2016年5月27日金曜日

【エッセイ】 「里」2月号 島田牙城「波多野爽波の矜持」を読んで  /  筑紫磐井




「里」2月号(5月はじめに届く)で島田牙城が「波多野爽波の矜持」を載せている。
2016年4月30日の大阪俳句史研究会での講演である。傑作である。


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とはいえ、まず、何故、4月30日の講演が2月号に載るのか、不思議である。

それが何とか説明がついたとしても、さらに、4月30日の講演が、5月に私がエッセイを書く時点で手元にあるというのも不思議である。

前者は、雑誌の発行慣習上の問題。後者は、講演する前からほとんど原稿ができあがっておりそれを遮二無二雑誌に間に合わせたという編集努力の問題である。

いずれにしろ、本論には関係のない話であるがいっておきたい。

   *

講演の内容は牙城が師事した爽波の思い出である。

私が牙城と知り合ったのは、「寒雷」の関係者の席であり、当時牙城は加藤楸邨の「寒雷」に投句もしていたから、爽波との関係はよく知らなかった。余程後になって、牙城は爽波に師事し、のみならず「青」の編集長までしていたと言うことで驚いたのである。私のように「馬酔木」→「沖」というのは何の不思議もないが余り面白みがない、しかし牙城の「青」⇔「寒雷」というぶれは正直理解できないに二物衝撃だった。何と言ったって、「青」と「寒雷」は文学原理が全然違う、実相観入と俳句スポーツ説。ただその後牙城をある程度知って、彼の俳句活動を因数分解すると、まっとうで保守的な俳句は「青」、過激な評論と出版企画は「寒雷」という二つの遺伝子が影響していると理解することは出来た。

この講演は、その最初の牙城の出自を知る上でも面白かったと思う。

私が爽波を知ったのは、牙城を知ったずっと後であったから、師匠と弟子の順番は逆になっている。私が『野干』という変わった句集を出した後で爽波の知遇を得たのだが、爽波自身は、「青」で育成した若手たち(田中裕明、岸本尚毅、中岡毅雄という錚々たる顔ぶれ)と、俳壇ジャーナリズムで爽波が寵児となりしばしば東京へ出てきてあう若手(中原道夫とか)ではやはりちょっと人種が違う感じがした。爽波の本来の基準が「青」の若手たちとすれば、東京で会っていた若手たちはかなり外周にいる人たちであったろう。私はその意味で、小乗派と大乗派と呼んでみている。

そんな周辺から見ていると、爽波の本質が、岸本や田中が語っているのと少しずれて見えるのは、宗派仏教の違いからいってしょうがないかも知れない。

虚子の戦後俳句の基準を見てみると、高野素十・星野立子・京極杞陽というビッグスリーに尽きていると考えている。これはこの秋に出る予定の「虚子研究」に載せている。そしてこの3人は、(句の選び方にもよるが)ほとんどホトトギスの前衛派と言うにふさわしい破壊力を持っている。虚子から出ていながら、虚子を超えてしまっている(もちろん虚子自身もときどき虚子を超えてしまっているのだが)。

牙城の語る爽波はこうした3人に共通する前衛的保守性、原理主義的進歩性を持っているように思うのである。午前0時というか、午後12時というかは呼び方の違いにしか過ぎない。名称などはどうでもよいのであって、しんしんたる深夜に変わりはない。牙城の講演にはこうした爽波の覚悟がほとばしっているように思うのである。



※詳しくは「里」2月号をお読み下さい。

「里」の購入は邑書林サイトにて 

2016年5月13日金曜日

【川名大論争】 アーカイブversion1 追補 <岡崎万寿「川名大論文への一つの疑問」(文学の森刊『転換の時代の俳句力』より転載)>



【目次】

(承前)
①筑紫磐井「問題ある表現史」(ウエップ刊『戦後俳句の探求』より転載)
②筑紫磐井「八月の記憶」(「俳句新空間」第4号より転載)



