現在出ている「俳句」11月号に「角川俳句賞の60年」という記事を執筆している。この間の受賞者のプロフィル、作品をかなり丹念に読んでみて通史としてまとめてみたものだ。あまり例のない読み物となっている。当然だろう、「俳句」編集部以外にそんなことをするところはないのだから。そうした中で、興味深い問題が見つかったが、限られた頁数の中で書ききれなかったことも多かった。前記「俳句」の記事では「これを踏まえて何時か、より掘り下げた研究をしてみたい」と書いたので、そんな点をいくつか「異聞」として書いてみた。俳句賞応募に当たっても多少役に立つかもしれない。
特集執筆に当たって参考としたのは過去の全受賞記事の他に、今から10年前の「俳句」平成16年10月・11月号の「角川俳句賞の半世紀」特集だったが、この10年前の号で川辺きぬ子(36年受賞)と大内登志子(38年受賞)の二人の受賞者が物故者としてあがっていたのが気になっていた。物故者としてあげられているのだが、没年が記載されていないのである。
通常こうした時は不明者としてあげておくべきではなかろうか。現在の「俳句」の鈴木編集長に確かめてみると、平成16年の特集のとき、かなり周到に調査をして、その証言によればなくなったことは間違いないらしいがその没年までは確認できなかったという。しかし、それから10年経って、さらに関係者は少なくなり(例えば「鶴」の編集長を長く勤めていた星野麦丘人氏ならある程度御存知だったと思われるが、氏も先年なくなられた)、ますます(没年以前の)「物故」の事実を証明することは難しくなっている。10年前に、「なくなったことは間違いないらしい」という根拠さえよく分からなくなっているのである。
なぜ二人にこだわるかと言えば、特に川辺きぬ子と大内登志子は、歴代の角川俳句賞の受賞者の中でも特異な作家であり、ある意味では初期の角川俳句賞の劇的な性格をよく代表しているように思われるからである。川辺きぬ子は第7回(昭和36年受賞)に「しこづま抄」で応募し入選したもので、これはしこづま(醜妻)と自虐した日雇婦の生活を詠んだ圧巻の作である。
冬かもめ枷なきものは切に翔く きぬ子
また大内登志子は第9回(昭和38年受賞)に「聖狂院抄」で応募し入選したもので、精神分裂症を発症し病院に入院した時の作品である。
檻鳴らし夫放ちけり罌粟若葉 登志子
特に、大内登志子は受賞後1、2年の間にたちまちに姿を消している。あまりにも劇的な登場と退場であるところに、終戦直後の鈴木しづ子に似たイメージをもった。こんなところから、私は角川の「俳句」を執筆しながら、決して「俳句」に掲載できない、マイナーな大内登志子と言う作家の追跡を始めてみた。マニアックな作業である。しかし、やっているうちに、現在と往時を行き来することは大事な作業ではないかと思えてきた。もちろん短期間の調査なので不十分であることは間違いない、むしろ今わずかでも知る人があれば、登志子の安否も含めて、登志子についての事績を教えて頂きたいと思う。
*
大内登志子が角川俳句賞を受賞した時の感想の中の履歴ではこう書かれている。
「大正11年11月11日生。俳句は「鶴」がはじめて。昭和31年「鶴」同人。34年発作性精神分裂症発病、しばしば作句不能に陥るも、俳句即信仰と念じ間歇泉のごとく蘇りくる平常神経の中で詠いつづける。昭和37年初夏より38年晩春まで一ヵ年間ザビエル聖和荘入荘。宇部市西区島通二丁目、伊藤ちやう方。」
(※39年俳句年鑑によれば、28年に鶴に参加、32年に同人となり中断(これは間違っており、31年に同人、直後に発症)、とある。また、後の記録を見ると、登志子はたった1回の応募で角川俳句賞を受賞した、角川俳句賞史上稀有な受賞のようである。)
劇的な経歴である。ところで毎年の「俳句年鑑」住所録では大内登志子の名は40年まで記載がある。39年までは「宇部市西区島通2 伊藤方」とあり受賞時の住所と同じであるが、40年には「宇部市松島町11-23」と記載されており移転したらしい。「俳句年鑑」住所録に載っていないということは、受賞後意外に早く俳壇から離れてしまったようであり、これ以降、大内登志子の行方は杳として知れないと言うことになろう。
さて、大内登志子の受賞作品をもう一度眺めてみよう。
青梅の百顆よ子欲し乳房欲し
鶏冠黴び聖狂院の烏骨鶏
梅雨おぼろ狂女を囃す韓の唄
梅雨嵐心奥の灯も衰へり
ひと癒えて今日も去りゆく鉄風鈴
鉄窓下炎昼の溝鳴りいづる
夫恋の流灯炎ゆる水の底
跪坐石をふちどる白露聖狂院
露の狂者祈るかたちに血をとらる
聖燭の芯せちに燃ゆ颱風裡
埴輪澄めりこころの内外霧とざし
霧に吐く言葉返し来疲れたり
蜩や責具(せめ)のごと餉のはこばるる
不治狂者無月の翳を曳きつどふ
秋の蚊の病巣をよづ髪を攀づ
病髪をはなれ秋の蚊よるべなし
亡きごとき夫の写真よ夜の落葉
敗荷が支ふ狂者の打ちし蛾を
凍菊の燃え夫を見ぬ幾月日
瞑れば柊にほふ懺悔室
狂女たり雪虫に手を弾ませて
寒の菊死期の狂者に狂気なし
死にちかき唇を凍て出づ一独語
酷寒の紅梅を吻ひ狂ふなり
芝を焼く狂者の数の監視人
恋猫が舐めうすらひの穴穿つ
