2014年12月26日金曜日

(「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代(10)波郷と秋桜子



さて話を少し戻して、馬酔木23年3月号で登四郎の「ぬばたまの黒飴さはに良寛忌」が巻頭となったときに戻ってみたい。すでに見てきた資料によれば波郷は、翌月馬酔木に復帰するという前提で到着した馬酔木の新樹集を読み、登四郎の「ぬばたま」の句が巻頭にあることを見て、「黒飴の句は俳句に必要な具象性を持たない、余りに趣味に溺れた句である」「こんな句を作っているような馬酔木には復帰できない」といっていた。その意味で、波郷にとっては、23年4月号の馬酔木復帰の第1回の投稿は、秋桜子はじめ馬酔木の同人会員に対するメッセージであると同時に、またその直前に馬酔木から離脱した山口誓子一派に対するメッセージでもあり(当時、秋桜子や波郷がいかに天狼に対し敵愾心を持っていたかは後述する)、ひいては全俳壇に対するメッセージでもあった(おそらく、その時の俳壇は、天狼(誓子と新興俳句派)、馬酔木(秋桜子・波郷)、寒雷、草田男を中心に動いていたといってよいであろう)が、しかし一方で、「こんな句を作っているような馬酔木には復帰できない」とまで直前に批判した能村登四郎に対するメッセージでもあったはずだ。
その記念すべき第1回投稿句「春べ」(7句)の第3句が次の句である。

 霜の馬車抱起されて眺めをり

楠本憲吉が触れていたような気がするが、他に余り言及する人がないようだが、この句は、その後推敲を経て、

霜の墓抱き起されしとき見たり

として、戦後の波郷の代表句集『胸形変』を飾る波郷復帰の序曲となったのである。

この句には二つの問題があるとされる。

第1の問題は、この句が昭和40年代に「霜の墓」論争として、抱き起こされたのは誰か(波郷か墓か)という議論が行われたことである。

第2は、この句が波郷の戦後俳句の中でも屈指の名作としての扱いを受けていることである。凄絶な波郷その人の戦後の闘病生活を心象風景として描いている傑作とされている。山本健吉の『現代俳句』を見ても、この句に質量ともに匹敵する大きな扱いで鑑賞を受けている句は波郷の句でも多くはない。次の作品ぐらいであろうか。

女来と帯纏き出づる百日紅 
秋の夜の憤ろしき何々ぞ 
雁の束の間に蕎麦刈られけり

健吉にはそれほど、迫真力ある句として詠まれたと感じられたのであるが、じつは、それは推敲を経た句であったのである。「生活の裡に満目季節をのぞみ、蕭々又朗々たる打坐即刻のうた」(「鶴」昭和21年3月号)ではなかったのである。

 健吉のさわりの文章を挙げてみよう。

江東の波郷の寓居の北側は一面の焼け野原であり、来た窓からそこに墓地が見わたされるのである。波郷は南向きに寝ており、病衰の身を奥さんか誰かに抱き起こされた時、ちらと北窓に「霜の墓」を見てしまったのだ。この「見たり」は、眼底に焼き付いたといったような強い響きがある。ただ霜の焼土に立ち並ぶ墓石を見た、しかもまざまざと見たのである。それは癒えざる病躯を抱いた彼の胸に、つきささるような冷徹な光景である。「霜の墓」――それだけでリアリズム以上のものを彼はつかみ出すのだ。背筋に伝わる冷汗までも、彼の心の衝動までも、性格に描き出すのだ。まことにこの強い響きは「われ霜の墓を見たり」といった衝迫が感じられる。徹底したリアリズムが、見えないものまで、見なくていいものまで、見てはならないものまで、透視させてしまうのである。作者の眼は飽くまでも澄明であり、魂は孤独と寂寥に戦いている。この句はかくて『胸形変』の序曲となる。」 
(山本健吉『現代俳句』)

 「霜の墓」が「霜の馬車」であったことを知って読むと少し滑稽になる。「見たり」が弛緩した「眺めをり」であったことを知るといささか失望を感じ得ない。しかしこれは、添削の力が絶大だと言うことを逆に語っているのだ。二つ三つの言葉を動かすだけで、天下の山本健吉を絶句させ、感銘させ、リアリズムを出現させてしまう、俳句にはそんな秘密の力がこめられているのだ。これは健吉を馬鹿にしているのではない。添削して命が生まれる俳句は、やはりその根底にエネルギーを秘めていたことは間違いないからである。現代の俳人であれば決して取らない「霜の馬車抱起されて眺めをり」は原石であり、磨けばダイヤモンドの光を放つことを作者も直感的に知っていたのである。「霜の馬車」の句を決して馬鹿にしてはいけないのである。

     *

第1の問題について言えば、波郷の「霜の馬車」→「霜の墓」の推敲過程で明らかである。もちろん読者の解釈は様々であってもよいが、もはや現在では余り論争にする価値はないかも知れない。
しかし、第2の、波郷の代表句とするか否かについては、この句の表現における推敲過程(「眺めをり」→「とき見たり」)、そして「霜の馬車」「霜の墓」による波郷の当時の関心など未だに考察する余地がありそうに思う。

ただ私はさらに第3の問題を新たに提起したい。つまり、ほぼ同じ時期に発表された、登四郎の「ぬばたま」と波郷の「霜の墓」の対比だ。登四郎は「波郷は長靴(長靴に腰埋め野分の老教師)なんかを推したけど、現在となっては良寛忌の句の方がいいと成っている」といったが、比較すべきは「ぬばたま」の句と「長靴」の句ではなく、「ぬばたま」の句と「霜の墓」(あるいは「霜の馬車」)の句なのだ。例え不熟な「霜の馬車」の句であってもそこにリアリズムが存在した。だからこそ、添削すれば波郷一代の名句となるのである。なおしようのない「ぬばたま」の句とは違っていた。根本の心がけが違うからである。そしてその視点から言えば、やはり波郷の登四郎に対する「余りに趣味に溺れた句である」という批判は、現在に於いても十分有効だったというべきなのである。

    *

実は、波郷の復帰は秋桜子にも絶大な影響を与えている。23年3月まで、秋桜子の作品は同人作品欄の冒頭に(つまり他の同人と同格で)水原豊の本名で掲載されていた。これは、同格の作家、山口誓子を並べるためにとった方式である(22年10月から誓子の句は掲載されなくなったが、それまでは秋桜子と誓子の掲載順は毎月交代で巻頭となっていた)。しかし、23年4月、つまり波郷参加の月から、秋桜子作品は別格の1頁建てとなった、名前も秋桜子となっている。些細なことであるが、文字通り秋桜子の結社となった宣言だったのである。そして、その23年4月の巻頭頁の作品「春暁」は次のような句であったのである。

夜の大雨やがて春暁の雨となる 
野の虹と春田の虹と空に合ふ 
﨟たけて紅の菓子あり弥生尽

スケールも大きく、また美しい句であり、戦後の秋桜子の復活を語る名句である。やがて、秋桜子の昭和初期の『葛飾』と好一対をなす戦後の名句集『霜林』となって結実するわけであるが、その精神の高調がこのような些細と思われる環境の変化に現れるのである。もちろん、波郷一派の復帰の喜びと、誓子への対抗心が生み出したものではあったが。



2014年11月28日金曜日

(「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代(9)新人システム


●新人顕彰システム
藤田湘子、能村登四郎、秋野弘らを囲んでいた、戦後の馬酔木の新人戦略を眺めておきたい。新人が登場するときというのは、自然に発生するのではなく、結社の主宰、編集長があげて多大な努力を果たして初めてそうなるのだ。

    *     *

既に述べたように、23年は新樹集の巻頭で多くの新人たちを大抜擢した秋桜子であった(23年度馬酔木賞は能村登四郎、藤田湘子が受賞した)が、24年は秋桜子が編集を自ら本格担当したこともあり(誓子の離脱した22年10月から木津柳芽を手伝い始めたとある)、雑誌全体としての活性化が図られ、多くの新企画が行われた。長らく雑誌の編集を行ってきた私から見ると、この時代の馬酔木――32頁から48頁のみすぼらしい冊子の中で、様々な工夫や新人への機会付与が行われたことがよく分かり涙ぐましいものがある。現代の俳句雑誌に何が欠けているかがこれを見るだけでもよく分かる。


①コラム「前進のために」(3頁)

新人(途中から幹部同人も参加)による相互批評欄である。「きびしい良心をもつて偽らざる批評をなし、且つ静かに他の批評に耳を傾けて反省することは、互ひの芸術を高めるために、最もよきほうほうである。浮薄なる仲間褒めほど、世に有害無益なるは無い。又、現俳壇に於て我々はそれを見飽きてゐる。(秋桜子)」という厳しい態度で開始されている。ほぼ毎月掲載されており、その執筆者は次の通りである。24年1月の能村登四郎のそれが、既に述べた波郷の「ぬばたま」批判の発端となる文章であり、確かに秋桜子の所期の目的にかなうものであったろう。

24年1月 能村登四郎※、藤田湘子※、秋野弘
24年2月 大島民郎、水谷晴光※、相馬黄枝
24年3月 林翔※、五十嵐三更、増田和夫 
24年4月 小林広子、佐伯大波、黒木野雨
24年6月 殿村菟絲子、大谷秋葉子、大網弩弓
24年9月 中村金鈴、野川秋汀、岡野由次
24年10月 岩崎富美子、持田施花、野田翠楊
24年12月 木津柳芽、小島昌勝、山田文男、馬場移公子

②特別作品(10句)(1人1頁)

旧同人及び新人作家による特別作品(10句)の連載が始まる。ラインアップは次の通りである。※の意味は後述する。

24年3月  軽部烏頭子 能村登四郎※
24年4月  百合山羽公 藤田湘子※
24年5月  篠田悌二郎 林翔※
24年6月  佐野まもる 水谷晴光※
24年7月  石田波郷  沢田緑生※
24年8月  相生垣瓜人 大島民郎
24年9月  木津柳芽  秋野弘
24年10月 山口素堂  岡谷鴻児
24年11月 米澤吾亦紅 持田施花
24年12月 桂障蹊子  野川秋汀

③特別作品評(13頁・10頁)

特別作品を対象に相互批評が行われる。特別企画は次の通りである。

24年8月 新人作品評(同人9人)
24年9月 同人作品評(新人5人)

すなわち、3月号から6月号までの新人4人の作品(能村登四郎※、藤田湘子※、林翔※、水谷晴光※)を、百合山羽公、篠田悌二郎、石田波郷、米澤吾亦紅、桂樟蹊子、下村ひろし、小島昌勝、相馬黄枝、中村金鈴が批評している。また、3月号から7月号までの同人5人の作品(軽部烏頭子、百合山羽公、篠田悌二郎、佐野まもる、石田波郷)を能村登四郎※、藤田湘子※、林翔※、水谷晴光※、小林広子が批評している。当時馬酔木は48頁の中で毎回10頁以上の頁を割いた大特集となっているのである。まことに豪華な顔ぶれであった。いかに、秋桜子が新人に期待していたかがよく分かる。

特に、復帰したばかりの波郷の使命感に燃えた批判は凄味がある。


能村登四郎をはじめ四人の新人の特別作品四十句を読んで、先づその迫力の弱く、読みつつも読者たる僕があまり作者の方へひきよせられないのに不満である。自然を詠はうと社会を表はさうと、そこには常に作者の描き出す「新しい一つの世界」がなければならない。混沌と苦渋の現代に我々が生きてゐる以上、俳句に我々が望むのははげしい自然讃仰か、真摯にして混沌を制する底の生活、人間の現はれである。日常生活に起伏する日常的主観も、之を活かしてわれわれの生き方を示すものでありたいと思ふ。馬酔木の新人諸氏の最近の労作もさういふ方向に向つてゐるものと期待して眺めてゐる。然し実際には主観の脈が浅い皮膚の下に浮いて、よはい、言葉の按配や、知的にも説明的な主観叙述におちいつてゐる。私は何時も思ふ、これは描写がないからである。乏しい言葉で主観の叙述にはしるから弱く浮いてしまふのである。たしかな太い線を入れればもつと生きてくる筈である。観念の色でごまかせるものではないのだ。

能村登四郎については、「寡作」の概念に観念を負わせすぎている。「雪葎」の知的な脈絡を取って作者の意中に誘い込む叙法も詩ではない。「悴みて」もそれににて詩に近寄り、実は常套的である。

藤田湘子にあっては、「夕星」の句になると主観的な操作がある。「寒きびし」「春の街」は主観とその客観的条件がおあつらえ向きに並べてある、詩的共鳴を呼ばない。「早春や」「寒明けや」「啓蟄や」の情趣の世界とこのような表現は早く卒業した方がいい。」こんな調子で批判が続くのである。取り上げられた句を紹介しよう。


寡作なる人の二月の畑仕事   能村登四郎 
雪葎この貧撥ね返さでやある 
悴みてゐてなほ奪ひがたきもの 
夕星のいきづきすでに冬ならず  藤田湘子 
寒きびしやつれし母の顔見れば 
春の街狂躁つひにきはまれる 
早春やかたくなまでに母の愛 
寒明けやひたぶるに濃き唇の紅 
啓蟄やいつまで頼り得ん母ぞ


もちろん大先輩の胸を借りている新人たちの発言は貧弱である。

④新人雑誌「新樹」の創刊(16頁)

24年2月には藤田湘子を編集発行人として新人会雑誌「新樹」が創刊される(合併号があるが、月刊雑誌であり25年1月まで9冊が刊行されている)。この発行には秋桜子も積極的に関与し、求めに応じて原稿を書き、また色紙短冊を書いてそれを頒布することにより発行資金に充てていたようなのである。もちろん記事等の執筆で、能村登四郎、林翔も協力していたが、この雑誌の発行自身は藤田湘子の独壇場であったようで、新人の中の第一人者の立場を雑誌編集により確かなものにしていった。後年の、石田波郷編集長の後任編集長に湘子が就任する実績をこの雑誌で積んでいったようである。

⑤同人昇格

新樹集作品については、馬酔木賞銓考と題して、予選句の列挙と、秋桜子による詳細な選評を掲げている。一句一句の作品を鑑賞する選後評と違った、作品相対批評となっている点で興味ふかい。この結果、24年10月に(金子伊昔紅(兜太の父)、牛山一庭人(牛山書店店主)ら古参会員の)10人の同人昇格が行われるとともに、24年12月に(新人の)5人の同人昇格(上記の特別作品発表者で※のついた能村登四郎(市川)、藤田湘子(小田原)、林翔(市川)、水谷晴光(名古屋)、沢田緑生(名古屋))が行われ、水谷晴光がその年の馬酔木賞を受賞した。同人昇格者は25年1月から「馬酔木集」改め「風雪集」という自選同人欄で作品を発表し始める。同人の顔ぶれから見ると、東京近辺3人、関西1人、名古屋1人と地域バランスをとっていることが分かり、特に同人の中心が能村登四郎、藤田湘子であったことが他の資料からもよくうかがえる。

⑥馬酔木賞受賞

戦後の旧馬酔木賞は新人賞に相当し、第1回(22年)こそベテランが受賞したが、23年以降は新人会メンバーが軒並み受賞している。

22年 山田文男、静良夜(戦後第1回馬酔木賞)
23年 能村登四郎、藤田湘子
24年 水谷晴光
25年 竹中九十九樹、殿村菟絲子、馬場移公子、岩崎富美子
26年 堀口星眠、宮津澪子
27年 古賀まり子、大島民郎
28年 千代田葛彦、有働亨(この年より馬酔木新人賞に改組)