(追加)
③岡崎万寿「川名大論文への一つの疑問」(文学の森刊『転換の時代の俳句力』より転載)

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●「川名大論文への一つの疑問」  (文学の森刊『転換の時代の俳句力』より転載) 岡崎万寿

 「戦後俳句の検証」と題する、川名大氏の「海程」連載(平22・1月号~平23・2、3月合併号)十二回が終わった。

 川名氏は戦中の新興俳句運動を中心に、近・現代俳句史の研究者・評論家としてよく知られている。その論考は丹念にデータに当たった実証性があり、ポジィティブな論旨で、これまで私自身も、学ぶことが多かった。その基本は、今回の連載でも同様である。

 ただここで、戦後俳句のリアリズムについて考える上で、見過ごせない一つの論点を、疑問として挙げておきたい。それは戦後俳句の中で、すでに名句、秀句として定評のある次の三句まで、「予定調和の発想、予定作意(イデオロギー)を前提とするまやかしが潜んでいるのではないか」「この句の読みと評価の書きかえを求めるゆえんである」と、厳しく否定的な評価をしている点である。

   戦後の空へ青蔦死木の丈に充つ     原子公平
   白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘へ   古沢太穂
   原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ  金子兜太

もちろん戦後俳句の主要な流れの、いわゆる社会性俳句は、敗戦後の混沌と民主化へのエネルギーが錯綜する中で、俳句で時代を詠み人間の自由を表現しようとする運動であったが、俳句表現の上での実りは乏しかった。川名氏が指摘するように「素材主義、散文的表現、左翼的観念の予定調和などの負性作品を量産した」ことは、その通りである。

だから、そうした素朴リアリズムから真のリアリズム俳句を追求する方法的な努力が、金子兜太をはじめ同世代の戦後派俳人たちによって推進され、兜太の造型俳句論という到達点があった。俳論の上でも、実作の上でも、俳句における社会性の地平を開拓した意義は、否定できない。川名大論文も、作品評価の上での違いはあるが、その点ではおおよそ一致している。

 では、先の川名大論文の予定調和説のどこに問題があるのか。まず原子公平の句〈戦後の空へ青蔦死木の丈に充つ〉から見てみよう。この句は敗戦直後の昭和二十一年の作。当時、原子が住んでいた東京・本郷近くの、焼け残ったアパート周辺の実景を見て、その青蔦の旺盛な生命力に感動して作った句である。学生の頃から原子と親交があり、そのアパートを頻繁に訪れていた金子兜太は、『今日の俳句』一(昭40刊)『わが戦後俳句史』(昭60刊)の中で、その作句の背景や原子の心境について、実にリアルに詳しく書き述べている。


 「松葉杖をついた原子が、夏の日を浴びて、アパートの近所の被爆の大木を見上げている様子がすぐ浮かびます。その死木と化した大木に重なるように巻きついた蔦の青葉が、生命(いのち)の旺盛な蘇りを明示している。原子は元気づけられ、自分の生を確実なものたらしめようとおもっている」(『わが戦後俳句史』)


 「ベつに作者は、具体的にこれこれしかじかの希望を青蔦によって示そうとしたのではない。ただ、なんとも壮観なこの生命力に感銘して、希望への意思を吐露したまでなのである」
「基本は、その感銘それ自体である。だから、私たちの胸のどこかにドスッとくる」(「今日の俳句」)

 全く自然に、この句の背景が見え、作者の感銘が伝わってくる。川名氏の、ある「理念(イデオロギー)が前提」となって作ったとする、予定調和説が根拠がないことは、これで十分だと思うが、もう一人だけ、作品それ自体から、この句を「戦後秀句」の一つに挙げ、原子公平の代表作として評価している俳人(新興俳句系)・平畑静塔の鑑賞を紹介しておこう。