合意離婚成る
檻鳴らし夫放ちけり罌粟若葉
拭かずおくつまの蔵書の春の黴
これらの作品については確かに角川俳句賞選考に当たり活発な議論が行われている。出席者は、秋元不死男、大野林火、中村草田男、平畑静塔、加藤楸邨(座談会は欠席)、それに角川書店本社から角川源義が参加した。まず、無記名候補による採点での得票は次の通りであった。候補作20篇の中から、5点から1点までの採点を行い、高点の上位四篇を討議することとなった。
⑤迫田白庭子「裏」14 (秋元4,大野5、加藤5)
⑨今村俊二「家」11 (大野1,加藤2,平畑5,中村3)
⑩佐野操「炭焼ぐらし」9 (秋元2,平畑4,角川3)
⑪大内登志子「聖狂院抄」13 (秋元5,大野3,角川5)
この四篇について討議した結果、「聖狂院抄」について意見が交わされた。先ず、5点を入れた秋元が発言している。
秋元:これは実を言うと、非常に訴えるものがあってひかれているのです。今日平畑先生がおいでになるというので、実は僕は果たしてこういうことがあり得るのか、お聞きしたかった。非常に冷静なんですよ、うたっている一句一句が。そして、狂院のなかにいるにしては、ときによると非常に静かなんですね。静かな時にうたうということもあり得る・・・精神状態っていうのはこういうもんなんですか?そういう女の人もいるんですか?(「座談会「新しい潮流を探る)
秋元不死男の力説が、最終的に大内登志子の受賞を決めたようである。
【表題】
中村:わたしは女の人というのは――これは女の人からくるのか気質からくるのかわかりませんが――なにか一種の示威というか、自己陶酔みたいな、こういうところに身を置いていながら、なんだかそれをみずから楽しんでいるというか、ひけらかしているような、そういうのが僕にはちょっと・・・・。
角川:ひけらかすっていう感じはありませんでしたけど・・・。
中村:総題が「聖狂院抄」でしょう。「聖家族」だのなんかのように、総題を「聖」として、なにかそういう自分の・・・。
平畑:全体の感じが「聖」という感じが足りぬように思うんですが。聖院というところにっこだわれば。
大野:だから「聖」をとれば(笑)。
平畑:つまらない題になっちゃう。
秋元:たとえばキリスト教のそうした病院というほどの意味で「聖」を使っているので、そこに意味はないだろうと思う。私はこれを第一位に推して、実をいうと、私はこの一篇だけを全部の中から今年はどうしても推したいという強い気持ちをもっている。
平畑:秋元さんは五点でなしに八点。(笑)
中村と平畑が登志子作品に批判的である。特に冒頭は「聖狂院抄」の表題がいかにもポーズのようである点を指摘されている。すこしポイントがずれている議論だ。しかも、登志子がこの時入院していたのは略歴にもあるように、宣教師系のザビエル聖和荘であるから当然の表題であった。深読みしている草田男の方がおかしいのである。
【狂者の句】
秋元:わたし、これ一篇という気持ちできょうは望んだんです。ちょっと申し上げますが、これは読むとおわかりのように、作者は女性で、精神病院へ入院した人ですが、読んでいくと、夏から秋、春というふうに、一年間の狂院生活をうたっているわけです。その一年間のいろいろな句に斡旋されている季語を見ると、相当豊かに使っていると思う。そして、こういうふうな内容のものはとかく物語的な要素が入りがちなものですが、この人はそれにおぼれていない。つまり、俳句的な成立をしている作品が多い。そこに大変わたしは共鳴したわけです。静塔先生のように、狂者を診られるお医者さんの俳句とか、あるいは狂院に勤めている事務員とか、そういう人の句はほかにもありますが、狂人自身が作った作品というのは、あまりわたしはないと思う。
大野:「秋夜篇」というのを作った岩田昌寿がいたが・・・。
秋元:これはおそらく現在はもうすっかりなおっている人だと思う。なおってからの作品だろう。回想した作品じゃないですか。
角川:あなたの獄中句みたいなものですか?
秋元:ええ。ですから特異な環境を使ってはいますが、おぼれていないんですね。
大野:いや、わたしはあまり冷静すぎるので、平畑先生に伺いたかった、もっと感情の起伏がありそうなものだと・・・。
秋元:わたしはこの人、結社ずれのしてない穂とのように思う。一句一句見ていくと。
大野:わたしもそう思う。
秋元:どこかの影響、結社の人のもっていないような一種の清潔感が思いのほかある。
大野:わたしも、これは三番に推していますが、これは自分の気持では少し割引いていますよ。さっきいった、狂者のというのはこういうのかどうかというような・・・。
秋元:わたしも狂者の心理状態っていうのはよくわかりませんけれど。
平畑:これは、やはりなおったような状態か、ごく軽い状態で作ったかどちらかでしょう。本当の狂者はこれだけ形を成しません。岩田君の俳句は乱れていた。乱れていたと言うか、ちょっと異常でしたね。正常人と称しても異常な俳句を作る人がおりますが、この人の場合は、軽症かなおったかどちらかでしょうね。
秋元:この程度のことはあり得るということですね。
平畑:この程度の俳句を作る能力ですか?