新人育成システムが、23年頃の強制的な発動をしなくても、この頃になるとごく自然に働き出すようになっていたのである。

⑦人気投票

馬酔木の作品から読者による愛唱句10句を募集し発表している。当然新人たちの句が多く取り上げられているが、秋桜子の作品も含まれており、やり方がいかにも民主的である。ためしに12月号より抜粋してみる

16点 お花畑息のみだれに雲過ぎつ   緑生
7点  急ぎつつみじめさつのる野分中  移公子
5点  林中の蛾の闇おそふ雨はげし   鴻児
4点  颱風の空飛ぶ花や百日紅     秋桜子
4点  子を容るる片蔭われに足らねども 翔
4点  水脈しるく曳きて晩夏の光とす  湘子

●まとめ

水原秋桜子の編集とは何であったのかは以上の項目を見て行けばよく分かるはずである。新人を登用し、人気投票のような民主的な抜擢もした。編集担当をする前は、気力のなえていた秋桜子がはつらつとするのは、新人を台頭させたいという意欲があったからだ。

23年の馬酔木の雑詠の選がどのような意図で行われたかは伺いしれないが、その前の年に比べて突然新人たち全員が巻頭にそろうということはいかにも不自然である(22年の新人の巻頭は湘子の1回のみであった)。選に当たって水原秋桜子の若手抜擢の思惑が働いたことは間違いないであろう。

そして24年の旧同人(それも波郷らの幹部同人)と新人作家を対比した特別作品、特別作品評が間の世代をとばして、世代更新を図ろうとしたものであることも一目瞭然である。

問題はそうした破格の扱いに甘えないで、新人たちがそれにこたえる成果を挙げたかどうかである。

後述するように馬酔木の復活を確かなものとした翌々年の昭和26年(既に波郷が編集長に就任していた)は、馬酔木30周年記念の作品が募集されたがその時の入選作品に、杉山岳陽、能村登四郎、藤田湘子が入選し、新人たちの目覚ましい台頭が示されたのである。

実は、新人台頭のきっかけとなる馬酔木の新人会は、22年8月に設置されたのだが、新人達が華々しく登場している2年後の24年8月には解散している。この2年で新人会の所期の目標が達成されたことを示しているのであろう。そしてこれは、新人の台頭には2年もあれば十分であることを示しているようである。

    *

長らく「豈」の編集をやってきたせいかもしれないが、私は雑誌の命は編集であると思っている。それは以上の記事からも納得できると思う。秋桜子が直接担当した僅か2年程の編集(雑詠の選も編集の一部と考えよう)は馬酔木を起死回生したからである。

やがて、25年からは、秋桜子から波郷に編集が移る。当時の編集後記を見ると、24年12月号ですでに秋桜子は「新年号からは、さらに面目を一新して充実した雑誌を作りたいと思つてゐます。編輯の基本方針は石田波郷君が考へてくれました。」とあるように、25年度の実質編集権は波郷に移っていたのだ。そして、25年7月号「波郷君の編輯はもうはじまつてゐる」とあり、この予告を受けて、25年8月号から波郷は「今度8年ぶりで本誌の編輯に従ふことになつた。」と編輯後記を書き始めている。自身の病気から「鶴」を休刊にせざるを得なかった波郷が、その活動の拠点としたのが「馬酔木」であり、それは波郷に取っても馬酔木にとっても望ましいことであった。もちろん新人たちにとっても波郷の後押しのある新人であることは滅多にないチャンスであったのである。
すでに述べているように、波郷が編集を担当して直後の26年4月には画期的な馬酔木30周年記念号を発行している。いまや、誰の眼にも、波郷の時代がやってきたのである。そしてここで押し出されたのが、秋桜子によってまずは新人として抜擢された能村登四郎と藤田湘子であったのである。




2014年10月31日金曜日

角川「俳句」特集「角川俳句賞の60年」異聞/筑紫磐井


現在出ている「俳句」11月号に「角川俳句賞の60年」という記事を執筆している。この間の受賞者のプロフィル、作品をかなり丹念に読んでみて通史としてまとめてみたものだ。あまり例のない読み物となっている。当然だろう、「俳句」編集部以外にそんなことをするところはないのだから。そうした中で、興味深い問題が見つかったが、限られた頁数の中で書ききれなかったことも多かった。前記「俳句」の記事では「これを踏まえて何時か、より掘り下げた研究をしてみたい」と書いたので、そんな点をいくつか「異聞」として書いてみた。俳句賞応募に当たっても多少役に立つかもしれない。


特集執筆に当たって参考としたのは過去の全受賞記事の他に、今から10年前の「俳句」平成16年10月・11月号の「角川俳句賞の半世紀」特集だったが、この10年前の号で川辺きぬ子(36年受賞)と大内登志子(38年受賞)の二人の受賞者が物故者としてあがっていたのが気になっていた。物故者としてあげられているのだが、没年が記載されていないのである。


通常こうした時は不明者としてあげておくべきではなかろうか。現在の「俳句」の鈴木編集長に確かめてみると、平成16年の特集のとき、かなり周到に調査をして、その証言によればなくなったことは間違いないらしいがその没年までは確認できなかったという。しかし、それから10年経って、さらに関係者は少なくなり(例えば「鶴」の編集長を長く勤めていた星野麦丘人氏ならある程度御存知だったと思われるが、氏も先年なくなられた)、ますます(没年以前の)「物故」の事実を証明することは難しくなっている。10年前に、「なくなったことは間違いないらしい」という根拠さえよく分からなくなっているのである。

なぜ二人にこだわるかと言えば、特に川辺きぬ子と大内登志子は、歴代の角川俳句賞の受賞者の中でも特異な作家であり、ある意味では初期の角川俳句賞の劇的な性格をよく代表しているように思われるからである。川辺きぬ子は第7回(昭和36年受賞)に「しこづま抄」で応募し入選したもので、これはしこづま(醜妻)と自虐した日雇婦の生活を詠んだ圧巻の作である。


冬かもめ枷なきものは切に翔く   きぬ子

また大内登志子は第9回(昭和38年受賞)に「聖狂院抄」で応募し入選したもので、精神分裂症を発症し病院に入院した時の作品である。


檻鳴らし夫放ちけり罌粟若葉    登志子

特に、大内登志子は受賞後1、2年の間にたちまちに姿を消している。あまりにも劇的な登場と退場であるところに、終戦直後の鈴木しづ子に似たイメージをもった。こんなところから、私は角川の「俳句」を執筆しながら、決して「俳句」に掲載できない、マイナーな大内登志子と言う作家の追跡を始めてみた。マニアックな作業である。しかし、やっているうちに、現在と往時を行き来することは大事な作業ではないかと思えてきた。もちろん短期間の調査なので不十分であることは間違いない、むしろ今わずかでも知る人があれば、登志子の安否も含めて、登志子についての事績を教えて頂きたいと思う。

     *

大内登志子が角川俳句賞を受賞した時の感想の中の履歴ではこう書かれている。

「大正11年11月11日生。俳句は「鶴」がはじめて。昭和31年「鶴」同人。34年発作性精神分裂症発病、しばしば作句不能に陥るも、俳句即信仰と念じ間歇泉のごとく蘇りくる平常神経の中で詠いつづける。昭和37年初夏より38年晩春まで一ヵ年間ザビエル聖和荘入荘。宇部市西区島通二丁目、伊藤ちやう方。」

(※39年俳句年鑑によれば、28年に鶴に参加、32年に同人となり中断(これは間違っており、31年に同人、直後に発症)、とある。また、後の記録を見ると、登志子はたった1回の応募で角川俳句賞を受賞した、角川俳句賞史上稀有な受賞のようである。)


劇的な経歴である。ところで毎年の「俳句年鑑」住所録では大内登志子の名は40年まで記載がある。39年までは「宇部市西区島通2 伊藤方」とあり受賞時の住所と同じであるが、40年には「宇部市松島町11-23」と記載されており移転したらしい。「俳句年鑑」住所録に載っていないということは、受賞後意外に早く俳壇から離れてしまったようであり、これ以降、大内登志子の行方は杳として知れないと言うことになろう。

さて、大内登志子の受賞作品をもう一度眺めてみよう。


青梅の百顆よ子欲し乳房欲し
鶏冠黴び聖狂院の烏骨鶏
梅雨おぼろ狂女を囃す韓の唄
梅雨嵐心奥の灯も衰へり
ひと癒えて今日も去りゆく鉄風鈴
鉄窓下炎昼の溝鳴りいづる
夫恋の流灯炎ゆる水の底
跪坐石をふちどる白露聖狂院
露の狂者祈るかたちに血をとらる
聖燭の芯せちに燃ゆ颱風裡
埴輪澄めりこころの内外霧とざし
霧に吐く言葉返し来疲れたり
蜩や責具(せめ)のごと餉のはこばるる
不治狂者無月の翳を曳きつどふ
秋の蚊の病巣をよづ髪を攀づ
病髪をはなれ秋の蚊よるべなし
亡きごとき夫の写真よ夜の落葉
敗荷が支ふ狂者の打ちし蛾を
凍菊の燃え夫を見ぬ幾月日
瞑れば柊にほふ懺悔室
狂女たり雪虫に手を弾ませて
寒の菊死期の狂者に狂気なし
死にちかき唇を凍て出づ一独語
酷寒の紅梅を吻ひ狂ふなり
芝を焼く狂者の数の監視人
恋猫が舐めうすらひの穴穿つ
    
合意離婚成る
檻鳴らし夫放ちけり罌粟若葉
拭かずおくつまの蔵書の春の黴

これらの作品については確かに角川俳句賞選考に当たり活発な議論が行われている。出席者は、秋元不死男、大野林火、中村草田男、平畑静塔、加藤楸邨(座談会は欠席)、それに角川書店本社から角川源義が参加した。まず、無記名候補による採点での得票は次の通りであった。候補作20篇の中から、5点から1点までの採点を行い、高点の上位四篇を討議することとなった。

⑤迫田白庭子「裏」14    (秋元4,大野5、加藤5)
⑨今村俊二「家」11     (大野1,加藤2,平畑5,中村3)
⑩佐野操「炭焼ぐらし」9   (秋元2,平畑4,角川3)
⑪大内登志子「聖狂院抄」13 (秋元5,大野3,角川5)

この四篇について討議した結果、「聖狂院抄」について意見が交わされた。先ず、5点を入れた秋元が発言している。

秋元:これは実を言うと、非常に訴えるものがあってひかれているのです。今日平畑先生がおいでになるというので、実は僕は果たしてこういうことがあり得るのか、お聞きしたかった。非常に冷静なんですよ、うたっている一句一句が。そして、狂院のなかにいるにしては、ときによると非常に静かなんですね。静かな時にうたうということもあり得る・・・精神状態っていうのはこういうもんなんですか?そういう女の人もいるんですか?(「座談会「新しい潮流を探る)

秋元不死男の力説が、最終的に大内登志子の受賞を決めたようである。

【表題】

中村:わたしは女の人というのは――これは女の人からくるのか気質からくるのかわかりませんが――なにか一種の示威というか、自己陶酔みたいな、こういうところに身を置いていながら、なんだかそれをみずから楽しんでいるというか、ひけらかしているような、そういうのが僕にはちょっと・・・・。 
角川:ひけらかすっていう感じはありませんでしたけど・・・。 
中村:総題が「聖狂院抄」でしょう。「聖家族」だのなんかのように、総題を「聖」として、なにかそういう自分の・・・。 
平畑:全体の感じが「聖」という感じが足りぬように思うんですが。聖院というところにっこだわれば。 
大野:だから「聖」をとれば(笑)。 
平畑:つまらない題になっちゃう。 
秋元:たとえばキリスト教のそうした病院というほどの意味で「聖」を使っているので、そこに意味はないだろうと思う。私はこれを第一位に推して、実をいうと、私はこの一篇だけを全部の中から今年はどうしても推したいという強い気持ちをもっている。 
平畑:秋元さんは五点でなしに八点。(笑)

中村と平畑が登志子作品に批判的である。特に冒頭は「聖狂院抄」の表題がいかにもポーズのようである点を指摘されている。すこしポイントがずれている議論だ。しかも、登志子がこの時入院していたのは略歴にもあるように、宣教師系のザビエル聖和荘であるから当然の表題であった。深読みしている草田男の方がおかしいのである。