「『戦後の空』といっても、もうはっきりとその面影の通じぬ人も多い。なお梢が焦げたまま突っ立つ巨木の空が、青く晴れわたればわたるほどに、地上が惨めに映った戦乱敗亡の空である。……青蔦は死木にからみ、その死木のかつての日の至高をはっきり示すいただきまで登りつめ、さらには不変の青空にまで伸びようとする不逞の強さを示している。戦後のたくましく新しい生命は、別に存在した。新しくたくましく地にはびこり、まことに有為転変をさだかに見せている光景なのである」 
(『戦後秀句Ⅱ』平畑静塔)

 その通り原子の句は、敗戦直後という、体験者でないとその実感が湧かないほどの瓦礫の廃墟の中で、逞しいいのちのエネルギーヘの生の感銘が、作句のモチーフとなっている。新旧交代といった理屈が先走った作品では、決してない。ところが川名大論文は、この名句について、証明らしい証明もなしにこう断定する。

 「この句は戦後の新たな民主社会の誕生という理念(イデオロギー)が前提として存在し、死木の頂上まで這い上る青蔦を当てはめることでそれを表わそうとした予定調和の句であろう。……(中村草田男の句と)共にイデオロギーに盲いた発想、作り方という点では軌を一にしている」 
(「海程」平22・6月号)

 これだけで、川名氏の真意を理解できる人がいるだろうか。川名氏は「この句は戦後の新たな民主社会の誕生という理念(イデオロギー)が前提として存在」するというが、戦後わずか一年、まだ新憲法も施行(昭22・5)されない、「食糧メーデー」など国民が飢餓と貧窮にあえいでいた夏である。体系的な思想をもった一部の人びとは別として、みんな生きることで精一杯だった。つまり、イデオロギー以前である。原子もその一人だったことは問違いない。

 川名氏が、この主張をあえて通そうと言うなら、原子が当時、俳句づくりの「前提」とするほどの、またそれに「盲いた発想」をするはどの確たる(イデオロギー)の持ち主であったことを、立証しなければならない。金子兜太の先の二冊の本を見ても、そんな話題は皆無である。

 実証性で定評のある川名氏が、どうして本連載でくどいほど(この種の予定調和説は、「海程」平22・6月号から11月号まで、連載5回にわたる)、こんな恣意ともいえる主張をされるのか。私には、疑問である。

 加えて、もう一つ疑問がある。私の手元にある現代俳句協会創立五十周年記念特大号「現代俳句」(平9・7月号)を開くと、メインの一つに「戦後五十年を振り返る」という、座談会が掲載されている。メンバーは佐藤鬼房、原子公平、阿部完市、川名大の四氏。司会は森田緑郎氏。面白い企画である。そこで注日したのは、その中で「社会性俳句のあり方と評価」にかかわる川名大氏の発言である。少し長くなるが資料的に重要なので、そのまま紹介する。

 「作品で見てゆきますと、昭和二十年代の初期から優れた社会性俳句が沢山作られているんですね。例えば、昭和二十年の 

   いつせいに柱の燃ゆる都かな 三橋敏雄 

は、追体験で東京大空襲を詠んだものですが、時代を捉えるとともに、時代を越えた普遍的な作品になっている。 

   かなしきかな性病院の煙突し 鈴木六林男 
   戦後の空へ青蔦死木の丈に満つ  原子公平 
   原爆地子がかげろふに消えゆけり  石原八東 

 『原爆地』の句などは、比較的早い時期に原爆を詠んだ作品だろうと思いますね。佐藤鬼房先生の句で印象的なのは、昭和二十七年の、 

   縄とびの寒暮いたみし馬車通る  佐藤鬼房 

等です。これも広い意味での社会性俳句の中に入るような作品です」


 「むしろ、作品の評価として大事なのは、単なる社会性現象として素材が浮き上った、作品の形象化という而で不充分であったものと、作品の形象化ということで優れたものとを見極めて、社会性俳句には、こういうマイナス面もあったけれども、優れた作品もあった。そこに社会性俳句の意義というのを認めていくことだと思います。先程申し上げたような句は、社会性俳句の歴史に残る作品だとするべきだと思うんです」