秋元:ええ。
平畑:それはあるでしょう。
(中略)
中村:わたしはまた秋元さんとは違う、実に極端なことを・・・。つまり、自分一人のことみたいで言いたいんですが、私は病的というよりも、いつも自分が作品を作っているとき、できるだけリアリズムでいこうと思っているものですから、自分の中に、一応入り口での唯美主義的な要求とか動きをかなり自分の中にもっているんです。そうすると、そいつはとりとめもない混沌としたものへつらなるのが非常に危険だと思うものですから、わたしはだから毛ぎらいというんじゃなくて、非常にちょっとでも病的なものは芯から避ける性質があるんです。だから、いまだかって推理小説を読もうという気がしない。これはあるいは平気の平左で興味だけで軽く読んで読みとばせば、そのままでポット投げ飛ばすようなもので、次々読むんでしょう。おそらく吉田茂氏は推理小説を読むときはそうだと思うんですよ。私は推理小説でさえもいやだ。
角川:柳田國男先生とよく似ていますね。
中村:せっかく俳壇へみんなが寄って提供するものとしたら、眼をこれから離せないようなよほどの傑作なら別ですが、こういう特殊なものをただ一篇推すというのは、わたしは不賛成なんですけどね。
角川:柳田先生が非常に貴族趣味で、ライ病患者の小説は読まないといっておられたことがありました。だけど、そんなにこれ見る者に悲惨な感じは与えませんよ。どうでしょうか、草田男的趣味を害するほどの・・・。
中村:それはないですね。しかし、よりによって、これを推さなければならぬことはない。岩田昌寿の作品を、一時みんなが注目しましたね。作品とは別に、人としては実に気の毒だと思ったりしますけど、作品としてはやはり僕は敬して遠ざけるみたいに、あまり取り上げてあれこれ言おうという気がしない。
角川:夏目漱石の作品などは、一種の狂気によって支えられていると思いますが。
中村:あれはまた違います。
角川:文学作品の狂気というのは・・・。
中村:それとは違います。
角川:だけど、狂人だからまずいというのは・・・。
中村:だから、非常に片寄った・・・。
角川:いいんじゃないかという気がする。
中村:それからまた、前衛の人の全然のん気に、ただ一種の頽廃趣味、頽廃趣味でもないけれども、頽廃といっちまうと自分でものの判断を下しますけど、一種の混沌とした世界を、無形の世界を開拓しようというのでやっている人と、そうじゃなくて、その人自体非常に危ないようなものが、現に出てきている人もあります。そういうのは、やはりあまり尊重できない。
秋元:草田男さんの中に狂気じみたものがあるので、こう言う作品を・・・(笑)。
中村:そうじゃないですよ。なにか非常に矛盾していて、非常にそうでないものを追及しているわけで、それだけに・・・。
秋元:ただ、この作品にいかにもこうした精神病者のもっている異常な気持ちが出ていたり、ものの見方が出ているものだと、わたしもちょっととれないんですが、これにはそれが案外ないですよ。
中村:ええ、ないですよ。
秋元:非常にすなおで、たとえば「寒の菊死期の狂者に狂気なし」、これなんかちゃんとまっとうな俳句だし、狂者なら狂者というものを客観視している冷静な目がわたしはあると思う。異常な作品とはいえないと思う。
大野:わたしは今の「寒の菊」には共鳴句としてしるしがつけてある。それだけにあまり冷静すぎて、その逆の気がしないでもないけれど・・・。
角川:「歯医がよひ春は狂院車を駆って」浮き浮きした気持で非常におもしろい句じゃありませんね。
秋元:「酷寒の紅梅を吻ひ狂ふなり」、なかなかこれもいいですね。
大野:平畑先生、どうですか?
平畑:わたしは狂院俳句には点がきついものですから、この一篇はわたしは七番目か八番目です。欲をいえば、あまり狂者、狂人という言葉が出てくるのがどうも難じゃないですか。そういうのがない方がかえってこの人の本当の心境が出てくるので、言葉に頼りすぎているという点が多いんじゃないですか。
大野:それはわたしは静塔さんと反対なんです。
平畑:わたしは秋元さんのときも「獄」が多すぎるという批評をしましたけれども。
中村:やはり僕は、自分で楽しんでいるような、ちょっと甘えているような点は・・・。
平畑:わたしはもう少しほかの言葉を使ってもらいたかったという欲がある。
秋元:ほかの言葉で暗示させる?