【狂者の句】

秋元:わたし、これ一篇という気持ちできょうは望んだんです。ちょっと申し上げますが、これは読むとおわかりのように、作者は女性で、精神病院へ入院した人ですが、読んでいくと、夏から秋、春というふうに、一年間の狂院生活をうたっているわけです。その一年間のいろいろな句に斡旋されている季語を見ると、相当豊かに使っていると思う。そして、こういうふうな内容のものはとかく物語的な要素が入りがちなものですが、この人はそれにおぼれていない。つまり、俳句的な成立をしている作品が多い。そこに大変わたしは共鳴したわけです。静塔先生のように、狂者を診られるお医者さんの俳句とか、あるいは狂院に勤めている事務員とか、そういう人の句はほかにもありますが、狂人自身が作った作品というのは、あまりわたしはないと思う。 
大野:「秋夜篇」というのを作った岩田昌寿がいたが・・・。 
秋元:これはおそらく現在はもうすっかりなおっている人だと思う。なおってからの作品だろう。回想した作品じゃないですか。 
角川:あなたの獄中句みたいなものですか? 
秋元:ええ。ですから特異な環境を使ってはいますが、おぼれていないんですね。 
大野:いや、わたしはあまり冷静すぎるので、平畑先生に伺いたかった、もっと感情の起伏がありそうなものだと・・・。 
秋元:わたしはこの人、結社ずれのしてない穂とのように思う。一句一句見ていくと。 
大野:わたしもそう思う。 
秋元:どこかの影響、結社の人のもっていないような一種の清潔感が思いのほかある。 
大野:わたしも、これは三番に推していますが、これは自分の気持では少し割引いていますよ。さっきいった、狂者のというのはこういうのかどうかというような・・・。 
秋元:わたしも狂者の心理状態っていうのはよくわかりませんけれど。 
平畑:これは、やはりなおったような状態か、ごく軽い状態で作ったかどちらかでしょう。本当の狂者はこれだけ形を成しません。岩田君の俳句は乱れていた。乱れていたと言うか、ちょっと異常でしたね。正常人と称しても異常な俳句を作る人がおりますが、この人の場合は、軽症かなおったかどちらかでしょうね。 
秋元:この程度のことはあり得るということですね。 
平畑:この程度の俳句を作る能力ですか? 
秋元:ええ。 
平畑:それはあるでしょう。 
(中略) 
中村:わたしはまた秋元さんとは違う、実に極端なことを・・・。つまり、自分一人のことみたいで言いたいんですが、私は病的というよりも、いつも自分が作品を作っているとき、できるだけリアリズムでいこうと思っているものですから、自分の中に、一応入り口での唯美主義的な要求とか動きをかなり自分の中にもっているんです。そうすると、そいつはとりとめもない混沌としたものへつらなるのが非常に危険だと思うものですから、わたしはだから毛ぎらいというんじゃなくて、非常にちょっとでも病的なものは芯から避ける性質があるんです。だから、いまだかって推理小説を読もうという気がしない。これはあるいは平気の平左で興味だけで軽く読んで読みとばせば、そのままでポット投げ飛ばすようなもので、次々読むんでしょう。おそらく吉田茂氏は推理小説を読むときはそうだと思うんですよ。私は推理小説でさえもいやだ。 
角川:柳田國男先生とよく似ていますね。 
中村:せっかく俳壇へみんなが寄って提供するものとしたら、眼をこれから離せないようなよほどの傑作なら別ですが、こういう特殊なものをただ一篇推すというのは、わたしは不賛成なんですけどね。 
角川:柳田先生が非常に貴族趣味で、ライ病患者の小説は読まないといっておられたことがありました。だけど、そんなにこれ見る者に悲惨な感じは与えませんよ。どうでしょうか、草田男的趣味を害するほどの・・・。 
中村:それはないですね。しかし、よりによって、これを推さなければならぬことはない。岩田昌寿の作品を、一時みんなが注目しましたね。作品とは別に、人としては実に気の毒だと思ったりしますけど、作品としてはやはり僕は敬して遠ざけるみたいに、あまり取り上げてあれこれ言おうという気がしない。 
角川:夏目漱石の作品などは、一種の狂気によって支えられていると思いますが。 
中村:あれはまた違います。 
角川:文学作品の狂気というのは・・・。 
中村:それとは違います。 
角川:だけど、狂人だからまずいというのは・・・。 
中村:だから、非常に片寄った・・・。 
角川:いいんじゃないかという気がする。 
中村:それからまた、前衛の人の全然のん気に、ただ一種の頽廃趣味、頽廃趣味でもないけれども、頽廃といっちまうと自分でものの判断を下しますけど、一種の混沌とした世界を、無形の世界を開拓しようというのでやっている人と、そうじゃなくて、その人自体非常に危ないようなものが、現に出てきている人もあります。そういうのは、やはりあまり尊重できない。 
秋元:草田男さんの中に狂気じみたものがあるので、こう言う作品を・・・(笑)。 
中村:そうじゃないですよ。なにか非常に矛盾していて、非常にそうでないものを追及しているわけで、それだけに・・・。 
秋元:ただ、この作品にいかにもこうした精神病者のもっている異常な気持ちが出ていたり、ものの見方が出ているものだと、わたしもちょっととれないんですが、これにはそれが案外ないですよ。 
中村:ええ、ないですよ。 
秋元:非常にすなおで、たとえば「寒の菊死期の狂者に狂気なし」、これなんかちゃんとまっとうな俳句だし、狂者なら狂者というものを客観視している冷静な目がわたしはあると思う。異常な作品とはいえないと思う。 
大野:わたしは今の「寒の菊」には共鳴句としてしるしがつけてある。それだけにあまり冷静すぎて、その逆の気がしないでもないけれど・・・。 
角川:「歯医がよひ春は狂院車を駆って」浮き浮きした気持で非常におもしろい句じゃありませんね。 
秋元:「酷寒の紅梅を吻ひ狂ふなり」、なかなかこれもいいですね。 
大野:平畑先生、どうですか? 
平畑:わたしは狂院俳句には点がきついものですから、この一篇はわたしは七番目か八番目です。欲をいえば、あまり狂者、狂人という言葉が出てくるのがどうも難じゃないですか。そういうのがない方がかえってこの人の本当の心境が出てくるので、言葉に頼りすぎているという点が多いんじゃないですか。 
大野:それはわたしは静塔さんと反対なんです。 
平畑:わたしは秋元さんのときも「獄」が多すぎるという批評をしましたけれども。 
中村:やはり僕は、自分で楽しんでいるような、ちょっと甘えているような点は・・・。 
平畑:わたしはもう少しほかの言葉を使ってもらいたかったという欲がある。 
秋元:ほかの言葉で暗示させる? 
平畑:ええ、非常な技量を必要としますけれども。いい句もありますけれど。 
秋元:だめという句が一番・・・。 
大野:ないですよ。 
角川:しるしをつけた句が一番多い。 
大野:これはできていますよ。 
平畑:わたしは草田男さんのように敬して遠ざける方ではないですが、やはりこの一篇をもって今回の角川賞のトップに推すほどの進んだ心境にある句ではないと思われるんです。ただ、無難句ということじゃないですか。純粋にいって。境涯とかいうものを除いて。 
秋元:さっきもいったように、なにかこの人は手垢がついていない。 
平畑:うん、手垢はついていない。


延々と続く討論の中で、ほとんど登志子の俳句については触れられていない。中村はこのような異常な作品を角川賞に選ぶことに反対し、平畑は精神科医だけあって狂院俳句には点がきついというだけだ。秋元が、「草田男さんの中に狂気じみたものがある」と揶揄しているのを、中村はムキになって否定している。あたかも自分の狂気(あるいは漱石の狂気)と大内の狂気では質が違うと主張しているようである。一方秋元は「獄」俳句の批判を平畑から受けている。

角川俳句賞の選考であるにもかかわらず、文学性以前の議論が延々と続いているのが面白い。

【最終討議①/深刻オンチ】

記者:では上位四篇について、もう一度討議していただきましょうか。 
中村:仕方なければ投票と・・・(笑)。 
大野:わたしはきょうはあまり強くないんだ。 
角川:わたしは秋元先生と一緒でして「聖狂院抄」を推したいですね。 
中村:われわれの青年時代に「深刻オンチ」という言葉があった。 
秋元:これは深刻ではないからいいんだ。 
中村:いやこれを推すのはなにか一種の「深刻オンチ」みたいな・・・。 
大野:わたしは三位に推していながらも、もっと推したいという気もするし、そうでないという気もする。両方だ。 
秋元:ただ、実際この人がこういう生活をした以上は、それを俳句にしてみたいという気持ちも、これは当然起こることですから、そうでない人が、狂院は少しどぎついというようなことはわたしは通らないと思うんです。例えば縛られちゃった。これは当然作者としては、自分の生活の体験ですから作品にしたいわけです。だから、狂院ということにあまりこだわらない方がわたしにはいいように思う。 
(中略) 
中村:しかしこれを推すのは少しジャーナリスティックな気がするんですけど。
角川:だけどみずみずしい、情感の上でも新鮮な感じがあると思うんですよ。非常にわたしは感動しましたね。
 
大野:僕も悪くはないと思うし、「訴えてくるものはかなり多い」と書きました。だけど、それはそれとして、さて、これに決定するということになってくると、やはり気になりますね。 
秋元:狂院にこだわっているんじゃない? 
(中略) 
大野:いや、こだわっているわけでない。僕はしるしはついているんだ。

ここではまだ、この前の狂院俳句の是非が尾を引いている。この年の議論は、とことん、狂院俳句を選ぶことの是非であったのだ。


【最終討議②/本当の審査】

秋元:これ蛇足になりますが、いままでの角川賞を読んでくると、特異な題材とか一貫したテーマというふうなものを追っている俳句が比較的多かったですね。 
中村:川辺きぬ子さんとか碧蹄館君の場合はそうだったんだけど。 
秋元:それだけに、一句一句の完成というか、流れていく強さはかなり過小評価――といっちゃ語弊がありますが――された傾向があったと思う。しかし今度の場合は、一句一句が非常に丁寧に詠まれている。特別にこれというテーマを追求している作品がない。 
大野:それはそうだ。 
秋元:さっきの「裏海」も、そうした傾向の代表的なものだと思うんですよ。それがいいか悪いか知りませんが、一応今度の応募作品についていえることじゃないかと思います。ですから技巧の確かな句が多いですし、一応みんな及第点をつけられる句がそろっている。 
平畑:いわゆるこの中の秀句は、どれですか? 
中村:それほど秀句がないんだな。 
平畑:わたしも秀句がない。 
秋元:五十句全部を過不足なく揃えることは大変ですが、この人は悪い句がないんだ。私が強く推したいと思うのは、さっきもいいましたが、「寒の菊死期の狂者に狂気なし」「酷寒の紅梅を吻ひ狂ふなり」「檻鳴らし夫放ちけり罌粟若葉」。それから前の方に戻りますが「梅雨の泉鉄窓越しに青瀬なす」「百日紅霊室も鉄めぐらせり」「跪坐石をふちどる白露聖狂院、これなどは一応出来てる。「蜩や責具のごと餉のはこばるる」「麻痺の子のごと立竦む木の実独楽」「瞑れば柊にほふ懺悔室」。 
中村:うん、それはうまいな。 
秋元:「寒桜の落花が縛す狂者の棺」、こういうの、なかなか確かだと思うんですよ。 
角川:「臥して啜る地卵紅さし天子の日」などおもしろいじゃありませんか。俳諧みたいな感じがある。 
中村:僕は体質的にきらいだから。

ここでやっと、作品の議論が行われるようになる。しかし最終討論では他の作品がほとんど議論されず、「聖狂院抄」だけが議論されていることに注意したい。結局、致命的な句は見つからない(秀句がない、とは言われているが)ということだけが合意されているようだ。これと、秋元の熱意が最終的には大内の受賞を決めたようである。ただ、楸邨が出席していたら事情は少し変わっていたかも知れない(楸邨は最初から登志子の作品を推していない)。


【最終討議③/投票】

大野:一度、この四篇に絞って再投票しましょうか。 
秋元:草田男先生がお困りに・・・。 
中村:いえいえ、わたし困りません。自由自在にやります。 
記者:それでは結果を発表してみます。 




四篇が一点の差ですね。 
大野:そんなもんだろうね。 
中村:「聖狂院抄」が一番ですか?じやもうしょうがありません。一点差なら。 
大野:差がついているんだからね。 
秋元:決めるの?一点違いでもきめますか。 
大野:きめましょう。 
平畑:拒否権発動するほどのことはない。草田男さんは敬遠したい。わたしはこういう句に対して点数がきついから。 
角川:職業上? 
平畑:職業上じゃない。 
秋元:この人一人? 
大野:一人の方がいいですよ。 
大野:楸邨さんが来ておるとよかった。 
記者:それでは今回の角川俳句賞を「聖狂院抄」に授賞を決定します。作者は山口県宇部市の大内登志子さんです。


俳句史に残る錚々たる作家たちが行ったこの年の角川俳句賞の検討はこんなものであったのだ。読めば読むほど、秋元の熱意と、中村、平畑の嫌悪感が伝わってくる。しかし、最後の最終投票場面は不思議な妥協が成り立っている。これは、賛成に回った角川源義に対する配慮が働いたのかも知れない(源義はこの年から選考に参加)。

これらの経緯を読めば、選考委員には(私が多分選考委員となることはまずないだろうから安心していうが)ぜひ秋元の熱意に見ならって欲しいものだ。直感的によいと思ったものは最後まで固執することこそ、選考委員の(権利ではなく)義務であろう。この時の選考経過を見ると、平畑静塔が茶化していった「秋元さんは五点でなしに八点」はまことに的確であった。選考のルールを変えるぐらいの迫力を大内登志子の作品は持っていたと言うことが出来る。

そうした意味で、私個人としては、大内への受賞が決まったことは、角川俳句賞にとっても、俳壇にとってもよいことであったと思う。ただ、受賞者大内登志子自身にとってよいことであったかはさらに検討してみたい。

      *      *

こうした選評をよそに、大内登志子は角川俳句賞受賞について次のように語っている。これは角川の「俳句」に掲載されたものではなく、所属する「鶴」(38年9月号)に掲載されたものである。角川の「俳句」より詳細に書かれており読者には登志子のおかれた状況が分かりやすいと思われる。

「受賞と言う言葉が実感となって心奥に響いてゆかないのです。病弱を売物にしているような、暗く醜悪な自己作品への嫌悪。栄ある授賞式にも上京できないふがいない病躯への憤懣――それらが霧襖のように峙って、よろこびの情を阻むのです。 
といって僥倖といいきれない何かがございます。それは思いあがりとか衿持とかいうものでなく、私が俳句にいのちがけだということです。勿論生命を賭けたに値しないみすぼらしい作品であることも充分承知しているのですが、私には俳句以外になんにもないのです。何回か死を覚悟しながら、どたんばへきて俳句への愛執がいつも私から死を遮るのです。 

白芙蓉死を阻むものなにならん

世にも人にも未練がない生ける骸の筈なのに、俳句に触れていると血が騒ぎはじめ、吐く息がなまぐさく鮮やかに匂い出すのです。この肉体ごとぶっつけてゆく俳句への執念が、稚い感覚や技法を圧して、受賞へのいざないとなったとしたなら、やっぱり神の加護と申し上げるほかないのでしょうか。」
(角川俳句賞受賞感想(鶴))


切羽詰まった状況と、それでも俳句に執着して行く登志子の態度は胸を打つものがある。「俳句に触れていると血が騒ぎはじめ、吐く息がなまぐさく鮮やかに匂い出す」は頭のくらくらする言葉だ。と同時に、これと比較すると、俳句に対する熱情が現代ではいかに希薄になったかを、ひしひしと感じるのである。

さてもともとは登志子もごく平凡な主婦であり、平和な時代があったことを忘れてはならない。28年から俳句を鶴で始めたと言うが、発病の直前の作品は、母を亡くした事件はあったもののごく普通の鶴の女流作家の作品であった。


猫を追ふ風邪の白ら息たたらふみ(30年3月) 
寒木瓜や遙かに寄りし夫の息(30年4月) 
苺紅し萼うす青し夫癒えよ(30年7月) 
荒梅雨の潮路航くなり母死なせし(30年9月) 
まづしさにせつに子欲るも黒蜻蛉(30年12月)

順調な句作をうけて、登志子は31年1月、五十崎朗、石田勝彦らとともに「鶴」の同人推薦を受ける。しかしその直後から劇的病変を蒙る。
 
夫とゐて鳴らずながれず冬の瀬は(31年2月) 
夫の黙数珠玉の水照りかへす(31年3月) 
疲れかさねむと霜夜の厠拭く 
杜鵑草涙は咽を越えぬなり(31年3月) 
聖夜の躬梅の枯膚が圧すなり 
   精神分裂症自覚
枯れゆく音こころの巡礼鉦鳴らす

登志子は(既に前年も一度発症しているらしいが)30年12月24日に発症している。直ちに入院し面会禁止、身内への面会が許されたのは7日後であったという。掲出句の「精神分裂症自覚」というのは凄い前書きだが、果たしてこの病気の場合にこうした自覚を持って俳句が詠めるのだろうか。あるいはこの投句に、身内があとで前書きを付けたのかも知れない。

さて、この大内登志子の身辺事情を最もよく語っている記事が所属していた「鶴」に掲載されている。執筆者が誰かは後にして、先ず読んでみる。筆者は、「鶴」の作家の中から、身内を病んだ草間時彦、小林康治、藤井青咲、そして狂魔に襲われた作家として、香取久雄、岩田昌寿を挙げて次のように語る。


「発狂者に俳句が作れるかということは屡屡問題にあがる。第九回角川俳句賞銓衡会でも大内登志子の受賞作「聖狂院抄」を中心に随分賑やかに論議された。高名な精神科医、平畑静塔が「この人の場合は軽症か治ったかどちらかでしょうね」といっているが、重症の場合は勿論、軽くても分裂過程か、躁鬱症発作が起こっている期間は漸く人語を解する程度で自発的な俳句の発想は不可能だと思う。しかし発作が治まれば正常神経に戻るし、ある場合は正常人以上に鋭く、冷静な詩神経が働くことも考えられる」 
(「狂い咲き」大内英衛「鶴」38年11・12合併号)

随分冷静な批評である。しかしこれは事実を観察した人だからこそ出来る客観性であった。その証拠に、これに続いて疾風怒濤のような記事が続く。

「――というのは登志子の場合親しく私が目撃しているからである。彼女はいまは完全に治癒しているが、発病当時は分裂症状と平常神経とが交互にやって来た、十日ぐらい正常状態を維持している場合もあったし、1日のうち何回となく分裂症状を繰り返すこともあった。「聖狂院抄」はこの正常状態のときの所産であって、回想作品は極一小部分であると彼女も言っていた。 
序だから大内登志子のありかたと作品に触れてゆこう。便宜上彼女の作品と、私の所謂「狂妻俳句」とを併録しながら話をすすめてゆく。 
昭和三一年聖夜登志子に次の一句がある。 
  枯れゆく音こころの巡礼鉦鳴らす 
異常めいた作品といえば発病前後、罹病中を通じて、辛うじてこの一句を採録できる。これとて感覚俳句にはざらにある類例で、発狂直前の作品だから異常めいて感じられるだけである。登志子の発狂をまともに凝視した私は、彼女の第一回入退院をまって昭和三二年四月号へ「黝き聖夜」二五句を発表している。 
聖燭下殉教徒のごと死なむといふ 
夫恋の呼吸(いき)狂ひゆく寒松籟 
聖燭下涙は汗にすぐ紛る 
   吾また心を支へがたし
狂夫婦凍てゆくこころよせあへど
 

