2016年5月13日金曜日

【川名大論争】 アーカイブversion1 追補 <岡崎万寿「川名大論文への一つの疑問」(文学の森刊『転換の時代の俳句力』より転載)>



【目次】

(承前)
①筑紫磐井「問題ある表現史」(ウエップ刊『戦後俳句の探求』より転載)
②筑紫磐井「八月の記憶」(「俳句新空間」第4号より転載)



(追加)
③岡崎万寿「川名大論文への一つの疑問」(文学の森刊『転換の時代の俳句力』より転載)

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●「川名大論文への一つの疑問」  (文学の森刊『転換の時代の俳句力』より転載) 岡崎万寿

 「戦後俳句の検証」と題する、川名大氏の「海程」連載(平22・1月号~平23・2、3月合併号)十二回が終わった。

 川名氏は戦中の新興俳句運動を中心に、近・現代俳句史の研究者・評論家としてよく知られている。その論考は丹念にデータに当たった実証性があり、ポジィティブな論旨で、これまで私自身も、学ぶことが多かった。その基本は、今回の連載でも同様である。

 ただここで、戦後俳句のリアリズムについて考える上で、見過ごせない一つの論点を、疑問として挙げておきたい。それは戦後俳句の中で、すでに名句、秀句として定評のある次の三句まで、「予定調和の発想、予定作意(イデオロギー)を前提とするまやかしが潜んでいるのではないか」「この句の読みと評価の書きかえを求めるゆえんである」と、厳しく否定的な評価をしている点である。

   戦後の空へ青蔦死木の丈に充つ     原子公平
   白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘へ   古沢太穂
   原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ  金子兜太

もちろん戦後俳句の主要な流れの、いわゆる社会性俳句は、敗戦後の混沌と民主化へのエネルギーが錯綜する中で、俳句で時代を詠み人間の自由を表現しようとする運動であったが、俳句表現の上での実りは乏しかった。川名氏が指摘するように「素材主義、散文的表現、左翼的観念の予定調和などの負性作品を量産した」ことは、その通りである。

だから、そうした素朴リアリズムから真のリアリズム俳句を追求する方法的な努力が、金子兜太をはじめ同世代の戦後派俳人たちによって推進され、兜太の造型俳句論という到達点があった。俳論の上でも、実作の上でも、俳句における社会性の地平を開拓した意義は、否定できない。川名大論文も、作品評価の上での違いはあるが、その点ではおおよそ一致している。

 では、先の川名大論文の予定調和説のどこに問題があるのか。まず原子公平の句〈戦後の空へ青蔦死木の丈に充つ〉から見てみよう。この句は敗戦直後の昭和二十一年の作。当時、原子が住んでいた東京・本郷近くの、焼け残ったアパート周辺の実景を見て、その青蔦の旺盛な生命力に感動して作った句である。学生の頃から原子と親交があり、そのアパートを頻繁に訪れていた金子兜太は、『今日の俳句』一(昭40刊)『わが戦後俳句史』(昭60刊)の中で、その作句の背景や原子の心境について、実にリアルに詳しく書き述べている。


 「松葉杖をついた原子が、夏の日を浴びて、アパートの近所の被爆の大木を見上げている様子がすぐ浮かびます。その死木と化した大木に重なるように巻きついた蔦の青葉が、生命(いのち)の旺盛な蘇りを明示している。原子は元気づけられ、自分の生を確実なものたらしめようとおもっている」(『わが戦後俳句史』)


 「ベつに作者は、具体的にこれこれしかじかの希望を青蔦によって示そうとしたのではない。ただ、なんとも壮観なこの生命力に感銘して、希望への意思を吐露したまでなのである」
「基本は、その感銘それ自体である。だから、私たちの胸のどこかにドスッとくる」(「今日の俳句」)

 全く自然に、この句の背景が見え、作者の感銘が伝わってくる。川名氏の、ある「理念(イデオロギー)が前提」となって作ったとする、予定調和説が根拠がないことは、これで十分だと思うが、もう一人だけ、作品それ自体から、この句を「戦後秀句」の一つに挙げ、原子公平の代表作として評価している俳人(新興俳句系)・平畑静塔の鑑賞を紹介しておこう。

「『戦後の空』といっても、もうはっきりとその面影の通じぬ人も多い。なお梢が焦げたまま突っ立つ巨木の空が、青く晴れわたればわたるほどに、地上が惨めに映った戦乱敗亡の空である。……青蔦は死木にからみ、その死木のかつての日の至高をはっきり示すいただきまで登りつめ、さらには不変の青空にまで伸びようとする不逞の強さを示している。戦後のたくましく新しい生命は、別に存在した。新しくたくましく地にはびこり、まことに有為転変をさだかに見せている光景なのである」 
(『戦後秀句Ⅱ』平畑静塔)