平畑:ええ、非常な技量を必要としますけれども。いい句もありますけれど。
秋元:だめという句が一番・・・。
大野:ないですよ。
角川:しるしをつけた句が一番多い。
大野:これはできていますよ。
平畑:わたしは草田男さんのように敬して遠ざける方ではないですが、やはりこの一篇をもって今回の角川賞のトップに推すほどの進んだ心境にある句ではないと思われるんです。ただ、無難句ということじゃないですか。純粋にいって。境涯とかいうものを除いて。
秋元:さっきもいったように、なにかこの人は手垢がついていない。
平畑:うん、手垢はついていない。
延々と続く討論の中で、ほとんど登志子の俳句については触れられていない。中村はこのような異常な作品を角川賞に選ぶことに反対し、平畑は精神科医だけあって狂院俳句には点がきついというだけだ。秋元が、「草田男さんの中に狂気じみたものがある」と揶揄しているのを、中村はムキになって否定している。あたかも自分の狂気(あるいは漱石の狂気)と大内の狂気では質が違うと主張しているようである。一方秋元は「獄」俳句の批判を平畑から受けている。
角川俳句賞の選考であるにもかかわらず、文学性以前の議論が延々と続いているのが面白い。
【最終討議①/深刻オンチ】
記者:では上位四篇について、もう一度討議していただきましょうか。
中村:仕方なければ投票と・・・(笑)。
大野:わたしはきょうはあまり強くないんだ。
角川:わたしは秋元先生と一緒でして「聖狂院抄」を推したいですね。
中村:われわれの青年時代に「深刻オンチ」という言葉があった。
秋元:これは深刻ではないからいいんだ。
中村:いやこれを推すのはなにか一種の「深刻オンチ」みたいな・・・。
大野:わたしは三位に推していながらも、もっと推したいという気もするし、そうでないという気もする。両方だ。
秋元:ただ、実際この人がこういう生活をした以上は、それを俳句にしてみたいという気持ちも、これは当然起こることですから、そうでない人が、狂院は少しどぎついというようなことはわたしは通らないと思うんです。例えば縛られちゃった。これは当然作者としては、自分の生活の体験ですから作品にしたいわけです。だから、狂院ということにあまりこだわらない方がわたしにはいいように思う。
(中略)
中村:しかしこれを推すのは少しジャーナリスティックな気がするんですけど。
角川:だけどみずみずしい、情感の上でも新鮮な感じがあると思うんですよ。非常にわたしは感動しましたね。
大野:僕も悪くはないと思うし、「訴えてくるものはかなり多い」と書きました。だけど、それはそれとして、さて、これに決定するということになってくると、やはり気になりますね。
秋元:狂院にこだわっているんじゃない?
(中略)
大野:いや、こだわっているわけでない。僕はしるしはついているんだ。
ここではまだ、この前の狂院俳句の是非が尾を引いている。この年の議論は、とことん、狂院俳句を選ぶことの是非であったのだ。
【最終討議②/本当の審査】
秋元:これ蛇足になりますが、いままでの角川賞を読んでくると、特異な題材とか一貫したテーマというふうなものを追っている俳句が比較的多かったですね。
中村:川辺きぬ子さんとか碧蹄館君の場合はそうだったんだけど。
秋元:それだけに、一句一句の完成というか、流れていく強さはかなり過小評価――といっちゃ語弊がありますが――された傾向があったと思う。しかし今度の場合は、一句一句が非常に丁寧に詠まれている。特別にこれというテーマを追求している作品がない。
大野:それはそうだ。
秋元:さっきの「裏海」も、そうした傾向の代表的なものだと思うんですよ。それがいいか悪いか知りませんが、一応今度の応募作品についていえることじゃないかと思います。ですから技巧の確かな句が多いですし、一応みんな及第点をつけられる句がそろっている。
平畑:いわゆるこの中の秀句は、どれですか?
中村:それほど秀句がないんだな。
平畑:わたしも秀句がない。
秋元:五十句全部を過不足なく揃えることは大変ですが、この人は悪い句がないんだ。私が強く推したいと思うのは、さっきもいいましたが、「寒の菊死期の狂者に狂気なし」「酷寒の紅梅を吻ひ狂ふなり」「檻鳴らし夫放ちけり罌粟若葉」。それから前の方に戻りますが「梅雨の泉鉄窓越しに青瀬なす」「百日紅霊室も鉄めぐらせり」「跪坐石をふちどる白露聖狂院、これなどは一応出来てる。「蜩や責具のごと餉のはこばるる」「麻痺の子のごと立竦む木の実独楽」「瞑れば柊にほふ懺悔室」。
中村:うん、それはうまいな。
秋元:「寒桜の落花が縛す狂者の棺」、こういうの、なかなか確かだと思うんですよ。
角川:「臥して啜る地卵紅さし天子の日」などおもしろいじゃありませんか。俳諧みたいな感じがある。
中村:僕は体質的にきらいだから。
ここでやっと、作品の議論が行われるようになる。しかし最終討論では他の作品がほとんど議論されず、「聖狂院抄」だけが議論されていることに注意したい。結局、致命的な句は見つからない(秀句がない、とは言われているが)ということだけが合意されているようだ。これと、秋元の熱意が最終的には大内の受賞を決めたようである。ただ、楸邨が出席していたら事情は少し変わっていたかも知れない(楸邨は最初から登志子の作品を推していない)。
【最終討議③/投票】
大野:一度、この四篇に絞って再投票しましょうか。
秋元:草田男先生がお困りに・・・。
中村:いえいえ、わたし困りません。自由自在にやります。
記者:それでは結果を発表してみます。
四篇が一点の差ですね。
大野:そんなもんだろうね。
中村:「聖狂院抄」が一番ですか?じやもうしょうがありません。一点差なら。
大野:差がついているんだからね。
秋元:決めるの?一点違いでもきめますか。
大野:きめましょう。
平畑:拒否権発動するほどのことはない。草田男さんは敬遠したい。わたしはこういう句に対して点数がきついから。
角川:職業上?