よべの蝿凍て永劫の黙のごとし
  

等、いまみるとかなり不熟な句も多いのであるが、ともかく私の「狂妻もの」の序章である。登志子の方は三二年頭初より三八年四月まで「鶴」に欠詠している。作句を怠っていたわけではなく、むしろ三六年から三七年にかけては疾患を克服するために神がかり風に作句に熱狂していた筈であるが「鶴に投句する自信がございませんでした」と告白している。私の方は妻の狂態を非情に詠いとらう(ママ)とした。今思えば神を懼れぬ所業である。三五年八月、妻同伴の母郷行「ほととぎす」四三句も約半数は狂妻のことに触れている。」
(同前)

英衛はこの時の「ほととぎす」の句を掲出していないので、私が選んで掲げることにする。

狂ひ妻歔きつダム航く梅雨おぼろ 
春蝉や目とぢ化粧はす狂ひ妻 
仏桑華狂ひ泣く汗撮さるる 
隠り男のごとく狂妻(つま)抱く毒うつぎ 
「螢(ほうたる)」の唄くりかへし狂妻(つま)寝ねず 
淡し遠しかたへの妻も蛍火も

大内英衛はこの文章に続けて登志子の近況を語る。

「昭和三六年二月、金輪際病妻を詠うまいと誓った最後の作品がはしなくも波郷先生の過褒を享けた【注】。 
狂妻尿る凩の地に貼りつきて 
 
この句が私の狂妻俳句の永劫のエピローグであることを私は祈っている。登志子は作句に精進することに依って奇跡的に恢復を早めていった。不退転の俳句道に帰依することによって病気を追っ払ったかのごとく私には感じられた。「聖狂院抄」五〇句のどの句をとっても異常感覚は感じられない。稚拙な句はあっても、病涯を誇示し、感情の嵐に自らを喪った風の作品は見受けられないのである。」
 
(同前)

読めば分かるように執筆者である大内英衛は大内登志子の夫であり、また鶴の同人であり、発症から入退院の繰り返し、そして現在の受賞までを逐一見取っていた。だからこの文章は、ともども格闘して来た配偶者の記録であると同時に、むしろ俳人としては登志子の先輩の立場から登志子の俳句を観察しているものでもあった。こんな記録はおそらく二度と見ることができないであろう。そして、その最後はこんな文章で結ばれている。必ずしも大内が期待したエピローグを予想させるのかどうかはわからない。期待と不安の入り混じった緊張した文章である。

「今年も帰り花の季節が来る。異常さは人より気温にはげしく、狂冬の寒さと陽春の暖気とが交互に見舞って来る中で、梅、桃、さくら、躑躅さえ狂い咲こうとしている。大内登志子は緋躑躅と炎えながら作句の場に狂い咲こうとしている。」 
(同前)

この二人の関係についてはまた後述することとして、いったん話を戻し、登志子の受賞の時の不思議な言葉を見ておきたい。冒頭に紹介した受賞文の直後に次のように書き続けている。

「私は俳句へ飛び込んだときからは句のふるさに魅せられておりました。今でも俳句はふるいものだと確信しております。言葉もリズムも折目正しい定型の中で、秋菫のように息ずく、寡黙のあわれさが喪われたとき、はいくはおしまいだと信奉しております。現代俳句は遮二無二「ふるさから脱皮する」ことだと言われるならば、私は潔く現代俳句から踵を返し、ふるい俳句といっしょに滅んでゆきたいと念じております。
 しかし、私が醜くはげしい現代の政争の中にまぎれなく生きている真実を思うとき、私は俳句のふるさの中で、濁世に挑む自己の姿を、いかに勁く、美しく、よどみなく詠い上げるかということに、一生を懸けたいとしております。俳句即信仰――これだけが、いつ果てるかわからない燃え滓のような病躯を燃え生かす唯一つの道なのでございます。」 
(角川俳句賞受賞感想(鶴))

大内英衛の言葉に「疾患を克服するために神がかり風に作句に熱狂していた」「不退転の俳句道に帰依することによって病気を追っ払った」とあったが、一種の「俳句療法」と言えるものであったかもしれない。俳句と言う不自由な表現法を駆使することにより、病んだ精神をいやすとともに、未踏の作品領域を開いたのである。一時的にせよ、両方の道でそれは成果を挙げた。あるいは、神経衰弱に陥っていたと言う中村草田男に似ていたかもしれない。そしてその時に不可欠だったのは、俳句が古い姿であることだった。なまじ前衛的な詩や俳句はそうした病んだ精神の受け皿になりにくかったのだ。

これは余計なことだが、登志子の時代に比べても、現代は精神を病んでいる人達が多いに違いない。そして、一般人における健常に占めるそうした人の割合以上に、俳句と言う世界ではその割合は高いのではなかろうか。そうした人たちを受け入れてくれる世界が俳句であるとすれば、花鳥諷詠をはじめとする古い俳句が心の健康のために何かしら役立っていると言うことを忘れてはならないように思う。


角川俳句賞受賞後の登志子の作品は「鶴」にわずかだが見られる。登志子の俳句はいまでは全く忘れられてしまっているので資料としては貴重であろう。ただ、この時の作品は「聖狂院抄」と余り変わらない。


臭牡丹(くさぎ)餅彌撒の狂児の掌に反れり(38年7月) 
ぼうたんや磨ぎあをみたる甃 
メーデーの竹落葉焚き一狂者 
鶏冠黴び聖狂院の烏骨鶏(38年8月) 
梅雨の泉鉄窓越しに青瀬なす 
ひと癒えて今日も去りゆく鉄風鈴 
鉄窓下炎昼の溝鳴りいづる 
流灯会現世の夫の名をながす(38年9月) 
脈うつて流灯炎ゆる夫遠し 
夜蝉鳴き狂者ばかりの流灯会 
流灯の曳きて青しや谷の霧 
一灯をもらひて流し旅人たり(38年10月) 
霧を来し眦燃ゆる野天彌撒 
いざよひや咳くもらせる旅鏡 
わが入れば霧のしたがひ狂舎たり(38年11・12月) 
鉄扉より月に放たれ聖歌隊 
萩を刈る刃の耿耿と聖狂院 

しかし年が改まるとともに、登志子の俳句も少しづつ変わって来るように見える。

熱の身の霧らふにまかす冬紅葉(39年1月) 
つゆじもの蝶のむらさき炎やすなり 
跪坐石に病む血かよへり冬菫(39年2月) 
癒えしなり久女忌の寒の百合ささげ 
一途なる羽音をつつみ雪昏るる

これ以降の登志子の句を私は見ない。登志子はどこへ行ってしまったのだろうか。

しかし、39年となって「狂」から少し解放された登志子の姿を見て、私は、ほっとする。「狂」から脱出するためには俳句が必要であり、そのためのエネルギーを俳句に求めたのかも知れないが、「狂」から脱出したのち、穏やかで健康な生活を淡々と維持するためには俳句から去ることが必要であったのかも知れない。だから、最後の「癒えしなり」の句にどこかほっとするものを感じるのだ。俳句にとことん耽る幸福もあるかも知れないが、一方で、俳句を去ることの幸福もあるような気がするのである。登志子の、もはや俳人としては知られないが、しかし穏やかな生活が続いたことを信じたい。


【注】

「この作者の狂妻ものの一句。上林暁の「聖ヨハネ病院」その他の狂妻ものは、特異な夫婦愛と作者の人間的な暖かさで読者をうつが大内氏の狂妻俳句にはもっと突放した客観的な場がつねにある。俳句といふ詩形がさうせざるを得ない一面をもつといふことと共に、作者がその特異な夫婦関係に主観的に溺れこまないで自らの唯一の表現形式である俳句で半ば詠みつづけようといふ意図があるのかもしれない。上林氏の狂妻は入院してゐたが、大内氏のそれは作者と共に生活してゐるだけに一層作者の生活を特異な環境にしがちであるようだ。今月の諸作品もさうである。 
この句狂妻が凩の吹きすさぶ地に視覚んで尿をしてゐる姿を、正確に描き出してゐる。「地に貼りつきて」といふ叙法などは狂妻を意志を喪失した生きてゐる「もの」として描いた言葉といってよい程に突離した描写である。 
作者の不退転のなみなみならぬ作句精神をここに見得ると思ふ。」 
(石田波郷「鶴俳句の諸作」「鶴」36年2月)

   *   *

最後に登志子の夫、大内英衛について補足しておきたい。鶴の有力同人であったから調べる積もりになればいろいろ判るかも知れないが、大内登志子との関係に絞って述べてみる昭和37年鶴同人名簿によれば、54歳(明治42年生まれと推測。登志子と14歳離れている)、職業は商業とある。30年代は、英衛はすでに宇部の著名な俳人であり、鶴の雑詠欄の上位を常時占める有力作家であったのだ。だから登志子の角川俳句賞の受賞選考経緯を眺めていて、直接登志子のことばかりではなく、英衛にも関心が持たれた。すると、角川俳句賞予選状況が次のようになっていることが判る。


36年角川賞、予選通過作(22名)中に「妻」(大内英衛) 無点

38年角川賞、第2次予選(71編)中に大内兵衛(山口)

40年角川賞、最終予選通過作(20編)中に「懐古譜」(大内兵衛) 波郷・静塔入選


38年の山口県の大内兵衛とは、県内に予選通過する大内姓の実力俳人がそうたくさんいたとは思われないから、英衛の誤記ではないかと思われる(いかにも間違いそうな名だ)。すると、大内英衛は2年に1回は角川俳句賞の予選を通過するか、二次予選を通過する実力作家であったわけである。

36年角川賞、予選通過作の「妻」(大内英衛)とは、その時期からいっても、大内英衛のいう「狂妻俳句」であったのではなかろうか。もっと劇的なのは、38年で、もう少し大内英衛が力作で応募していたならば、38年の角川俳句賞は大内英衛と大内登志子の夫婦二人で争われていたのかもしれないのだ。残念ながら当時の予選作品は残っていないので調べるすべもない。

ただ不思議なのは、英衛が「昭和三六年二月、金輪際病妻を詠うまいと誓った最後の作品がはしなくも波郷先生の過褒を享けた。<狂妻尿る凩の地に貼りつきて> この句が私の狂妻俳句の永劫のエピローグであることを私は祈っている。」といいながら、36年角川賞には「狂妻俳句」で応募していたと思われることだ。

一方で大内登志子自身も、「聖狂院抄」の中で、「合意離婚成る」と前書きを付けた俳句を詠んでいるが、前述したように角川の俳句年鑑の住所録では39年までは「宇部市西区島通2 伊藤方」に居住し、40年には「宇部市松島町11-23」に移動している。ところが大内英衛は角川の俳句年鑑の住所録に40~48年に掲載されており、住所は40年以来宇部市松島町11-23となっている。離婚していたが、同居・同棲していたということなのだろうか。38年の大内英衛の文章を読んでも離婚・別居を匂わせる部分はない。発症後も、治癒後も、角川俳句賞受賞後も、二人の生活は変わっていないように思われる。

このように見ると、大内英衛・登志子はドラマ性(嘘というわけではない)に満ちた俳句を詠み、かつドラマ性に満ちた生活を送っていたのかもしれない。ちなみに、大内登志子は長い間欠詠をしていたから「聖狂院抄」以外の作品は実はあまりよく分からない(健全であった初心時代の28年~31年の句はあまりにも環境が違いすぎて参考になるまいし、32年~38年は欠詠、「聖狂院抄」以後の句はほとんどが狂院俳句の延長線上の作品であった)のに対し、大内英衛の俳句は、狂妻俳句以後境涯俳句性は乏しくなり、炭鉱生活(宇部は炭坑の町であった)や吟行等外部の素材主義的な俳句となってゆくようである。英衛にとっても登志子の闘病と看取りは、自らの俳句を転換する原因となったように思われる。

  *    *

冒頭に述べた、行方不明となっているもう一人の角川俳句賞受賞作家の川辺きぬ子(36年受賞)も登志子と同様「鶴」に所属し、遠藤英千(鶴同人)と再婚している。俳句年鑑の住所録を調べると二人ともに掲載されており、元々江東区深川枝川町に住み、蕨市塚越、秋川市引田へ移転している。ただ、大内よりは遅くあるが、きぬ子も46年をもって掲載は終了しておりその後の行方は不明である。ともに鶴の所属で夫も鶴の同人であると言うところが何か不思議な因縁を感じる。

さすがに彼女らの受賞時代には私はまだ俳句を始めてはいない。いやいや――これらの事件は、私の俳句を始めるたかだか10年前のことに過ぎない、と言うべきなのかも知れない。調べるつもりになれば今よりはるかに容易に調べることが出来たし、あるいはその時点で大内登志子も川辺きぬ子も存命で話を聞くことが出来たかも知れない。歴史というものは私の体の内部で明らかに蓄積しているということが実感されるのである。







2014年10月17日金曜日

(「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代(8)登四郎のライバル

秋野弘とは

 前号で登四郎がライバルと目した秋野弘について見てみたい。

秋野弘または秋野ひろし。生年は調べたが判らなかった。馬酔木に戦前(少なくとも19年)から投句していたようである。戦後、21~22年頃から馬酔木の新人たちの中心となった三菱俳句会、富国生命俳句会のうち、三菱俳句会に属しそのホープであった。その後、藤田湘子とともに22年8月に発足した新人会の中心を成した。さらに24年2月には水原秋桜子、篠田悌二郎の支持を受けて、藤田湘子とともに、新人会俳句機関誌「新樹」を創刊、編集した。しかし、23年以後、登四郎、湘子、翔が巻頭を独占していたのに対し、巻頭経験はない。特に24年12月、登四郎、湘子、翔の3人が同人になったにもかかわらず、弘はその後新樹集では精彩を欠き、二三句欄に低迷した。25年4月、秋桜子から次の句について、最後の選評を受けたが、5月号を最後に名前が消えている。結社を変えたというわけではなく、俳句をやめてしまったようだ。流星のように戦後馬酔木を駆け抜けた天才であった。

雪つもらむ誰もしづかにいそぎゐつ(25年4月)
「官庁会社等の退け刻であらう。大きな建築の建ち並んでゐる街路で、人通りも相当に多い。
先刻から降り始めた雪が、見る間に降り募つてゆき、止む気配を見せぬどころか、いまではもう大雪になりさうな様子を呈して来た。先程から街路が灯つてゐるが、その黄色の光の周囲には雪片が紛々と舞ひ、ビルヂングの入口に停車してゐる自動車はすでに上部を真白に覆はれてゐる。
道を行くのはたいてい退庁の人か或は会社が退けた人達でこれから家路へ急がうといふところである。この人達は皆雪のやむことを希望してゐたらう。また実際空模様を見上げつつ、三十分なり一時間なりを空費した人があるかも知れない。しかし今は到底やむ気配のない雪だ。これから電車に乗り、バスに乗り、家が郊外にでもある場合は、帰り着く門前の積雪がすでに深くなつてゐることを思はねばならない。多くの人は、久しぶりに雪の降り出すのにあふと、いささか興味を持つものであるが、このやうに止む見込みのないことがわかれば、すでに興味などは問題ではない。道を行くにも空を仰がず、肩に胸につもる雪を払ふことさへせずに、ただ黙々とさきを急いでゐるのである。
「誰もしづかにいそぎゐつ」の「しづかに」といふ言葉はこの歩行の状態をまことに簡潔に描き得てゐるばかりか、舗道にもすでに雪がつもり、靴も車輪も音をたてぬことを示してゐる。それに「雪つもらむ」をあじめに置いたことも大きな効果をあげてゐる。ここで家に帰りつく頃の雪の深さを暗示してゐるがために「しづかに」が、ただの「しづかに」でなく心の暗さを含んだ「しづかに」となつて、句全体にも陰翳が加はつて来るわけである。用語は普通でありながら、感じはかなりつよく出てゐると思ふ。」(水原秋桜子「馬酔木俳句の評釈」)

