤が票を投じ、杉山の受賞と決まった。

私の考えたこと(1)

夏目漱石の『文学論』は興味深い文学論書である。選考の過程で私がふいにこの漱石の『文学論』のことを述べたのでよく理解できなかったかもしれない。ここで少し補足しておきたい。

漱石は誰でも知る、明治を代表する、鴎外と並ぶ文豪であり、子規門下の俳人としても多少は知られている。しかし本来漱石は、幼くして漢学を学び、大学で英文学を学んで英国留学し、その成果を大学教師時代に『文学評論』『文学論』の理論的著作としてまとめている文学研究者である。言っておくが、特にこの『文学論』は、欧米的な科学の基づきつつも、単に18世紀英国文学という狭小な領域にとどまらず、漢学、そして同時代の明治文学を視野に入れて書かれたユニークな著作なのである。だからあまり人は気が付いていないが、漱石の小説にもし最も大きな影響を与えた文学原理論があるとすれば、それは自らの『文学論』なのであった。考えれば当然のことである。

『文学論』について少し解説をすると、こうしたユニークな文学論を敷衍して後半ではさらに「文学史」がどのように生まれるかも考察している。いかにも通俗的な文学史に比べ漱石の『文学論』から導き出される文学史は実にユニークであり科学的である(文学が科学的であるというのは議論もあろうが私はそう感じた)。のみならず、この当時まだ生まれていなかった「近代俳句史」だが、漱石の『文学論』からは本邦初の近代俳句史を考えるヒントがうかがえるのである。そんなことを考えながら今回の審査に臨ませてもらった。

私の考えたこと(2)

漱石のスタンスは、文学に「不易」はないということである(少なくとも、古典となっていない、現代の作品については)。俳句だってそうである。では、文学に変化ないし不変化をもたらす原因は何かといえば、「倦怠」だという。長く続いた時代の好尚はそれが悪いのではなくて、時代が経過したから変わるというのだ。変わるべき内的必然性があるわけではない。だから前の時代の好尚が悪く劣っていて、後の時代の好尚が良くて優れているから変化するのではない。価値とは無関係に、時代が変わるから好尚も変わらざるを得ないと考える。

漱石はこのような文学の好尚を創り出す能力を、「摸倣」・「能才」・「天才」の3つに分けている。「摸倣」は時代の大多数を占める人々でありその時代の好尚に浸っている人々である。「能才」は自ら変な言葉であるとしながら、時代の好尚が変わるときに、敏感にそれを先取りし一歩先んじる人である。今日の言葉でいえばその分野の秀才と言えるかも知れない。当然模倣者に比べれば、その時代の少数者に過ぎない。さらに「天才」は圧倒的な少数者であり、時代の好尚を超えてしまっており、周囲からは一切評価されない人々である。それが時代の好尚を変えるのは彼が死んだ後かも知れない。しかし、能才を超えた画期的な時代を先取りした変化を生み出す。漱石が自らを能才と思ったか、天才と思ったかは興味深い。漱石を国民文学の作家と見る人は能才を評価するのだろう、しかし漱石に近代文学のおける文学者の孤独を見る人は天才性を見ているかも知れない。

私の考えたこと(3)

さてこの3つの能力を俳句史に当てはめてみると、「摸倣」は明らかに虚子が勧めたホトトギスの花鳥諷詠の徒であろう。これに対し「能才」の代表は中村草田男ではないかと思う。草田男は世の常天才といわれているが、漱石のいう「天才」ではない。漱石の定義に従えば、草田男はある時代に圧倒的影響力を持ったわけであるから、時代の好尚が変わったときに、敏感にそれを先取りし一歩先んじた人であるから能才である。では俳句史において「天才」とは誰であろうか。俳句において天才はいない。死後、再評価されるメカニズムが俳句というジャンルにはないからである。生前に名前を残した人だけが俳句史には残る。忘れられた人は永遠に忘れられたままである。

もちろんジャンルを変えれば「天才」いると思う。例えば詩における宮澤賢治である。生前の評価は低くても、死後不滅の名声を勝ち得ているからである。しかし俳句にはこうした人は殆どいないと思うのである。だから、若い俳人たちが(若くはない俳人たちも含めて)生前の名声を必死に求める理由も分からなくはないのである。

その意味では、杉山久子は小澤がいう通りであれば「能才」であろう。若い作家たちの時代の欲求を先取りしているからだ。私たちはこうした「能才」を評価しない手はないと思う。ただ、である。杉山久子に、若い作家たちが摸倣しかねている点があるとすれば、それはそこに「天才」の粉がまぶされているからではないか。それがどれほど完成するか分からない(成功率は1%かもしれないが)が、そうした「天才」に期待したいという気持ちもある。

これに比較して久保純夫は直球で「天才」に勝負しているように見える。立派なことには違いない。しかし、天才を拒絶する俳句という文学形式にあっては、何か戦略が必要なのではないか。

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俳句の神は意地悪である。詩や短歌の神は祈れば槍や矢をまっすぐ飛ばしてくれるが、俳句はブーメランのように戻ってくる武器で倒さねばならない、いや下手をすれば却って投げ手を倒しかねない恐れさえある。詩や短歌では「愛国」といえば間違いなく国を愛する意味になるが、俳句で「愛国」といえば居心地の悪いむずむずとしたアイロニカルな解釈が生まれる。これをねじ伏せるには戦略がいる。私が杉山に投じた一票は、こうした言語の本質的な戦略性も含まれているといってよいだろう。

若い人に薦めたいこと

結論を一言。誰も摸倣の徒になりたいとは思うまい。それでは次の問いである。若い人には、自分が「能才」になりたいのか、「天才」になりたいのか、考えて欲しいということである。自分が理解されないということは、俳句が文学であることの必須の要件であるように思う。理解されないから嘆くのではなく、理解されてたまるかの気概がこうした賞の評価であると思う。その意味では、久保純夫と杉山久子も、理解されてたまるかの気概に溢れた作家たちであった。

矢野や椿屋の課題があるとすればそんなところではなかったろうか。