平畑:職業上じゃない。
秋元:この人一人?
大野:一人の方がいいですよ。
大野:楸邨さんが来ておるとよかった。
記者:それでは今回の角川俳句賞を「聖狂院抄」に授賞を決定します。作者は山口県宇部市の大内登志子さんです。
俳句史に残る錚々たる作家たちが行ったこの年の角川俳句賞の検討はこんなものであったのだ。読めば読むほど、秋元の熱意と、中村、平畑の嫌悪感が伝わってくる。しかし、最後の最終投票場面は不思議な妥協が成り立っている。これは、賛成に回った角川源義に対する配慮が働いたのかも知れない(源義はこの年から選考に参加)。
これらの経緯を読めば、選考委員には(私が多分選考委員となることはまずないだろうから安心していうが)ぜひ秋元の熱意に見ならって欲しいものだ。直感的によいと思ったものは最後まで固執することこそ、選考委員の(権利ではなく)義務であろう。この時の選考経過を見ると、平畑静塔が茶化していった「秋元さんは五点でなしに八点」はまことに的確であった。選考のルールを変えるぐらいの迫力を大内登志子の作品は持っていたと言うことが出来る。
そうした意味で、私個人としては、大内への受賞が決まったことは、角川俳句賞にとっても、俳壇にとってもよいことであったと思う。ただ、受賞者大内登志子自身にとってよいことであったかはさらに検討してみたい。
* *
こうした選評をよそに、大内登志子は角川俳句賞受賞について次のように語っている。これは角川の「俳句」に掲載されたものではなく、所属する「鶴」(38年9月号)に掲載されたものである。角川の「俳句」より詳細に書かれており読者には登志子のおかれた状況が分かりやすいと思われる。
「受賞と言う言葉が実感となって心奥に響いてゆかないのです。病弱を売物にしているような、暗く醜悪な自己作品への嫌悪。栄ある授賞式にも上京できないふがいない病躯への憤懣――それらが霧襖のように峙って、よろこびの情を阻むのです。
といって僥倖といいきれない何かがございます。それは思いあがりとか衿持とかいうものでなく、私が俳句にいのちがけだということです。勿論生命を賭けたに値しないみすぼらしい作品であることも充分承知しているのですが、私には俳句以外になんにもないのです。何回か死を覚悟しながら、どたんばへきて俳句への愛執がいつも私から死を遮るのです。
白芙蓉死を阻むものなにならん
世にも人にも未練がない生ける骸の筈なのに、俳句に触れていると血が騒ぎはじめ、吐く息がなまぐさく鮮やかに匂い出すのです。この肉体ごとぶっつけてゆく俳句への執念が、稚い感覚や技法を圧して、受賞へのいざないとなったとしたなら、やっぱり神の加護と申し上げるほかないのでしょうか。」
(角川俳句賞受賞感想(鶴))
切羽詰まった状況と、それでも俳句に執着して行く登志子の態度は胸を打つものがある。「
俳句に触れていると血が騒ぎはじめ、吐く息がなまぐさく鮮やかに匂い出す」は頭のくらくらする言葉だ。と同時に、これと比較すると、俳句に対する熱情が現代ではいかに希薄になったかを、ひしひしと感じるのである。
さてもともとは登志子もごく平凡な主婦であり、平和な時代があったことを忘れてはならない。28年から俳句を鶴で始めたと言うが、発病の直前の作品は、母を亡くした事件はあったもののごく普通の鶴の女流作家の作品であった。
猫を追ふ風邪の白ら息たたらふみ(30年3月)
寒木瓜や遙かに寄りし夫の息(30年4月)
苺紅し萼うす青し夫癒えよ(30年7月)
荒梅雨の潮路航くなり母死なせし(30年9月)
まづしさにせつに子欲るも黒蜻蛉(30年12月)
順調な句作をうけて、登志子は31年1月、五十崎朗、石田勝彦らとともに「鶴」の同人推薦を受ける。しかしその直後から劇的病変を蒙る。
夫とゐて鳴らずながれず冬の瀬は(31年2月)
夫の黙数珠玉の水照りかへす(31年3月)
疲れかさねむと霜夜の厠拭く
杜鵑草涙は咽を越えぬなり(31年3月)
聖夜の躬梅の枯膚が圧すなり
精神分裂症自覚
枯れゆく音こころの巡礼鉦鳴らす
登志子は(既に前年も一度発症しているらしいが)30年12月24日に発症している。直ちに入院し面会禁止、身内への面会が許されたのは7日後であったという。掲出句の「精神分裂症自覚」というのは凄い前書きだが、果たしてこの病気の場合にこうした自覚を持って俳句が詠めるのだろうか。あるいはこの投句に、身内があとで前書きを付けたのかも知れない。
さて、この大内登志子の身辺事情を最もよく語っている記事が所属していた「鶴」に掲載されている。執筆者が誰かは後にして、先ず読んでみる。筆者は、「鶴」の作家の中から、身内を病んだ草間時彦、小林康治、藤井青咲、そして狂魔に襲われた作家として、香取久雄、岩田昌寿を挙げて次のように語る。