秋野弘の活躍した期間は3年半程の極めて短い期間であったが、能村登四郎がライバルと目する程の活躍をしたのは意外である。ここではもう誰も語ることのない秋野弘の作品を眺めてみよう。数字は掲載月、○の数字は新樹集の席次、(二)(三)は二句欄、三句欄を示す。

[22年]
枯堤われくだるより犬はやし・22年5月⑥(この月より弘)
散る花に麦生の風のあつめれる・22年6月⑮
片蔭をいでてひとりの影うまる・22年7月⑤
ゆふだちのさなかにともり螢籠・22年9月③
遠雷となりてひぐらしに雨つのる
寝ねどきを草しろきまで月照りぬ・22年10月⑪
わだつみも秋茄子も紺の色ふかし・22年12月⑱
 
[23年]
光りつつ冬の笹原起伏あり・23年1月④
もの音にこころうつすも冬の夜は・23年2月⑥
霜いたり外套の紺まさりける
身につくる色濃きものとなり寒し
笹の上やがてはつもる雪舞へり
ひさびさに来れば銀座の時雨る日・23年3月⑩
春の風邪夜は疲れもくははりて
風荒れて春めくといふなにもなし・23年4月③
風邪声が多くをいはずつくしけり
蝶の息づきわれの息づき麦熟るる・23年7月⑧
踊り子のひとりごつなり梅雨のこと
緑蔭の蝶にしづかな翅音あり
青芝にわが子を愛すはばからず・23年8月⑦
帽とりぬ青葉の声のおこるとき
夏めくや何せしとなき手の汚れ
七月のかなかななけり雑司ヶ谷・23年9月(三)
紫蘇の実の匂ふや過去はかなしきを
木犀や人にもあはぬ夜をゆけば・23年11月(三)
 
[24年]
とおき過去近き過去にも悴かめる・24年2月④
凍鶴の身じろがざるに似る生活
寒きびし貧しさつひに心まで・24年3月⑥
悴みてあかるき色を好むわれ
灯も音もはや消えし夜は春いまだ
春炬燵誰も姿のくづれゐて・24年4月⑭
着て見する春の着物のうすみどり・24年5月⑯
見ずなりぬさむさもどれど霜氷
桜漬すすまぬ箸をつひにとりぬ
降りやめば夜はひとしほに春ふかし・24年6月⑯
こころより為したり風の光りける
椎にほひ病むとてもなくうすき胸・24年7月⑨
人寄るに梅雨の冷よりくるしづけさ
梅雨茸や濁世をさらし汚しける・24年8月⑪
夏雲やうつむき生くる世にあらず
暑き野にかたみさびしむゆきあひて
朝顔や母にすがしき刻わづか・24年9月⑮
海山の日焼にあらぬかくまでに
夏芝のまぶしさ人はよぎるのみ
風すぎて日ざかりの道かがやかす
見えねども片蔭をゆくわれの翳・24年9月特別作品「翳」
若くしてうすものの膝の正しさよ
夏ふかししづかな家を出でぬ日は
新秋やしづかなのぞみ湧く日なる
 
[25年]
菊しろきしづかな寒さ見舞はれぬ・25年2月(二)
枯芝に影は肩寄すふれざるに
悴みて人の幸福ききをるも・25年3月(三)
ばらをくれぬ冬草の色明るき子
雪つもらむ誰もしづかにいそぎゐつ・25年4月⑬
冬ばらの影消えて待ちし人の影

やがて次の句をもって馬酔木の誌上から秋野は姿を消す。

雪敷きて朝日の道のけふは照りぬ・25年5月(三)
春風に吹かれてぞ髪ゆたかなる

能村登四郎のライバル

秋野弘が極めて繊細な感覚を持っていたことは理解できると思う。それにしても能村登四郎がライバルといって憚らないその特徴とは何なのか。特に藤田湘子をライバルと目さずに、秋野を名指しした理由を考えてみたい。

まず、湘子の巻頭時代の句を眺めてみる。

雪しろき奥嶺があげし二日月(22年4月) 藤田湘子
蜑が家の年用意とて干せる烏賊(23年1月)
茶摘唄ひたすらなれや摘みゐつつ(23年6月)
夕虹の紺や紫紺や夏果てぬ(23年9月)
あてなくて急げば蝶に似たらずや(24年4月)
これに対して能村登四郎の巻頭時代の句を眺めてみると明らかに色調が異なる。

ぬばたまの黒飴さはに良寛忌(23年3月)
部屋ごとにしづけさありて梅雨きざす(23年7月) 能村登四郎
逝く汝に萬葉の露みなはしれ(23年10月)
咳了へてほのかにぞ来る人の息(24年1月)
冴え返る今まで人のゐし畳(24年5月)
言ってみれば、湘子は明るくてリズミカルだが、単純で陰影がない。登四郎の句は、子を失ったときの「萬葉」の句以外、みなしづかで陰鬱をもち、心理の襞を描いている。句のリズムそのものがそうした匂いを漂わせているのである。

これを例えば、当時の他の新人作家と照らしても、

山の日に焼けてつとめのあすがまた(23年9月⑦) 大島民郎
野の霧に暁の車窓はみなくもる(23年10月③)  岡谷公二
ためらはで剪る烈風の牡丹ゆゑ(24年6月①)   殿村菟絲子
約ありて継ぐ息勁し麦は穂に(24年7月①)    野川秋汀
のような直接的な表現とは矢張り相当異なるものがあるのである。そうしたとき、秋野弘と能村登四郎との類似性はかなり見て取れるように思う。確かに秋野の素材は都会的なものであり、登四郎は短歌的詠嘆と少し違うようであるが、どこか疲れた影が二人の作品には漂っているのである。
ライバル意識は全く違った素質では生まれない。お互い目指すものが見えているとき、猛烈な闘争心がわくのである。

風荒れて春めくといふなにもなし   秋野弘
登四郎が巻頭になった翌月、3席であったとはいえこの句は新人たちの大きな話題となった。「なにもなし」の用語がいたるところ句会等に頻出するぐらい、流行となって若い作家たちに影響を与えたのである(当時の「新樹」の記事による)。巧緻といえば巧緻である、立春の心を詠んでいるのだが、風が荒れる、春めくものがなにもない、と否定を重ねながら、どこか作者の心の片隅に、あるいは読者の心の中に春が生まれていることを期待させる。「ぬばたま」の句と違って、こうした句であれば極めて現代的であり、波郷の否定も呼ばないはずだ。馬酔木俳句の未来はここに示されているかに見える。能村登四郎が、これに敵愾心を燃やさないはずがなかった。じつは、こうした句を登四郎が詠んでもおかしくなかったからだ。

登四郎と秋野弘を比較した場合、秋野の最盛期にあっては、ほとんど二人は対等にあったと言うべきだ。登四郎がやや思いを重くこめすぎていたのに対し、弘は憂愁を漂わせながらも軽やかだった。表現も登四郎が重かったのに対し、弘は口語や助詞の使い方などが軽妙であった。少なくとも平成の現代人の心にかなうのは、登四郎でもなく、弘の句ではなかったか。湘子でもなく、登四郎でもない、こんな軽やかさを現代は求めているような気がする。再掲しよう。

蝶の息づきわれの息づき麦熟るる    秋野弘
踊り子のひとりごつなり梅雨のこと
緑蔭の蝶にしづかな翅音あり
帽とりぬ青葉の声のおこるとき
夏めくや何せしとなき手の汚れ
七月のかなかななけり雑司ヶ谷
凍鶴の身じろがざるに似る生活
悴みてあかるき色を好むわれ
灯も音もはや消えし夜は春いまだ
見えねども片蔭をゆくわれの翳
最後の句を秋桜子は次のように鑑賞している。

「日盛どきの街路で、炎暑のために視覚に妙な作用の起こることを詠んだものと思ふ。向ふ側の片蔭をめざして舗装路横切るとき、眼に灼きつくやうに感じられるのは建築物の影と自分も含めた通句尾者の影とである。これが片蔭にたどりつき、そこを歩いてゆくときにも、まだ視覚のどこかに残つてゐて、自分の周囲に陰翳の附きまとふやうな感じがする。それが「片蔭をゆくわれの翳」なのであらう。 
かういふ翳を取扱つた句は、これまでに殆どないのであるから、それを詠んで見やうとした作者の考はたしかにおもしろい。しかし表現はいかにもむづかしいもので、適確にわからせるところまで漕ぎつけるのは容易なことではないであらう。 
この句に於ては「見えねども」といふ五音が、余りに説明にすぎて趣を浅くしてゐる。けれどもこれを省いたら、おそらくこの内容を現はす訃報は他に無かつたであらうと思はれる。して見ればこの「見えねども」は、一応我慢することの出来るもので、作者としては苦心の措辞であつたことと肯けるのである。 
見た眼には派手でないが、感じの上で在来より一歩深く進もうとする努力は受けとれ、そこに点を入れる事が出来る。」 
(水原秋桜子「馬酔木俳句の評釈」24年9月)




2014年10月3日金曜日

(「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代(7)登四郎聞き語り

第2回(7月25号)で、能村登四郎の馬酔木での初めての俳句について述べたが、何しろ35年前の手控えから写しているために若干心もとないところもある。もう一度入念に調べるべきだろう。
実は、私の「沖」の先輩に当たる安居正浩氏が「一句十年」の真実 ―能村登四郎小論―」で次のように書いている。

「最初に誌上に句が出るのは『馬酔木』昭和十三年十一月号である(筆者調べ)。
 秋櫻子選の新樹集に
    佐渡野呂松人形浄瑠璃
   秋燈に伏せる傀儡のいのち見つ
 市川市 能村登四郎」(「沖」平成22年12月号)
安居氏は同じ号の加藤かけい選の新葉集の「葦の風遠くの風と思ひけり」もあげているが、これは私の挙げておいたところと同じであるから、昭和13年11月が初出という意味では変わらないと思うがここに補正しておきたい。

安居氏の論文を読みながら、興味深かったのは、「一句十年」がフィクションだということを述べつつ、この時の能村登四郎の心情を、藤田湘子とのライバル意識が働いていたと指摘していることだ。「一句十年」がフィクションだとすれば、登四郎の鬱屈の原因が当時花々しく登場していた湘子に起因していただろうことは充分推測できる。しかし推測以上の確証はあるのであろうか。

   *

私は、批評とは、批評される人の現存していることが批評の基準として大事だと思っている。亡くなってからの批評は、やはりどこか不安な要素が抜けきらない。

私の著した『飯田龍太の彼方へ』は、「雲母」を終刊したものの、まだ俳句の世界で龍太は活躍していた。私が著した後、10年以上存命であったから不都合があればいつでも異議を申し立てることができた筈だが、とうとうそれはなかった。もちろんそれが真理であることを保証するわけではないが、批評としての公正さは担保してくれるであろう。

その後鷹羽狩行、稲畑汀子、金子兜太の批評をしているが、いずれも存命どころか、元気な作家ばかりである。糾弾が来ればそれはそれでまた、新しい批評を考えてみたいと思っている。
安居氏の論文で言えば、丹念で秀逸な論であるが、それを執筆した時点で能村登四郎は批判できない状態(物故)にあるという点がやはり残念である。

私は、昭和56年ごろ、「若き日の登四郎」「咀嚼音研究」という連載で登四郎の初期作品を細かく分析した作家論を書いたのだが、林翔編集長を引き継いだ渡辺昭氏が登四郎に「磐井君のやっている「咀嚼音研究」はどうですか」と質問したところ、「嫌だね、昔の細かいことをほじくりまわって」と言われたという。それはそうであろう、じっくり読めば「一句十年」がフィクションだということは読者にはよく分かる筈だからである。そんなこともあり、私の「咀嚼音研究」はやがて打ち切りとなった。それでも、水子のような存在ではあるが、能村登四郎の最初の評伝の片割れであったという名誉は持っているのである。

さてこのように嫌われているにもかかわらず、私はずうずうしくも「咀嚼音研究」のために必要なインタビューや質問を、能村登四郎、林翔にしている。その中に、能村登四郎のライバルは誰か――登四郎自身が誰と考えていたか、にかかわる質問があった。手控えなので正確ではないが、論旨は間違っていないと思う。

この他に、「ぬばたま」の句の政治的な意味合いまで問うてしまっている。今日では、なかなか調べようもない話であり、私ひとりの手元に残しておくのももったいないので議論の材料に提供することとしよう。

★能村登四郎インタビュー(筑紫磐井聞き取り)

日時:昭和61年6月22日(沖市川例会終了後喫茶店にて)

●戦後の馬酔木は小岩の人たちの力で復興した。宮城二郎や老川(老川翠波か?)等といった人たちなのであるが、今ではその頃の人たちもすっかり忘れられてしまっている。小岩の後市川(能村、林)へ中心が移っていった。老川さん(精土社?)はいい人なんだが、いつごろか俳句をやめてしまった。それでも俳句をやめた後まで秋桜子碑にタンポポを植えたりしていた。

●第1回の高尾での句会があった。当時江戸川が氾濫し、膝までズボンをたぐしあげて川を渡り、小岩へ出た。そこからやっと電車が走っていた。そんなにしてまで行ったのだから好い句と当人は思っていたのだが、高尾での句会――午前、午後あったのだが、午前の句会では1句も入らず、頭にきて、泊まるつもりで入金していたにもかかわらずどんどん帰ってしまった。その時二郎さんと出会い、先生は貴方を買っていると言われ、初めて秋桜子のところへ行くことになった。

ぬばたまの句が巻頭になった時見舞いに行った。それから一週間ほどで死んでしまった(23年3月17日)。僕らの巻頭が遅れてもあの人は巻頭にしてやりたかった。

●ぬばたまの句が落ちた経緯は、悌二郎と波郷の人間関係にあったらしい。悌二郎が取った句だから波郷が反対した。秋桜子もこれはいいのではないかと言っていた、しかし波郷が反対したら絶対だからね。波郷は長靴なんかを推したけど、現在となっては良寛忌の句の方がいいと成っているだろう。波郷も悌二郎の影響がなくなったあと聞けば、黒飴の句はいいといったんじゃないかと思う。

 悌二郎は繊細で、ものすごくうまい句を作った。秋桜子を凌いだほどだと思う。『風雪前』、『霜の天』等は今回特集を書こうと思ったが見つからなかったのだけれど。悌二郎と波郷のような関係で消えていったのが山口草堂。米沢吾亦紅が俳人協会関西支部長になったので、あんな奴の下にいられないと言ってやめちゃったのだ。

●ぬばたまの句が出た後、波郷が入院先から、こんな句を作っているような馬酔木には復帰できないとか何とか言っているって。周りの人間が言っていたのよね。

●新人会のころライバル意識を燃やしたのは秋野弘。死んではいないみたいだけれど、どうしたのか。あんなのに負けられないと頑張った。湘子なんかより以前に目標になった。
 岡谷鴻児(公二)は草間研究会から堀口さんが引っ張ってきた。いい句を作っていたけれどすぐいなくなっちゃった。今けっこう売れてるみたいだね(当時東大文学部、のち跡見女子大教授となり多くの著書がある)。

 馬酔木の若手は、三菱系と富国生命系で、富国生命の大網弩弓が中心になった。五十嵐三更(三菱地所)等もいたけどどうかねえ。いい加減に同人にしてやればいいのに、先生、一向してやらなかったから。金子伊昔紅(兜太の父)など、いつまでたっても並同人にしていたから、金子兜太が怒って、八十いくつの老人をあんな状態にしておく八十いくつの主宰者は何だと言っていたよ。

●宮城二郎の奥さんは了子(近藤了子)といい、鈴木節子さんみたいな人。後、中村金鈴と再婚した。

追加:林翔より(昭和61年7月27日市川例会にて)

●宮城二郎がなくなる前、先生の飲み残しの茶を飲みたいと言ったことがあり、それを届けて飲ませた。それぐらい馬酔木に熱心だった。

以上いくつかの情報が錯綜してしまっているが、冒頭に述べたように

①登四郎のライバルは誰であったか?