 以上、川名氏らしいポジティブな基調で、作品評価の点を重視した発言は、妥当であると思う。ここでは原子公平の〈戦後の空へ青蔦死木の丈に充つ〉という作品が「優れた社会性俳句」の数少ない一つに挙げられ、「社会性俳句の歴史に残る作品だとするべきだ」とまで、明確に発言されている。前述の予定調和説で、この句をオール否定される主張の影もない。つまり、一八〇度違うのである。

 この座談会は平成九年に行われたもので、その後、いつ、なぜ、この句の積極評価の主張が変わったのか。この問に出版された『俳句は文学でありたい』(平17刊)、『挑発する俳句 癒す俳句』(平22刊)などを調べてみたが、その形跡もない。そうなると、この問題は川名大氏の俳句評論家としてのあり方にかかわってくることになるのだが――。やはり、疑問としか言いようがないのである。

 ではなぜ、こうした我田引水としか思えない主張をされるのか。連載をよく読むと、この予定調和説は、論の組み立て自体に、作品評価を恣意的に歪める問題があるようだ。簡単に、その問題点を列記しておこう。

①川名氏の予定調和説は、一般に、その論理の筋が見えすぎる程度の、いわゆる予定調和とは違って、作品評価にあたって、まず最初に、「左翼イデオロギー」「左翼的観念」とか、「戦後イデオロギー」「固定観念」とかの、特定イデオロギー(理念)が、句作りの「前提」「先入主」として、ばっちり「存在」するところから始まる。そんな大袈裟で漠とした「観念」から作句を始める俳人が、どれほどいるだろうか。

②そして、そのイデオロギー的「前提」を柱にして、フレーズをそれに「なぞり」「当てはめ」「肉付けするコード」として、五七五の言葉が表現されるそうだ。ややこしい。そこでは作者の胸を打つ感覚、感動も、新鮮な発見もモチーフも、その表現の工夫も、単なるイデオロギーのための「符丁」となり、「作意」や「仕掛けた表現意図」に「奉仕する」ものとして、みじめに歪曲されてしまうのである。

③こうして川名氏の予定諞和説がまかり通り、戦後の長い年月、多くの俳人たちに口誦され、愛されてきた社会性の名句、秀句、佳句の数々が撫で切りにされる結果となる。公平、太穂、兜太の他にも鈴木六林男、沢木欣一、佐藤鬼房などの作品が俎上にのぼる。その問題が「いわゆる社会性俳句の最大の負性」と言うことだ。


 その上、それらの俳句を予定調和の句と詠めない俳人は、「仕掛けた表現意図にまんまと嵌まって、予定調和の表現になっていることに盲目だ」「表現史に盲いているのだ」と、厳しく指摘されるのである。尊敬する川名氏が、まさかと思うが、論文の文意は、やはりそうなっている。私は俳句作品の評価の基準というなら、川名氏が現俳協五十周年記念号の座談会で発言され、先に引用した、「作品の形象化」という点で優れたものと、不充分なものとを、見分けることの重要性については、まったく賛成であり、それに尽きるのではないかと思っている。

 先に挙げた原子公平の「戦後の空へーー」につづいて、川名氏が予定調和の悪しき例として挙げている古沢太穂の〈白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘〉の句も、金子兜太の〈原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ〉の句も、それぞれに時代のかかえる問題に真正面から切り込んだ、いわば傾向性を持つ社会性俳句である。そこで川名氏が問うべきは「作品の形象化」という点で成功しているか、否かではないか、二つの句ともそれによって評価の分かれる作品であるからである。
 それは兜太が、常々教えているところでもある。思想は当然、俳句でも詠める。いや詠むべきである。しかし思想を露出させては詩にならない、そのためには「思想の生活化」「肉体化」、つまり思想を日常の暮らしに溶け込ませ、そこから俳句を立ち上げよ。表現を練り上げ、作品の詩的形象化をはかれ、と。