 その通り原子の句は、敗戦直後という、体験者でないとその実感が湧かないほどの瓦礫の廃墟の中で、逞しいいのちのエネルギーヘの生の感銘が、作句のモチーフとなっている。新旧交代といった理屈が先走った作品では、決してない。ところが川名大論文は、この名句について、証明らしい証明もなしにこう断定する。

 「この句は戦後の新たな民主社会の誕生という理念(イデオロギー)が前提として存在し、死木の頂上まで這い上る青蔦を当てはめることでそれを表わそうとした予定調和の句であろう。……(中村草田男の句と)共にイデオロギーに盲いた発想、作り方という点では軌を一にしている」 
(「海程」平22・6月号)

 これだけで、川名氏の真意を理解できる人がいるだろうか。川名氏は「この句は戦後の新たな民主社会の誕生という理念(イデオロギー)が前提として存在」するというが、戦後わずか一年、まだ新憲法も施行(昭22・5)されない、「食糧メーデー」など国民が飢餓と貧窮にあえいでいた夏である。体系的な思想をもった一部の人びとは別として、みんな生きることで精一杯だった。つまり、イデオロギー以前である。原子もその一人だったことは問違いない。

 川名氏が、この主張をあえて通そうと言うなら、原子が当時、俳句づくりの「前提」とするほどの、またそれに「盲いた発想」をするはどの確たる(イデオロギー)の持ち主であったことを、立証しなければならない。金子兜太の先の二冊の本を見ても、そんな話題は皆無である。

 実証性で定評のある川名氏が、どうして本連載でくどいほど(この種の予定調和説は、「海程」平22・6月号から11月号まで、連載5回にわたる)、こんな恣意ともいえる主張をされるのか。私には、疑問である。

 加えて、もう一つ疑問がある。私の手元にある現代俳句協会創立五十周年記念特大号「現代俳句」(平9・7月号)を開くと、メインの一つに「戦後五十年を振り返る」という、座談会が掲載されている。メンバーは佐藤鬼房、原子公平、阿部完市、川名大の四氏。司会は森田緑郎氏。面白い企画である。そこで注日したのは、その中で「社会性俳句のあり方と評価」にかかわる川名大氏の発言である。少し長くなるが資料的に重要なので、そのまま紹介する。

 「作品で見てゆきますと、昭和二十年代の初期から優れた社会性俳句が沢山作られているんですね。例えば、昭和二十年の 

   いつせいに柱の燃ゆる都かな 三橋敏雄 

は、追体験で東京大空襲を詠んだものですが、時代を捉えるとともに、時代を越えた普遍的な作品になっている。 

   かなしきかな性病院の煙突し 鈴木六林男 
   戦後の空へ青蔦死木の丈に満つ  原子公平 
   原爆地子がかげろふに消えゆけり  石原八東 

 『原爆地』の句などは、比較的早い時期に原爆を詠んだ作品だろうと思いますね。佐藤鬼房先生の句で印象的なのは、昭和二十七年の、 

   縄とびの寒暮いたみし馬車通る  佐藤鬼房 

等です。これも広い意味での社会性俳句の中に入るような作品です」


 「むしろ、作品の評価として大事なのは、単なる社会性現象として素材が浮き上った、作品の形象化という而で不充分であったものと、作品の形象化ということで優れたものとを見極めて、社会性俳句には、こういうマイナス面もあったけれども、優れた作品もあった。そこに社会性俳句の意義というのを認めていくことだと思います。先程申し上げたような句は、社会性俳句の歴史に残る作品だとするべきだと思うんです」

 以上、川名氏らしいポジティブな基調で、作品評価の点を重視した発言は、妥当であると思う。ここでは原子公平の〈戦後の空へ青蔦死木の丈に充つ〉という作品が「優れた社会性俳句」の数少ない一つに挙げられ、「社会性俳句の歴史に残る作品だとするべきだ」とまで、明確に発言されている。前述の予定調和説で、この句をオール否定される主張の影もない。つまり、一八〇度違うのである。

 この座談会は平成九年に行われたもので、その後、いつ、なぜ、この句の積極評価の主張が変わったのか。この問に出版された『俳句は文学でありたい』(平17刊)、『挑発する俳句 癒す俳句』(平22刊)などを調べてみたが、その形跡もない。そうなると、この問題は川名大氏の俳句評論家としてのあり方にかかわってくることになるのだが――。やはり、疑問としか言いようがないのである。