②波郷と悌二郎の関係は?馬酔木は割れたのか?


に見るべき情報があるように思われるので、以下これについて考えてみよう。



2014年9月26日金曜日

(「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代(6)波郷の登四郎批判

ぬばたまの句をめぐる波郷との登四郎の争いを眺めて見たい。波郷のぬばたま批判が初めて活字になるのは次の文章による。


「能村登四郎氏が水谷晴光氏の法隆寺四句を、馬酔木調の綺麗事で現代的な匂ひが乏しいとし、斯かる新古典派的魅力を現代の若い作家が追ふのはどうかといひ乍ら、今後の馬酔木の句は斯くあるべしとして『しらたまの飯に酢をうつ春祭』の句を挙げてゐるのは合点がゆかない。この句や能村氏自身の『ぬばたまの黒飴さわ(ママ)に良寛忌』の方がかへつて法隆寺の句よりも非現代的と、僕などには思へる。かういふ考へが新人会あたりで不思議とされないのだつたらこれは問題であらう。」 
(「仰臥日記」――「馬酔木」24年3月)

これだけでは経緯が分からないであろう。批判される登四郎の文章があるのである。長文であるが引用しよう。

「この「法隆寺」の連作の一聯は、月明の法隆寺の参籠と言ふアトマスフェアに凭れかかつてゐるだけで、この恵まれたモチーフを十分生かしてゐない。私はこの種の作品は昭和十二、三年頃にこそ魅力も価値もあつたが今の苛烈な世相の中でそれがうすれつつあり、やがては全く過去のものとなるであらうと考へる。 
関西から「天狼」が生まれ複雑な戦後の俳壇の潮は又一つうねりを加へて来てゐる。馬酔木の若い私たちはそれらを一種の昂奮に似た気持で眺めてゐるのであるが、そのうねりを私達よりも近くに見てゐる名古屋の若い作者諸君に、私はもつと現代色の濃い作品を詠んでもらひたいのである。 
俳壇で言はれる馬酔木調と言ふものは、根強いものに欠けた綺麗事の句を指摘したものであるが、この作品は遺憾ながらその譏りを受けさうな気がする。 
私はこの句の持つ豊饒さに敬服し、今後の馬酔木の句はかくあるべきだと思つてゐるほどで、晴光君にはこの作よりも遥かに佳いものを期待してやまない。」 

(「馬酔木」24年1月)
しらたまの飯に酢をうつ春祭

この文章も、これだけでは意味が充分分からない。実は馬酔木23年12月号の新樹集で秋桜子の巻頭となった次の作品を批判した文章であったのである。

法隆寺 

松籟にこころかたむけ月を待つ 
十六夜の脇戸くぐるや苔匂ふ 
坊更けてはばかり歩む月の縁 
  勤行に参ずる暁の霧ふかき
つまり、水谷の巻頭句である法隆寺4句に対し、登四郎は

しらたまの飯に酢をうつ春祭(23年6月3席)
をよしとし、この句の持つ豊饒さに敬服した(逆に言えば、法隆寺の作品は根強いものに欠けた綺麗事の句であり全く過去のものとなるであろう作品、これに対し、白玉の句はもつとの苛烈な世相に堪え得る現代色の濃い作品)と述べたのである(「しらたま」の句は23年6月の3席句で秋桜子の推薦句。秋桜子は「酢をうつ」という言葉は俗であり、「しらたまの飯に」という言葉と本来は調子が合わないはずであるが、そこが言葉の生きものであるところで、巧みに配合すれば雅語と俗語がこのようによく調和する、この調和の魔術を心得ているのが詩人なのである)と激賞した)。

ところがこれを波郷は

しらたまの飯に酢をうつ春祭 
ぬばたまの黒飴さはに良寛忌 
ともども法隆寺の句よりも非現代的と思える、と述べている。

確かに法隆寺の句が現代的であるとはとても思えないのであるが、二つの傾向の比較はこの論戦の中で消滅している。ただ「しらたま」「ぬばたま」ともに典雅な趣味の句であることに間違いはない。それを波郷は批判したのである。

ところで、波郷は能村登四郎の傷跡に再度、塩を塗るようなことをするのである。それは、『咀嚼音』の跋文で再び批判をしているのである。

「私が清瀬村で療養の日を送つてゐた頃、馬酔木には、能村登四郎、林翔、藤田湘子の三新人が登場して、戦後馬酔木俳句のになひ手として活躍してゐた。然し馬酔木に復帰して間もなかつた私は能村氏の、の句が、馬酔木で高く認められ、新人達の間でも刺戟的な評価を得てゐるのを見て奇異の感にうたれた。 
「黒飴さはに」の語句に、戦後の窮乏を裏書きする生活的現実がとりあげられてゐる。それだけに、これらの句の情趣や繊細な叙法は、趣味的にすぎて戦後の俳句をうち樹てるべき新人の仕事とは思へなかつた。私は手術をしても排菌が止らず絶望の底に沈んでゐたが、これらの句を馬酔木の新人達が肯定し追随する危険を、馬酔木誌上に書き送らずにはゐられなかつた。 
 その頃の句はこの句集には収められてゐない。私が、今これらの句に触れたのは能村氏には快くないかもしれない。が、たとへその句は埋没しても、その中を通つてきた事実は、能村氏の俳句の内的体験として、後の俳句に何らかの影響(反作用であつても)をのこしてゐると思ふ。」 
(石田波郷『咀嚼音』跋文)

ぬばたまの黒飴さはに良寛忌

実は波郷は、馬酔木に記事を執筆する(24年3月)以前に、登四郎が馬酔木の巻頭としてこの句が掲載された時点(23年3月)で批判をしていたという事実があるのである。冒頭の波郷の文章はその根拠を明確にしただけであって、「ぬばたま」の句が生まれた段階ですでに波郷はこれを否定していたのである。

 「私は有頂天であった。俳句でこのような幸運が得られるとは全く考えたこともなかったからである。ところがこの句には横槍が入った。それは病重く清瀬で呻吟していた石田波郷からであった。当時波郷は未だ「馬酔木」へ復帰していなかった。波郷氏はあの黒飴の句は俳句に必要な具象性を持たない、余りに趣味に溺れた句である。ことに枕詞を使用するなどは、若い生活派といわれる作者のすべきことではない。と難じられたと言うことを「鶴」作家のKからきいた。 
 相手が尊敬している波郷だっただけに、私はようやく獲た王座から転落していくような気がした。私は俳句の世界が考えていたような甘いものではないことをしみじみと知らされた。」 
(「野分の碑」――「馬酔木」41年9月)

「鶴」作家のKとは当時の親交状況からいって草間時彦であろう。これは馬酔木に掲載した文章であるから、波郷が読むことを覚悟して微温な表現になっていると思われる。しかし、少し離れたところではもう少し違った本心を登四郎は覗かせている。

「当時未だ「馬酔木」へ復帰しなかった頃の波郷がひどくその句を非難したということを人づてに聞いた。当時波郷という人についてよく知らなかった私は、何とひどい先輩かと恨んだり、一見おだやかな風の吹く俳句の世界にも、こんな足をひっぱるような残酷があるのかと驚かされたほどである。 
しかし当時の私にはこの先輩のことばを無視する力はなかった。だから私は極めてすなおにしかも謙虚に反省した。私の作風はこの時から美よりも人間興味に傾いていった。」 
(「悪評について」――「南風」43年3月)


一瞬ではあるが登四郎は波郷を人格的に非難しているのである。ただその後の登四郎は、波郷の助言に従って行くようになる。その経緯はまた回を改めて考えてみたいので、ここでは結果だけを示しておく。

「同人の末席についたその時から私は第二の危機にのり上げていくのを感じた。自分の作品についてもっと厳しい批判と反省がなくてはならないと感じた。そんな時に波郷氏のことばが静かによみがえって来た。趣味とした俳句を考えている人は知らないが、少なくとも私は血の滲むような貧しい生活の底から俳句を作っているのだ。当時私は学校の他に夜学を教え、さらにいく人かの家庭教師に自分の持時間のすべてをつかっていた。俳句を作る時間は人の眠る時をつかわなくてはできなかった。そんな中でつくる俳句に生活の実感が流れないのは嘘だ。貧しい自分の現実を確かめ確かめしながら俳句をつくろうとした。」(「野分の碑」――同前)

こうして、26年には馬酔木30周年記念特別作品に「長靴に腰埋め野分の老教師」の句を含めた「その後知らず」(25句)で応募し、その時批評に当たった石田波郷がこの句を激賞したことにより、教師俳句へのはっきりした道が開けてゆく。それが処女句集『咀嚼音』に結実する。やがてさらに、社会性俳句、現代的な心象風景句と登四郎は変貌してゆくのだが、そのなかで、「ぬばたま」の句は、ますます遠く置き去られた作品となっていたのである。

 これが大きく変わるのが、『咀嚼音』が定本として復刊されるときである。

「改版にあたって気に染まない句を二十句ばかり捨て、初版に洩らした句を三十八句ほど加えた。その中には「ぬばたまの黒飴さはに良寛忌」のような私の思いでふかいものも載せた。二十年という歳月が私にそうしたものを許容させたのかも知れない」 
(『定本咀嚼音』後記――昭和49年5月)

 これは理由がやや不分明だ(また加えた句38句は、後述の湘子の論によれば57句だそうだ)。加えた理由をもう少し具体的に述べている言葉がある。


「あの作品が作られた二十年から二十九年はいわゆる戦後の暗黒時代で、国民全体が戦争という罪の贖罪のような苦業に充ちた生活をしていたので、私は俳句を通して美や自然を詠うことをつとめて避けた。自然、職場とか仮定とかに素材が限られた・・・。

それから二十年経って世の中も私の俳句観も変わった。今は人間や生活と言うものにそれほど固執しなくなった。むしろ、大きな自然の中に人間も生活も存在しているのだと思っている。生活のにおいがないという理由で落とした何句かが、こんど採録されている。」


(「定本咀嚼音について」――沖49年4月)

 しかし、これだけでもまだ状況が判明しない。理由が痛切には伝わらない綺麗ごとなのである。そしてこれをはっきり明言した資料がある。

「波郷が、5年前に書いた“ぬばたま”批判を、作者の処女句集の跋文であえて繰り返した理由はなんであったか。それは、という波郷推薦の一句に到るまでの、能村さんの成長過程を語るための行文上の手段であったようにも思える。そう思うほうが当たり障りなくて無難である。けれど、私はもっと下賎な推測をはたらかしてしまう。どういう推測か。それは『咀嚼音』の草稿に“ぬばたま”の句も含まれていたからだ、ということである。『咀嚼音』は自選四百五十句を草稿として波郷の閲を乞い、波郷はこれを三百八十余句に削ったと「後記」にある。つまり、波郷が削った七十句足らずの作品の中に“ぬばたま”があった。こんなことは能村さんに訊いてみればすぐ判ることだけど、私はあえて自分の推理を楽しむ。“ぬばたま”の句を見たからこそ、波郷はカチンときて、これに跋文でまず触れたのではあるまいか。下種の勘ぐりと言われるかも知れないが、私はそう思うのである。 
 もっとも、私がそうした推測をする根拠が全く無いわけではない。能村さんの“ぬばたま”に対する愛着が、とりわけ深いと言うことを感じ取れるからだ。」・・・自註シリーズの『能村登四郎集』に、<秋桜子に褒められたが波郷に難じられた句。これも後に定本の中に加えたのは、とにかく出世作だったからである>とあるのをまつまでもなく、こうした要(かなめ)の句は作者の溺愛をうけるようになっているのだ。『咀嚼音』の草稿に“ぬばたま”が入っていたことは、ほぼ間違いないと思う。」) 
(藤田湘子「『咀嚼音』私記」――沖55年10月)
長靴に腰埋め野分の老教師

これは推測だと言うが、登四郎がまだ元気な頃書かれた文章である。登四郎はそれを否定していない。特に、『咀嚼音』直後『途上』と言う句集を出し、その出版社が同じ近藤書店であり、その句集の構成も『咀嚼音』と全く同じ秋桜子の序文・波郷の跋文のついていたことを思えば、この状況が最もよく分かるのは湘子自身であったし、ここにあるようにいかにもありそうな状況だったのではなかろうか【注】(その後、平成2年の富士見書房『能村登四郎読本』の「自句自解(五十句)」で「初版『咀嚼音』は波郷選によるものでこの句は落とされている」とさりげなく書いているから湘子の指摘はまさしく正しかったのだ)。

 そしてこのことからも、波郷が跋文いうように「その句は埋没しても」はたった今埋没させたのだとすれば、それは6年前(23年)の過去の事実ではなくて、句集編纂の現在(29年)の問題であった。そしてそれを再び復活させない波郷の固い意志は「後の俳句に何らかの影響(反作用であつても)をのこしてゐる」に明らかなのである。“ぬばたま”の句は「反作用」としてしか価値を持っていない。

 波郷との闘争がそこから始まるのである。


【注】「ぼくが「咀嚼音」を出版した後で、洩れきいた話では先生が湘子に「能村君が句集を出すまでは待っていなさい。先に出してはいけないよ。」といわれたそうである。つまり湘子の句集上梓は、すでに先生のそんな言葉があった程熟していたのである。「咀嚼音」出版後一年にして彼の青春句集「途上」が出版された。(能村登四郎「偽青春」――「南風」32年3月)

2014年9月19日金曜日

(「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代 (5) 新人会 /  筑紫磐井

既に述べたように、昭和22年1月25日に高雄山麓高橋家で馬酔木の復刊記念俳句大会が開かれていた。この時、湘子は秋桜子特選となった。

風音のやめば来てゐし落葉掻 藤田湘子
ただし、この時の参加者申し込み者は100名を超え、特選句も20句ほどが取られているから、湘子だけが特別扱いになったと言うことではないようである。ただ1点も取れなかった登四郎のショックは大きかったようである。