「発狂者に俳句が作れるかということは屡屡問題にあがる。第九回角川俳句賞銓衡会でも大内登志子の受賞作「聖狂院抄」を中心に随分賑やかに論議された。高名な精神科医、平畑静塔が「この人の場合は軽症か治ったかどちらかでしょうね」といっているが、重症の場合は勿論、軽くても分裂過程か、躁鬱症発作が起こっている期間は漸く人語を解する程度で自発的な俳句の発想は不可能だと思う。しかし発作が治まれば正常神経に戻るし、ある場合は正常人以上に鋭く、冷静な詩神経が働くことも考えられる」
(「狂い咲き」大内英衛「鶴」38年11・12合併号)
随分冷静な批評である。しかしこれは事実を観察した人だからこそ出来る客観性であった。その証拠に、これに続いて疾風怒濤のような記事が続く。
「――というのは登志子の場合親しく私が目撃しているからである。彼女はいまは完全に治癒しているが、発病当時は分裂症状と平常神経とが交互にやって来た、十日ぐらい正常状態を維持している場合もあったし、1日のうち何回となく分裂症状を繰り返すこともあった。「聖狂院抄」はこの正常状態のときの所産であって、回想作品は極一小部分であると彼女も言っていた。
序だから大内登志子のありかたと作品に触れてゆこう。便宜上彼女の作品と、私の所謂「狂妻俳句」とを併録しながら話をすすめてゆく。
昭和三一年聖夜登志子に次の一句がある。
枯れゆく音こころの巡礼鉦鳴らす
異常めいた作品といえば発病前後、罹病中を通じて、辛うじてこの一句を採録できる。これとて感覚俳句にはざらにある類例で、発狂直前の作品だから異常めいて感じられるだけである。登志子の発狂をまともに凝視した私は、彼女の第一回入退院をまって昭和三二年四月号へ「黝き聖夜」二五句を発表している。
聖燭下殉教徒のごと死なむといふ
夫恋の呼吸(いき)狂ひゆく寒松籟
聖燭下涙は汗にすぐ紛る
吾また心を支へがたし
狂夫婦凍てゆくこころよせあへど
よべの蝿凍て永劫の黙のごとし
等、いまみるとかなり不熟な句も多いのであるが、ともかく私の「狂妻もの」の序章である。登志子の方は三二年頭初より三八年四月まで「鶴」に欠詠している。作句を怠っていたわけではなく、むしろ三六年から三七年にかけては疾患を克服するために神がかり風に作句に熱狂していた筈であるが「鶴に投句する自信がございませんでした」と告白している。私の方は妻の狂態を非情に詠いとらう(ママ)とした。今思えば神を懼れぬ所業である。三五年八月、妻同伴の母郷行「ほととぎす」四三句も約半数は狂妻のことに触れている。」
(同前)
英衛はこの時の「ほととぎす」の句を掲出していないので、私が選んで掲げることにする。
狂ひ妻歔きつダム航く梅雨おぼろ
春蝉や目とぢ化粧はす狂ひ妻
仏桑華狂ひ泣く汗撮さるる
隠り男のごとく狂妻(つま)抱く毒うつぎ
「螢(ほうたる)」の唄くりかへし狂妻(つま)寝ねず
淡し遠しかたへの妻も蛍火も
大内英衛はこの文章に続けて登志子の近況を語る。
「昭和三六年二月、金輪際病妻を詠うまいと誓った最後の作品がはしなくも波郷先生の過褒を享けた【注】。
狂妻尿る凩の地に貼りつきて
この句が私の狂妻俳句の永劫のエピローグであることを私は祈っている。登志子は作句に精進することに依って奇跡的に恢復を早めていった。不退転の俳句道に帰依することによって病気を追っ払ったかのごとく私には感じられた。「聖狂院抄」五〇句のどの句をとっても異常感覚は感じられない。稚拙な句はあっても、病涯を誇示し、感情の嵐に自らを喪った風の作品は見受けられないのである。」
(同前)
読めば分かるように執筆者である大内英衛は大内登志子の夫であり、また鶴の同人であり、発症から入退院の繰り返し、そして現在の受賞までを逐一見取っていた。だからこの文章は、ともども格闘して来た配偶者の記録であると同時に、むしろ俳人としては登志子の先輩の立場から登志子の俳句を観察しているものでもあった。こんな記録はおそらく二度と見ることができないであろう。そして、その最後はこんな文章で結ばれている。必ずしも大内が期待したエピローグを予想させるのかどうかはわからない。期待と不安の入り混じった緊張した文章である。
「今年も帰り花の季節が来る。異常さは人より気温にはげしく、狂冬の寒さと陽春の暖気とが交互に見舞って来る中で、梅、桃、さくら、躑躅さえ狂い咲こうとしている。大内登志子は緋躑躅と炎えながら作句の場に狂い咲こうとしている。」
(同前)
この二人の関係についてはまた後述することとして、いったん話を戻し、登志子の受賞の時の不思議な言葉を見ておきたい。冒頭に紹介した受賞文の直後に次のように書き続けている。