 ではなぜ、こうした我田引水としか思えない主張をされるのか。連載をよく読むと、この予定調和説は、論の組み立て自体に、作品評価を恣意的に歪める問題があるようだ。簡単に、その問題点を列記しておこう。

①川名氏の予定調和説は、一般に、その論理の筋が見えすぎる程度の、いわゆる予定調和とは違って、作品評価にあたって、まず最初に、「左翼イデオロギー」「左翼的観念」とか、「戦後イデオロギー」「固定観念」とかの、特定イデオロギー(理念)が、句作りの「前提」「先入主」として、ばっちり「存在」するところから始まる。そんな大袈裟で漠とした「観念」から作句を始める俳人が、どれほどいるだろうか。

②そして、そのイデオロギー的「前提」を柱にして、フレーズをそれに「なぞり」「当てはめ」「肉付けするコード」として、五七五の言葉が表現されるそうだ。ややこしい。そこでは作者の胸を打つ感覚、感動も、新鮮な発見もモチーフも、その表現の工夫も、単なるイデオロギーのための「符丁」となり、「作意」や「仕掛けた表現意図」に「奉仕する」ものとして、みじめに歪曲されてしまうのである。

③こうして川名氏の予定諞和説がまかり通り、戦後の長い年月、多くの俳人たちに口誦され、愛されてきた社会性の名句、秀句、佳句の数々が撫で切りにされる結果となる。公平、太穂、兜太の他にも鈴木六林男、沢木欣一、佐藤鬼房などの作品が俎上にのぼる。その問題が「いわゆる社会性俳句の最大の負性」と言うことだ。


 その上、それらの俳句を予定調和の句と詠めない俳人は、「仕掛けた表現意図にまんまと嵌まって、予定調和の表現になっていることに盲目だ」「表現史に盲いているのだ」と、厳しく指摘されるのである。尊敬する川名氏が、まさかと思うが、論文の文意は、やはりそうなっている。私は俳句作品の評価の基準というなら、川名氏が現俳協五十周年記念号の座談会で発言され、先に引用した、「作品の形象化」という点で優れたものと、不充分なものとを、見分けることの重要性については、まったく賛成であり、それに尽きるのではないかと思っている。

 先に挙げた原子公平の「戦後の空へーー」につづいて、川名氏が予定調和の悪しき例として挙げている古沢太穂の〈白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘〉の句も、金子兜太の〈原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ〉の句も、それぞれに時代のかかえる問題に真正面から切り込んだ、いわば傾向性を持つ社会性俳句である。そこで川名氏が問うべきは「作品の形象化」という点で成功しているか、否かではないか、二つの句ともそれによって評価の分かれる作品であるからである。
 それは兜太が、常々教えているところでもある。思想は当然、俳句でも詠める。いや詠むべきである。しかし思想を露出させては詩にならない、そのためには「思想の生活化」「肉体化」、つまり思想を日常の暮らしに溶け込ませ、そこから俳句を立ち上げよ。表現を練り上げ、作品の詩的形象化をはかれ、と。

 いうまでもなく、この太穂の句、兜太の句を秀句、名句と思う多くの俳人は、この「作品の形象化」という点でも、戦後という時代を生き生きと映像化、形象化した作品と見る。太穂の〈白蓮白シャツ彼我ひるがえり〉という清潔な健康感や能動的な意思の明るさをもつ表現に、心はずむ詩を感じている。また兜太の「蟹かつかつと瓦礫あゆむ」という小動物の鮮やかな映像は、非核へのイメージ力十分で、「原爆許すまじ」という被爆国民の祈りにも似た言葉と呼応して、いまでもその時代の息吹きを感じさせてくれる。

 結論的に言えば、公平、太穂、兜太の掲句は、問違いなく実景、実感、実体験から発想したリアリズムの作品である。それを予定調和説なるものをもって、味気ない非リアリズムの観念句の芥箱へ捨ててはならない。この「予定調和」なる篩にかければ、社会性俳句の残しておきたい他の秀句、佳句の多くが、同じ観念句の芥箱行きとされるだろう。

 以上、原子公平、古沢太穂、金了兜太の三句を中心に、あえてそこに問題を絞って、戦後の社会性俳句の評価をめぐる、川名大論文の「予定調和」説という疑問だらけの主張を批評してきた。戦後俳句と、その基底にあるリアリズムが真っ当に検証され、評価され、継承されることを願うからである。行論と紙数の都合で、本連載での川名大論文の積極面について、具体的に書けなかったことを残念に思っている。



【参考】

岡崎万寿著『転換の時代の俳句力――金子兜太の存在』平成27年8月15日文学の森刊。定価1600円+税。