湘子が本当に特別扱いになったのは、22年4月に、その登四郎を傍目に巻頭となった時である。

高雄山麓 
雪しろき奥嶺があげし二日月 藤田湘子 
夕月や雪あかりして雑木山 
雑木の芽尽き照るまでに太りをり 
月落ちて川瀬に小田の雪あかり

「(「月落ちて」の句)1月末の俳句会のとき、遠くから来た人が二三人高雄の宿屋に泊まり、未知どうしながらすぐうちとけて、また句会をひらいたといふ話をきき、いかにも俳句作者らしくて面白いと思つた。この作者もその中の一人で、句はその時に出来たものであらうと想像される。
私達が高雄から引き上げようとする頃、西空に繊い月が出てゐたが、夜も更ける頃は、それが峰のかげにかくれ、谷沿ひの小山に積ってゐた雪が、ほのかに川瀬を照らしてゐたのであらう。実に静かで、且つ淋しい風景であるが、感じが確と捉へられ、そのままに現はされてゐるので、読んでゆくうちに身にしみるやうな寒さをおぼえる。勉強ざかりの人が、かういふ仕事をするのは実によいことで、後になって見ると、かういふ一句一句が、骨となり、肉となって、自分を築いたといふことがわかるであらうと思ふ。」(水原秋桜子「選後に」)

やがて若手の中核、藤田湘子、秋野弘を得た馬酔木では、前述した通り、22年8月23日篠田悌次郎による新人会での指導が始まる【補注】。毎月の会は三菱地所勤務の五十嵐三更の便宜により丸ビルで開かれていたのである。水原秋桜子の指示により、12月から登四郎、翔が新人会に参加を許される。

私は、林翔からこんな手紙をもらっている。

登四郎・翔の両人が初めて新人会に出席したのは昭和二十二年十二月です。出席は悌二郎先生以下十三名、悌二郎は出句せず、各自二句の出句でした。宮城了子が紅一点で、夫の二郎も出席していましたが、二郎は病状の悪化で翌年から来られなくなり、了子も翌年は一度しか出席していません。十二月の会では小生が最高点で悌二郎特選にも入りましたが句集に入れていません。新人会の例会場は丸ビル8Fの一室で、新人会員五十嵐三更が三菱地所の社員だったから借りられたのだと思います。 
新年だけは会場を変えるならわしで、二十三年一月は涵徳亭、二十四年一月は八王子の喜雨亭でした。涵徳亭での句会では秋野弘が最高点、登四郎が二位、しかし登四郎は「ぬば玉」の句が悌二郎選に入ったわけです。二月は登四郎が断然トップで、悌二郎特選三句を独り占めしました。三月は湘子が最高点、この月から民郎も出席するようになりました。民郎は鎌倉の草間研究会(正式な名称かどうか知りませんが)に出ていたので新人会へはやや遅れて入ったのです(草間研究会は時彦氏の厳父草間時光の指導する会でした。時光は馬酔木同人、後の鎌倉市長です)。女流は宮城了子が来なくなってから馬場移公子が紅一点となりました。小林広子、山本貞子を挟んで、殿村敏子派女流の五番目、二十四年一月からの入会です。」(昭和59年4月5日付)

 少し分かりにくいので、整理してみよう。昭和22年12月は丸ビル8階の会議室で13名で新人会が開かれた、話題の宮城二郎も出席していたが、おそらく最後の新人会への出席であったろう。翌昭和23年1月は後楽園の涵徳亭で句会が開かれ、ぬばたまの句が悌二郎選に入る。文面からすると悌二郎「特選」であったかどうかは分からない。

ぬばたまの黒飴さはに良寛忌
さらに、この句を馬酔木に投じて、馬酔木3月号の新樹集で秋桜子選の巻頭となる。登四郎は、やっと、これで湘子たちに追いついたのである。

今の世で、童達がたやすく貰へる菓子といつたら、まづ第一に飴に指を屈することになるだらう。いや、これは現代だけの話ではない。むかしも飴ならば手に入れやすく、童好きの良寛上人は、袂の中にこえをしのばせて、童達に与へるのを楽しみにされたと想像される。良寛忌にあたつて、黒飴を見た作者の頭の中では、自然にこの句の着想が浮かんで来たにちがひない。
そのうへに、良寛上人は、飴屋の看板を書いてゐる。これが越後のどこかに残つてゐる筈だ。
――そんな因縁もからんで来ると、この句の味はひは相当に深くなる。さうして全体に高雅な燻しをかけるために、作者は「ぬばたま」といふ枕詞を用意したのである。
こんなわけで、この句はなかなか念が入つてをり、古典的の風格を持つと共に、現代生活とも関聯してゐる。完成するまでに相当時間がかかつてをることと思はれる。」(水原秋桜子「選後に」)

ちなみに、5月には盟友林翔も巻頭となっている(花烏賊やまばゆき魚は店になし)から、まとめて言えば、後発組が先発組に追いつき始めた時期であったわけである。

23年3月号の馬酔木では「新樹集関西の人達」という関西の新樹集上位作家の批評座談会が載っている(2月1日丸ビルにて)。これは登四郎が作品以外で登場した初めての場であったのではないか。このときのメンバーは、篠田悌二郎、藤田湘子、能村登四郎、林翔、宮田忠一、大網弩弓、五十嵐三更、浅沼稚魚、秋野弘(司会をしていると思われる)が出席しており、登四郎は既に新人会の中心作家となりつつあるのである(登四郎は直前の2月号では次席であった(咳なかば何か言はれしききもらす)。盟友林翔は1月号で3席と、登四郎に先立ち巻頭の近くにいたのである(今日も干す昨日の色の唐辛子・寒釣は残り釣見る人は去る))。

この結果、23年の巻頭は次の通りである(22年の巻頭も参考に加えてみた)。23年の新樹集巻頭は、ほとんど若手によって占められているのが分かる。それも、藤田湘子が3回、能村登四郎が3回、水谷晴光2回、林翔2回と少数の作家が独占することとなった。登四郎が「一句十年」という言葉で述べた鬱屈した思いは、ここにやっと氷消するかに思える。

22年 2月 忽然と雪嶺うかぶ海のうへ      澤聡
   4月 月落ちて川瀬に小田の雪あかり    藤田湘子
23年 1月 揚舟をかくさんばかり干大根     藤田湘子
    2月 日を仰ぐ咳やつれせし面輪かも    竹中九十九樹
    3月 ぬばたまの黒飴さはに良寛忌     能村登四郎
    4月 さふらんに沖かけて降る雪しばし   水谷晴光
    5月 花烏賊やまばゆき魚は店になし    林翔
    6月 茶摘み唄ひたすられや摘みゐつつ   藤田湘子
    7月 部屋ごとにしづけさありて梅雨きざす 能村登四郎
    8月 霧騒ぎいたましきまで鮭群れつ    沢田緑生
    9月 夕潮の紺や紫紺や夏果てぬ      藤田湘子③
   10月 逝く汝に萬葉の露みなはしれ     能村登四郎③
   11月 さつまいもあなめでたさや飽くまでは 林翔②
   12月 十六夜の脇戸くぐるや苔匂ふ     水谷晴光②
(数字は年間通算巻頭回数)

24年も同様に多くの若手が巻頭を占め(23年ほど独占的ではなかったが)、25年には晴れてこの巻頭作家たち――藤田湘子、能村登四郎、水谷晴光、林翔の4人が同人に迎えられるのである。

  *

私が思うに、こうした結社での抜擢は、その作家の力量だけでなく、選者・主宰者の「発見」が画期的な抜擢を生むのである。高雄で馬酔木の復刊記念俳句大会の特選がなければ藤田湘子は巻頭になることもなかったであろうし、篠田悌二郎の推薦・特選がなければ能村登四郎の巻頭もなかったであろう。これは依怙贔屓とは違う、認識論の問題だ。それまで同じ俳句を作っていても、選者・主宰者の注目を浴びることでその作者の価値が変わって見える。そしてまた、選者・主宰者の見る目が変わることによって、作者自身にも自分の目指す方向が新しく見えてくるのである。

同様のことはずっとのちのことであるが、当時大学生だった福永耕治が「ざぼん」主宰米谷静二に変わって福岡空港に水原秋桜子を迎えに行くことがなければ、その後の福永耕治の巻頭、そして東京に出て馬酔木編集長として活躍するという抜擢はあり得なかったと思われるのである。
注目されるということが作家を大きくするポイントなのである。

【補注】初期の新人会の様子を、秋桜子はこう語っている。

(水原秋桜子が疎開していた八王子へ来て泊まって帰った藤田湘子と一緒に)東京へ出て、秋野弘君の勤務先へ立寄り、それから私は病院へ藤田君は篠田君の所へ行つた。この頃は、篠田君の所か秋野君の所かへ寄ると、たいてい若い人が集つてゐるし、居ないでも消息はよくわかる。我々もむかし最も作句に熱中したときには、たいていどこかに集ってゐたものだ。いままで新樹集の作者達には、かうした交わりがなかつたのである。近頃急にこのやうな状態になつたのは、やはり一つの機運といふべきで、俳句の向上する道程であると思ふ。私はこの人達十五六人の会を作つて、新人会と名づけ、その薫陶を篠田君に託した。そこで毎月一回後楽園に集り、お互いに厳しい俳句の批評をするのであるが、会員の二三人にあつたとき、感想をきいて見ると、とても怖い感じの会であるといふので、安心した。怖い感じのする会で、十分鍛錬されなければ、俳句など巧くなるわけがないからである。
(「江山無尽」馬酔木22年10月)
もちろんこの中にまだ能村登四郎は入っていない。

      *

こうしたところへ大事件が起こる。馬酔木にとっても大事件であったが、能村登四郎にとっても(あるいは藤田湘子にとっても)俳句人生を大きく転換させる大事件であった。23年3月(「ぬばたま」の句巻頭の月)、石田波郷が馬酔木に復帰するのである(作品発表は4月から)。

このたび、石田波郷君が同人に復帰し、石塚友二、石川桂郎、大島四月草、中村金鈴の四君が、新たに同人として加はることになつた。主宰者としても嬉しいことであるし、会員諸君も熱望して居られたことなので、とりいそぎ御知らせする。(三月三日喜雨亭)
(水原秋桜子「後記」――「馬酔木」23年3月)

2014年9月14日日曜日

(「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代 (4)  /  筑紫磐井 

それでは終戦直後の登四郎の俳句を眺めてみよう。特に気になった句を選んでみる。

【21年】

曇日のいささか晴れて枇杷の花(昭和21年1・2月)3月は休刊
咲く梅にみちびく畦の焼かれあり(昭和21年4月)
いちはつの二番花なり雨の後(昭和21年6月)戦後初めての2句
蟇ないてけさくる筈のひとが来ず
懐石や春の海ゆくさよりなど(昭和21年7月)
くすぶりてゐる籾殻に月のこす(昭和21年11月)
【22年】

日がさせばためらひてゐし雪やみぬ(昭和22年3月)
かまはずに置かれし客の梅に立つ
牡丹活けよしありげなる調度など(昭和22年7月)
緑蔭に居りし人なり漕ぎいづる(昭和22年8月)
とほき帆やさらにとほきは秋の雲(昭和22年11月)
出水なか灯りて常のひとりむし(昭和22年12月)戦後初めての3句
くちびるを出て朝寒のこゑとなる
さがしものあるや雨月のみだれ箱筥

戦前の作品と殆ど変化してないことが分るであろう。

   *

しかし、画期的な変化は、競争からくる。

上から見ても分かるように、21年から復帰を果たしたものの、5月、8月から10月、12月、22年の2月は作品発表がないが、これは落選していたものらしい。

没になった時、当時編集をしていた木津柳芽を訪れるが、柳芽は句稿をしばらく見て、「こりゃあひどい、並々ならぬまずさだ。」と言い放った。その時の絶望感は大きく、帰路涸れ川を前にしばらく座り込み、俳句を殆ど止めようと言うまでの決意をした、と後に語っているが、事実かどうかはよく分からない。「一句十年」と同じくフィクションかもしれない。

このようなさなか、昭和22年1月馬酔木復刊記念大会が高雄で開催された。戦後初めての大規模な大会で、全国から100人近くが集まった。この大会の句会で、藤田湘子は秋桜子の特選となったが、登四郎は全くふるわず、帰り道には俳句をやめようと決心したという。この時、俳句をやめかけていた能村登四郎を励ましたのが宮城二郎だという。この青年俳人は、石田波郷の「馬酔木」復帰への橋渡しをしながら、波郷の「馬酔木」復帰後、日を経ずして不帰の人となった伝説的人物であった。能村登四郎が参加した高雄の大会で帰る途次、二郎と出会い、俳句をやめようと思っている話をすると「いや貴方はもう一歩というところにいるんだ。秋桜子先生もそれを認めていらっしゃる。今やめては今までの努力が水の泡になる。一度先生と会った方いい。」とすすめられる。実はこれもフィクションかもしれない。ただこう言うフィクションでこそ語られる登四郎の心情はあるのであろう。

この時後述するように登四郎は、あまりの成績の悪さに前半の句会で帰ってきてしまったのだが、その時句会場では秋桜子がこんな訓話をしていたのを知っていたのだろうか。

「本日集った諸君は新樹集の二句一句級の人々であるが、この二句級の人々の使命といふものはなかなか重大で、二句のところにすばらしい着想の句があつたり、技巧の新機軸が示されてゐたりすると、三句級以上の人はそれによつてつよい刺激をうけ、発奮することになるから、集全体の価値が高くなる。しかし、この新発想とか新着想とかいふものは、必ず堅実な研究の上に立つべきもので、いい加減の思ひつきなどであつてはならない。また一方からいへば二句級の人の句は堅実な風をもつてゐて、集全体をしつかりしたものにしなければならない。要するに、ここには大きな使命があつて、責任は重いのであるが、とかく二句級まで進出すると、一安心といふ気持ちになつて、句が弛緩するおそれがあり、また二句を維持してゐたいといふ考から、当時流行の技巧を真似て、安易な作を提出することになり易い。ここらは大に戒心を要するのである。」

正に、二句一句級で右往左往している登四郎の迎えている危機であったのである。

  *

それはともかく、登四郎はそれまで句会に出ても、秋桜子に接して口をきいたことがなかったという。実は戦争中に自宅も病院も焼失して八王子に疎開していた八王子の秋桜子の家に、21年夏休みの終り頃、林翔と訪問したが留守で会うことが出来なかった。やがて、二郎の勧めもあり勇を奮って、秋桜子の勤める宮内省病院を訪れると、秋桜子は温かく迎え、帰りがけに「馬酔木は若い人を育てるために新人会というものを興して篠田君に指導してもらっている。そこに入る人は皆僕が指名した人を入れるようにしている。君もそこへ入って勉強したまえ。」と激励したのだという。
実はすでに馬酔木の新人発掘は動き始めていたのだ。登四郎が沈滞に陥っていた時期に、登四郎を置いてきぼりにして、21年の後半から馬酔木に漸く新人が台頭し始める。

その一つに、戦後、秋桜子傘下の句会として発足した三菱俳句会があり、この中に秋野弘、五十嵐三更その他の若手がいた。当時の秋桜子の最も期待している若手であった。

これと別に、先に述べたように高雄で馬酔木の復刊記念俳句大会で特選を得た藤田湘子も馬酔木をになう中心人物として注目され始めた。

やがて、これらの動きが(おそらく秋桜子の意図を踏まえて)合流して、22年8月23日に、後楽園涵徳亭に藤田湘子、秋野弘等9名が集会し、篠田悌次郎指導する新人会として始まる。しかしこの新人会にはまだ登四郎は招かれていない。

新人会に関しては、やや遅れてであるが上記のような秋桜子の薦めもあり遅れて参加する。しかし、林翔によれば、秋野弘から能村登四郎、林翔の両氏の参加を認めるという通知が届いたものの、林翔が登四郎にそれを伝えてもうれしそうな顔をしなかったという。秋野らとは微妙な関係があったことは後ほど述べたい。

このように、「一句十年」という戦前からの不遇の伝説よりももっと重要なのは、後からやってきた新人たち(湘子たち)に追い抜かれた鬱屈した感じの方であったと思うのである。