 いうまでもなく、この太穂の句、兜太の句を秀句、名句と思う多くの俳人は、この「作品の形象化」という点でも、戦後という時代を生き生きと映像化、形象化した作品と見る。太穂の〈白蓮白シャツ彼我ひるがえり〉という清潔な健康感や能動的な意思の明るさをもつ表現に、心はずむ詩を感じている。また兜太の「蟹かつかつと瓦礫あゆむ」という小動物の鮮やかな映像は、非核へのイメージ力十分で、「原爆許すまじ」という被爆国民の祈りにも似た言葉と呼応して、いまでもその時代の息吹きを感じさせてくれる。

 結論的に言えば、公平、太穂、兜太の掲句は、問違いなく実景、実感、実体験から発想したリアリズムの作品である。それを予定調和説なるものをもって、味気ない非リアリズムの観念句の芥箱へ捨ててはならない。この「予定調和」なる篩にかければ、社会性俳句の残しておきたい他の秀句、佳句の多くが、同じ観念句の芥箱行きとされるだろう。

 以上、原子公平、古沢太穂、金了兜太の三句を中心に、あえてそこに問題を絞って、戦後の社会性俳句の評価をめぐる、川名大論文の「予定調和」説という疑問だらけの主張を批評してきた。戦後俳句と、その基底にあるリアリズムが真っ当に検証され、評価され、継承されることを願うからである。行論と紙数の都合で、本連載での川名大論文の積極面について、具体的に書けなかったことを残念に思っている。



【参考】

岡崎万寿著『転換の時代の俳句力――金子兜太の存在』平成27年8月15日文学の森刊。定価1600円+税。


2016年5月6日金曜日

【エッセイ】 卒業・仰げば尊し  / 筑紫磐井


卒業

BLOG「俳句新空間」では現在「卒業帖」が進行中である。甲南大学の川嶋ぱんだ氏や彼の友人たちが卒業を控えているということで、卒業記念帖をまとめてみようと提案したものである。せっかくなら、今年卒業しない人たちにも募集してみようと言うことで声を掛けさせて頂いた。これから卒業する人達はあまりいないだろうから、すでに遠く昔卒業してしまった人たちの出稿が期待される。
概して俳句を始めるのは、昔は学生時代が多かったようであるが、最近は社会人になってから始めることが多い。ということは、圧倒的多数の俳人がリアルタイムの卒業俳句を作ったことがないことになる(昔は、強制的に卒業文集が作らされ、一人必ず1編は書かなければいけないという制約の下に、圧倒的多数の卒業生が簡単な俳句を選んでいた。筆者もその一人であるが、およそそれが現在の俳句につながる志に役立ったという気持ちはない)。

昔の卒業を思い出しながら俳句を書くということは、一種の「卒業想望」俳句と言うことになるわけで、戦前の三橋敏雄や西東三鬼らの「戦火想望」俳句以来の「想望」俳句と言うことになるわけである。新しい俳句ができるかもしれないと大いに期待している。

     *

さて卒業帖の準備で竹岡一郎氏と話をしているとこんなことを聞かれた(氏の話は、公になっている部分だけを見ても恐ろしく刺激的であるが、公になっていない部分はもっと危険である)。自分に、卒業帖の用意があるが、卒業帖はやはりめでたいもの、エールを送るような内容でなければいけないか、できているのは卒業式というものが如何に陰惨であるかを詠った句ばかりで、自分は学校というものをそういう風にしかとらえられないのでとてもめでたい句は詠めない(校内暴力 の時代で、教師へのお礼参りや暴走族の暴走に代表される卒業式だった)。今の人たちから見ればむごたらしく暴力的なというだけだが、そういう句を出すのはふさわしくないという事であれば、卒業帖は遠慮する、というものだった。