「私は俳句へ飛び込んだときからは句のふるさに魅せられておりました。今でも俳句はふるいものだと確信しております。言葉もリズムも折目正しい定型の中で、秋菫のように息ずく、寡黙のあわれさが喪われたとき、はいくはおしまいだと信奉しております。現代俳句は遮二無二「ふるさから脱皮する」ことだと言われるならば、私は潔く現代俳句から踵を返し、ふるい俳句といっしょに滅んでゆきたいと念じております。
しかし、私が醜くはげしい現代の政争の中にまぎれなく生きている真実を思うとき、私は俳句のふるさの中で、濁世に挑む自己の姿を、いかに勁く、美しく、よどみなく詠い上げるかということに、一生を懸けたいとしております。俳句即信仰――これだけが、いつ果てるかわからない燃え滓のような病躯を燃え生かす唯一つの道なのでございます。」
(角川俳句賞受賞感想(鶴))
大内英衛の言葉に
「疾患を克服するために神がかり風に作句に熱狂していた」「
不退転の俳句道に帰依することによって病気を追っ払った」とあったが、一種の「俳句療法」と言えるものであったかもしれない。俳句と言う不自由な表現法を駆使することにより、病んだ精神をいやすとともに、未踏の作品領域を開いたのである。一時的にせよ、両方の道でそれは成果を挙げた。あるいは、神経衰弱に陥っていたと言う中村草田男に似ていたかもしれない。そしてその時に不可欠だったのは、俳句が古い姿であることだった。なまじ前衛的な詩や俳句はそうした病んだ精神の受け皿になりにくかったのだ。
これは余計なことだが、登志子の時代に比べても、現代は精神を病んでいる人達が多いに違いない。そして、一般人における健常に占めるそうした人の割合以上に、俳句と言う世界ではその割合は高いのではなかろうか。そうした人たちを受け入れてくれる世界が俳句であるとすれば、花鳥諷詠をはじめとする古い俳句が心の健康のために何かしら役立っていると言うことを忘れてはならないように思う。
角川俳句賞受賞後の登志子の作品は「鶴」にわずかだが見られる。登志子の俳句はいまでは全く忘れられてしまっているので資料としては貴重であろう。ただ、この時の作品は「聖狂院抄」と余り変わらない。
臭牡丹(くさぎ)餅彌撒の狂児の掌に反れり(38年7月)
ぼうたんや磨ぎあをみたる甃
メーデーの竹落葉焚き一狂者
鶏冠黴び聖狂院の烏骨鶏(38年8月)
梅雨の泉鉄窓越しに青瀬なす
ひと癒えて今日も去りゆく鉄風鈴
鉄窓下炎昼の溝鳴りいづる
流灯会現世の夫の名をながす(38年9月)
脈うつて流灯炎ゆる夫遠し
夜蝉鳴き狂者ばかりの流灯会
流灯の曳きて青しや谷の霧
一灯をもらひて流し旅人たり(38年10月)
霧を来し眦燃ゆる野天彌撒
いざよひや咳くもらせる旅鏡
わが入れば霧のしたがひ狂舎たり(38年11・12月)
鉄扉より月に放たれ聖歌隊
萩を刈る刃の耿耿と聖狂院
しかし年が改まるとともに、登志子の俳句も少しづつ変わって来るように見える。
熱の身の霧らふにまかす冬紅葉(39年1月)
つゆじもの蝶のむらさき炎やすなり
跪坐石に病む血かよへり冬菫(39年2月)
癒えしなり久女忌の寒の百合ささげ
一途なる羽音をつつみ雪昏るる
これ以降の登志子の句を私は見ない。登志子はどこへ行ってしまったのだろうか。
しかし、39年となって「狂」から少し解放された登志子の姿を見て、私は、ほっとする。「狂」から脱出するためには俳句が必要であり、そのためのエネルギーを俳句に求めたのかも知れないが、「狂」から脱出したのち、穏やかで健康な生活を淡々と維持するためには俳句から去ることが必要であったのかも知れない。だから、最後の「癒えしなり」の句にどこかほっとするものを感じるのだ。俳句にとことん耽る幸福もあるかも知れないが、一方で、俳句を去ることの幸福もあるような気がするのである。登志子の、もはや俳人としては知られないが、しかし穏やかな生活が続いたことを信じたい。
【注】
「この作者の狂妻ものの一句。上林暁の「聖ヨハネ病院」その他の狂妻ものは、特異な夫婦愛と作者の人間的な暖かさで読者をうつが大内氏の狂妻俳句にはもっと突放した客観的な場がつねにある。俳句といふ詩形がさうせざるを得ない一面をもつといふことと共に、作者がその特異な夫婦関係に主観的に溺れこまないで自らの唯一の表現形式である俳句で半ば詠みつづけようといふ意図があるのかもしれない。上林氏の狂妻は入院してゐたが、大内氏のそれは作者と共に生活してゐるだけに一層作者の生活を特異な環境にしがちであるようだ。今月の諸作品もさうである。