【注】当時秋桜子の眼中にあったのは、水島龍鳳子、藤田湘子、沢田緑生、矢吹蕗の薹、冨田蒼棲と言った人達であったが、もっと佳い句が出来る筈であると評されていた(21年12月)「片々帖」)。





2014年8月1日金曜日

(「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代 (3) /  筑紫磐井  

(3)「一句十年」は真実か

昭和14年から、戦後、秋桜子のもとでの新人たちの活動に参加するまでの期間を、登四郎は「一句十年」と呼ぶ。「殆ど休みなく投句したが殆ど一句で年に何回か二句取られた。句会や吟行にも出かけたが全く振るわなかつた。」(「恩寵」)というように、「馬酔木」に投稿しても一句しか選ばれない時期をこう呼んだである。しかし、実際当時の「馬酔木」を読んでみると、決してそんなことはなかったようである。

「一句時代」が「脚光時代」と対比されるとすれば、登四郎の脚光時代はまだ確かに到着していなかったのであるが、だからといって本当に一句しか選ばれなかったわけではない。登四郎は、こうした印象の強いキャッチフレーズを選ぶ才能に長けていた。おそらく、若い作家を指導するような時期になってから、俳句は息長く、辛抱強く修練しなければならない、ということを言い聞かせるために作り上げた標語であったようだ。特に我々のように移り気な戦後生まれ世代を指導するためには不可欠な標語であったろう。

    *

萩うねり悉く月のさす方に(昭和15年12月) 
枯山の星するどくてひとつなる

入会2年目にして初めての2句欄への登場である。この年登四郎は結婚を果たしている(29歳)。

蒲の穂のしづかなれどもふれあひぬ(昭和16年11月) 
盆のものなべてはしろくただよへり

2回目の2句欄であり、長女が誕生している(30歳)。初期の登四郎の志向をよく示している、いい作品である。

ながれあり雨の浮き葉をつづりたる(昭和17年8月) 
朝の茶のくらくなりつつ蟇なきぬ 
  三樹荘
三つの椎いづれも蝉のこゑこもる

初めての3句であり、以後2句欄に定着している。入門4年目であり決して悪い成績ではない。「年譜」では翌18年の項目に「「馬酔木」に殆ど休まずに投句したが、常に一、二句入選の境をさまよっていた。」とあるが状況は少し違うようである。

今瀬剛一『能村登四郎ノート』では面白いデータを上げている(昭和18年12月のデータという)。馬酔木集の入選状況である。いかに厳選であったか、2句、3句となることは至難の業であったことが理解できる。にもかかわらず、登四郎は昭和17年以降、2句常連組を続けるのである(17年8月以降は3句1回、2句4回、18年は2句8回、1句4回、19年は2句8回、1句2回、0句2回であった)。

5句入選・・・・・3人
4句入選・・・・・2人
3句入選・・・・・7人
2句入選・・・・46人
1句入選・・・638人

実際、昭和17年9月号の「諸学者のために(座談会)」第3回では、昭和17年8月の句が馬酔木幹部同人の間で盛んに論じられ、注目を浴びていたことが分る。

滝春一「登四郎さんでは第二句の「朝の茶のくらくなりつつ蟇なきぬ」がいい。」 
篠田悌二郎「事柄はしぶい感じなのですが、何か清新な趣がありますね。」 
木津柳芽「「・・・つつ」は省略がよく聞いてゐて、俳句の好さを十分に発揮して余情の深いところ、今月の集中で秀れたもののひとつに数へることが出来るでせう。」

だからこそ、実際自信があったものか、愛着が強かったものか、第一句集『咀嚼音』(初版本)では収録されなかったが、戦後出された『定本咀嚼音』で復活している戦前の句が幾つかある。

篁のたそがれあをく雪を敷く 16年7月(新葉抄編集部選) 
畦塗にとほきさくらの散り来たる 16年6月 
塗桶に芍薬のまだ珠ばかり 19年6月 
はたらきに行くは皆ゆき朝ぐもり 18年9月 
秋の薔薇重らかなるを鋏たり 14年11月(新葉抄木津柳芽選) 
秋耕の何かよばれて屋に入りぬ 15年11月(新葉抄編集部選) 
大霜のあかるさ鳰を見うしなふ 15年2月 
霜晴の窪まりごとの葦火あと 19年1月

『定本咀嚼音』では、秋桜子選で巻頭となったにもかかわらず波郷の指導で削除された「ぬばたまの黒飴さはに良寛忌」の復活ばかりが有名であるが、これほど沢山の句が復活しているのである。伝説は自分で作るものであるといういい証拠である。

この他に、後の登四郎の作風と通うところのある気になる句を上げておく。

月の暈きのふよりけふのあたたかく 18年4月 
調ものうぐひすまれに近くなきぬ 18年5月 
寝返ればふたつとなりぬ遠蛙 18年6月 
うすきもの掛けし夜よりの青葉木菟 18年7月 
きのふ焼きけさは雨ふる畦堤 19年4月 
四五枚のいつも雪解のおくるる田 19年4月 
いつの間に見てゐし雲や春の雲 19年5月 
朝は子とゐし緑蔭や人のゐる 19年8月 
ひとりゐる葦刈に鳰もひとつゐる 20年1月 
    * 
侘び助や小雪に昏るる壁あをく 15年5月(新葉抄水内鬼灯選) 
くつぬぎの下駄かへし穿き十三夜 16年12月(新葉抄編集部選) 
  三樹荘
ふたつ寄りひとつは離れ月の椎(17年11月例会)

これが戦前の登四郎の俳句だったのである。戦後の特徴とも成る短歌的しらべが顕著であると言うだけでなく、切字や切れのない登四郎の特徴のよく出ている俳句が目に立つのである。

いずれにしろ、「一句十年」は登四郎の作り出した伝説であり、事実でもなく、いかに初学時代に青年は苦しむかの自虐的な教訓に過ぎなかったのである。





2014年7月25日金曜日

(「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代 (2) /  筑紫磐井 

(2) 登四郎俳句の初出

能村登四郎の俳句の始まりは、昭和14年(28歳)に「書店で表紙の美しい「馬酔木」を見、いままで自分の抱いていた俳句のイメージと全くちがうのに動かされて、投句をしてみる気になった」ことに始まるとされる。これは『能村登四郎読本』などの「年譜」に載っている記事だが、能村研三の編となっているが、実際はこの時期に関する記事は登四郎自らが書いたことになるから当然正確であるべきである。

登四郎の弟子の今瀬剛一は主宰誌「対岸」に連載した記事をまとめた『能村登四郎ノート』(ふらんす堂平成23年)でこの記事を踏まえて、

芦焚けば焔さかんとなりて寂し(昭和14年2月)
この句を登四郎の最初の句として掲げている。ホトトギスの雑詠欄に相当する水原秋桜子選「新樹集」に最初に載っているからである。昭和14年はこの他、次の句があるだけだといい、当時の馬酔木の厳選ぶりを想像している。

頬白の飛び去りし枝揺れやみぬ(昭和14年12月)
しかし、実は登四郎が俳句に関心を持ち、自らも始めたのは、昭和13年、市川学園に就職した直後からである。動機も、「石見に帰った牛尾三千夫からよく俳句雑誌「馬酔木」を買つて送れとたのまれたので送つている中に表紙の美しさが私の今までの俳句に対して抱いていた観念を一掃させた。私は牛尾に送る本の他にもう一冊買つて読み、その月から投句をはじめた。昭和14年ごろであつた。

殆ど休みなく投句したが殆ど一句で年に何回か二句取られた。句会や吟行にも出かけたが全く振るわなかつた。」(「恩寵」/「俳句」昭和46年12月)という。少し年譜とは異なる。ちなみに、牛尾三千夫とは國學院大學の二年先輩であり、能村登四郎に短歌同人誌「装填」に参加を勧めた人であり、卒業後石見に帰り民俗学、特に石見の田歌研究でよく知られている。だから、上記以外にも次のような句が初期の句として馬酔木には掲げられているのである。おそらく登四郎の評伝では初めて登場する句であろう。これらを見れば、登四郎の最初の句は昭和13年秋の「葦の風」の句と訂正しなければならない。

葦の風遠のく風と思ひけり(昭和13年11月「新葉抄」加藤かけい選) 
凍つる夜をかさねきたりしいのちなる(昭和14年2月「新葉抄」加藤かけい選) 
あめつちに霜きよらなり鶴啼けば(昭和14年3月「新葉抄」加藤かけい選) 
篁に霰ふりやみしとき薄日(昭和14年4月「新葉抄」加藤かけい選)

  靖国神社招魂の夜

葉桜に今浄闇のきはまりぬ(昭和14年7月「新葉抄」加藤かけい選 
秋の薔薇おもらかなるを鋏みたり(昭和14年11月「新葉抄」木津柳芽選)

ちなみに「新葉抄」とは馬酔木にあって秋桜子選「新樹集」の他に馬酔木主要同人(加藤かけい、木津柳芽、山口草堂)が選をする投句欄であり、馬酔木の初心者指導欄の役割を果たしていた。登四郎も投句をしやすかったし、ここでは没となる可能性も少なかったのである。

なお話題を戻せば、今瀬は14年中には2句しか掲載にならなかったと言うが、実際は次の句も「馬酔木集」に発表されている。資料の厳密性を確認するために一応指摘しておく。

黒南風は岩がくれゆくバスを追ふ(昭和14年8月)
登四郎はこのように、秋桜子、加藤かけいらの選を恒常的に受けていたが、興味深いことに、さらに山口誓子の選も受けていたのである(昭和14年10月「深青集」山口誓子選)。その後の登四郎の作風から行っても縁が薄いと思われる山口誓子であったが、当時の登四郎は貪欲であった。

熱海にて――初島よりの遠泳着きぬ 
渡ゆるやかに遠泳の近づきくる 
汀に上りくる遠泳の子の歩はたしか 
遠泳の子を抱くべく浜をはしる 
山口誓子は昭和10年に「馬酔木」に参加していたが、4Sの一人の参加と言うこともあり別格の待遇を受けた。その一つが、「深青集」の設置であり誓子選の連作俳句欄であった。年4回応募があった。「深青集」投句者にはその後の「天狼系作家」が多い。

従来の資料の乏しかった中での考察と違い、少ないとはいえ、これだけの資料を集め、眺めると、能村登四郎の最初期(昭和14年時期)の作風や態度ががおぼろげながらに浮かび上がるように思う。それは、

①登四郎は秋桜子に入門したと言うよりは「馬酔木」に入門したのであり、秋桜子、加藤かけい、木津柳芽、山口誓子など様々な作家の選に貪欲に挑戦したのである。

②こうした選を経た作品から、(従来、限られた資料でははっきり分らなかったが)今回示した相当数の作品を見ることにより、初期には極めて短歌的なしらべの作品が多いことが判明する。

特に②は重要で、詠法、リズム感から言ってもそうなであるし、あるいは逆に俳句の代表的切字である「かな」「や」が見当たらないと言う意味でも、特徴が浮かび上がる。櫂未知子は『12の現代俳人論』(角川学芸出版平成17年)で「能村登四郎論」を執筆し、國學院時代の短歌を丹念に分析しているが、さらに時期を限ってはっきりと――特に昭和14年という、短歌から俳句に移行した直後において――、殆ど短歌と言ってよい俳句を詠んでいたことが確認できるのである。





2014年7月18日金曜日

(「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代 (1) /  筑紫磐井

(1)はじめに 

昭和40年代後半の沖における若手俳人の動向を書いて来たが、途中でふと気になりだしたことがある。昭和20年代には能村登四郎自身が馬酔木において若手作家として活動をしていた。登四郎にとってみれば、自身の昭和20年代の青春と、昭和40年代後半の弟子たちの青春とをどのような思いで比較していたのだろうか。自身を見る目と、他を見る目を比べてみると、戦後俳句の、移り変わったものと変わらないものとの違いが浮かびだしてくるのではなかろうか。

前の連載で、「沖」創刊早々の能村登四郎の青年作家に寄せる言葉を紹介したが、青春俳句はかくあるべきという変わらない思いと、一方で、実際の青年作家たちのギャップに当惑している登四郎がまざまざと浮かんでくる。登四郎の内心を考察するには、登四郎自身の青春時代をまず知らねばならないだろう。例えば、妙な言い方だが、昭和40年代後半の弟子たちの打算・戦略と、能村登四郎ら昭和20年代後半の作家たちの打算・戦略とを比較しなければ、両世代の作家としての動向を比較はできないはずだ。

ただ、こんなことに関心を持つのは、当時の「沖」の若手作家の中ではせいぜい私ぐらいであった、なにしろ皆は自分のこと(俳句)に夢中であったから。したがって、後日、「若き日の登四郎」「処女句集研究」という連載で登四郎の初期作品を細かく分析した作家論を書いたのだが、(編集長の林翔以外)およそ反応はなかったようである。しかし、こうした作家個人に注目した研究は、時代を理解する上で必須だと思う。そして同時に、能村登四郎の青年時代を研究するということは、藤田湘子をはじめとした馬酔木系の有名無名の青年作家(当時いずれも無名であり、その後結果的に有名になったに過ぎず、当時は誰も彼も無名でありながら、野心に満ちていたはずである)を研究するということである。そうした集団の歴史というのはなかなか研究する機会がないに違いない。

ここでは、能村登四郎のたどった俳壇的生活を能村登四郎の目から見て描いてみたいと思う。

    *

能村登四郎は昭和14年から「馬酔木」に俳句を投稿したといわれている(これが間違いであることは次回述べたい)。28歳であり、当時若い作家がたくさんいたから晩稲(おくて)であるといわねばならない。国学院大学在学中には同人誌で短歌を発表していたが、卒業後はそうした文芸からしばらく離れ、千葉の中学の教師として変化のない生活を送っていた。こうした中で俳句を始める。

当時の馬酔木の状況は、ちょうど加藤楸邨、石田波郷が活躍し、山口誓子が同人参加をして深青集という連作俳句の投稿欄を持っていた時期であった。昭和7年に「馬酔木」がホトトギスから独立してその存亡を危ぶまれた時期からだいぶ落ち着きを得、一方改造社から昭和9年に創刊された「俳句研究」が順調に俳壇をリードして、いわゆる新興俳句と草田男・楸邨・波郷ら人間探究派が脚光を浴びた時期で、これを受けて「馬酔木」は最も華やかな時代であったのだ。特にその直後、波郷は「鶴」(昭和12年9月創刊)を、楸邨は「寒雷」(昭和15年10月創刊)を創刊していたから、登四郎の新人時代とは俳句が希望に満ちあふれていた時代ではなかったかと思われる。

しかし、時代的には、既に昭和12年支那事変(日中戦争)が始まっていたし、直後の昭和16年から大東亜戦争(太平洋戦争)が始まるわけであるから、正確には光と影の交錯した時代であった。

「馬酔木」にも「俳句研究」にも、やがて戦時の風が吹きこみ始める。「馬酔木」には<聖戦俳句抄>が設けられ、「俳句研究」には<支那事変三千句>等の特集記事が出てくる。「馬酔木」作家からも、小島昌勝、相馬遷子、石田波郷らのように従軍して行く作家たちが続出した。いや何よりも、紙の配給制限からみるみる雑誌の頁数が薄くなり粗悪な資質となっていった。やがて、昭和15年には新興俳句系の「京大俳句」「広場」「上土」の俳人たちが治安維持法違反で逮捕されるという弾圧が行われるのである。

昭和16年から20年の休刊まで、この薄い雑誌に登四郎はささやかな市井の営みを詠った俳句を発表し続ける。