歳旦帖も春興帖も題詠句集であるので、卒業句帖も卒業さえ読んでおけば支障はないと考えた。卒業したからと言ってもおめでたいわけでもないからである。虚子にもこんな句がある。


酒井野梅其児の手にかゝりて横死するを悼む 
弥陀の手に親子諸共(もろとも)返り花    ( 大正13年)

身内の殺人は明治にも大正にもざらにあるのであり、ことさらめずらしいことではない。こうしたものを詠むのが俳句だろうと思っている。極楽の文学は地獄の文学に他ならない。ただそれにしては、虚子の句はやや甘いなと思う。


仰げば尊し

卒業に因んで。現代の卒業式で評判の悪い「仰げば尊し」は実はアメリカの歌だったことが最近判明した(一橋大学教授桜井雅人)。題名は「Song for the Close of School」――確かに卒業歌だ。今もアメリカの大学の卒業式で歌われているようだ。もちろん歌詞は日本のと大分違うが、フェルマータが特徴的で、「仰げば尊し」であることは間違いない。

日本では卒業式ではもはや歌われないが、むしろ台湾では歌われていると聞く。それが何とアメリカの歌とは!

常に問題となっているのは次の章節だ。

2.
互に睦し 日ごろの恩
別るる後にも やよ 忘るな
身を立て 名をあげ やよ 励めよ
今こそ 別れめ いざさらば

立身出世とは何事かと言うことらしい。
第2節、第3節は英語ではこうなっている。

And friends we've known in childhood's days May live but in the past,
But in the realms of light and love May we all meet at last.

光と愛の神の国での再会を約しているのだから、キリスト教の影響の強い欧米と、儒教の影響の強い日本との国情をよく表している。どちらもどちらである。

しかし最近になってから、この歌こそ俳壇の現状をよくあらわしていることに気付いた。およそ、広い世間の中で恥ずかしげもなく「師」と呼べる人がいるのは俳壇ぐらいだ。だから結社に入ることを、師事という。師に事(つか)うるの意味だ(かつて俳句雑誌の編集長から、若手が略歴で、池田澄子に私淑と書いてきたのを見て激怒していた。私淑とは、直接師事しないで、ひそかに(私かに)尊敬し思いを寄せる(淑)ことを言うはずだ。しょっちゅう池田澄子にあってタメグチを聞いているのに私淑とは何か!というのである。)。俳句の師は、一文字でも師でもある。選句、添削、俳人協会への推薦、句集の斡旋、選と序跋書きをしてくれる先生は師でなくてなんであろう。師のない俳人は、俳人と云えないかもしれない。


1.
仰げば 尊し 我が師の恩
教の庭にも はや幾年
思えば いと疾し この年月
今こそ 別れめ いざさらば

2.互に睦し 日ごろの恩
別るる後にも やよ 忘るな
身を立て 名をあげ やよ 励めよ
今こそ 別れめ いざさらば


2番が特にいい。「互に睦し」とは結社融和をいう、「日ごろの恩」とは結社内の先輩・後輩の恩である。「別るる後にも」とは、結社からの独立(主宰誌創刊)をいう。決してもめてはならない。「身を立て」とは、結社内で同人・編集長・同人会長・副主宰、さらに継承して主宰・名誉主宰となることを言う。「名をあげ」は結社賞・協会賞・角川俳句賞・読売文学賞・蛇笏賞・芸術院賞・ノーベル賞等の受賞、俳人協会・文芸家協会・芸術院会員への加入、紫綬褒章・文化功労者を受けることを言う。これらは決して悪いことではない。どんな立身出世をしても<やよ 励めよ>終身精進したいものだ。俳句の会では<分かれ目>にあたって、「仰げば尊し」2番を高らかに歌いたいものだ。