この句狂妻が凩の吹きすさぶ地に視覚んで尿をしてゐる姿を、正確に描き出してゐる。「地に貼りつきて」といふ叙法などは狂妻を意志を喪失した生きてゐる「もの」として描いた言葉といってよい程に突離した描写である。
作者の不退転のなみなみならぬ作句精神をここに見得ると思ふ。」
(石田波郷「鶴俳句の諸作」「鶴」36年2月)
* *
最後に登志子の夫、大内英衛について補足しておきたい。鶴の有力同人であったから調べる積もりになればいろいろ判るかも知れないが、大内登志子との関係に絞って述べてみる昭和37年鶴同人名簿によれば、54歳(明治42年生まれと推測。登志子と14歳離れている)、職業は商業とある。30年代は、英衛はすでに宇部の著名な俳人であり、鶴の雑詠欄の上位を常時占める有力作家であったのだ。だから登志子の角川俳句賞の受賞選考経緯を眺めていて、直接登志子のことばかりではなく、英衛にも関心が持たれた。すると、角川俳句賞予選状況が次のようになっていることが判る。
36年角川賞、予選通過作(22名)中に「妻」(大内英衛) 無点
38年角川賞、第2次予選(71編)中に大内兵衛(山口)
40年角川賞、最終予選通過作(20編)中に「懐古譜」(大内兵衛) 波郷・静塔入選
38年の山口県の大内兵衛とは、県内に予選通過する大内姓の実力俳人がそうたくさんいたとは思われないから、英衛の誤記ではないかと思われる(いかにも間違いそうな名だ)。すると、大内英衛は2年に1回は角川俳句賞の予選を通過するか、二次予選を通過する実力作家であったわけである。
36年角川賞、予選通過作の「妻」(大内英衛)とは、その時期からいっても、大内英衛のいう「狂妻俳句」であったのではなかろうか。もっと劇的なのは、38年で、もう少し大内英衛が力作で応募していたならば、38年の角川俳句賞は大内英衛と大内登志子の夫婦二人で争われていたのかもしれないのだ。残念ながら当時の予選作品は残っていないので調べるすべもない。
ただ不思議なのは、英衛が「昭和三六年二月、金輪際病妻を詠うまいと誓った最後の作品がはしなくも波郷先生の過褒を享けた。<狂妻尿る凩の地に貼りつきて> この句が私の狂妻俳句の永劫のエピローグであることを私は祈っている。」といいながら、36年角川賞には「狂妻俳句」で応募していたと思われることだ。
一方で大内登志子自身も、「聖狂院抄」の中で、「合意離婚成る」と前書きを付けた俳句を詠んでいるが、前述したように角川の俳句年鑑の住所録では39年までは「宇部市西区島通2 伊藤方」に居住し、40年には「宇部市松島町11-23」に移動している。ところが大内英衛は角川の俳句年鑑の住所録に40~48年に掲載されており、住所は40年以来宇部市松島町11-23となっている。離婚していたが、同居・同棲していたということなのだろうか。38年の大内英衛の文章を読んでも離婚・別居を匂わせる部分はない。発症後も、治癒後も、角川俳句賞受賞後も、二人の生活は変わっていないように思われる。
このように見ると、大内英衛・登志子はドラマ性(嘘というわけではない)に満ちた俳句を詠み、かつドラマ性に満ちた生活を送っていたのかもしれない。ちなみに、大内登志子は長い間欠詠をしていたから「聖狂院抄」以外の作品は実はあまりよく分からない(健全であった初心時代の28年~31年の句はあまりにも環境が違いすぎて参考になるまいし、32年~38年は欠詠、「聖狂院抄」以後の句はほとんどが狂院俳句の延長線上の作品であった)のに対し、大内英衛の俳句は、狂妻俳句以後境涯俳句性は乏しくなり、炭鉱生活(宇部は炭坑の町であった)や吟行等外部の素材主義的な俳句となってゆくようである。英衛にとっても登志子の闘病と看取りは、自らの俳句を転換する原因となったように思われる。
* *
冒頭に述べた、行方不明となっているもう一人の角川俳句賞受賞作家の川辺きぬ子(36年受賞)も登志子と同様「鶴」に所属し、遠藤英千(鶴同人)と再婚している。俳句年鑑の住所録を調べると二人ともに掲載されており、元々江東区深川枝川町に住み、蕨市塚越、秋川市引田へ移転している。ただ、大内よりは遅くあるが、きぬ子も46年をもって掲載は終了しておりその後の行方は不明である。ともに鶴の所属で夫も鶴の同人であると言うところが何か不思議な因縁を感じる。
さすがに彼女らの受賞時代には私はまだ俳句を始めてはいない。いやいや――これらの事件は、私の俳句を始めるたかだか10年前のことに過ぎない、と言うべきなのかも知れない。調べるつもりになれば今よりはるかに容易に調べることが出来たし、あるいはその時点で大内登志子も川辺きぬ子も存命で話を聞くことが出来たかも知れない。歴史というものは私の体の内部で明らかに蓄積しているということが実感されるのである。