2016年12月9日金曜日

<座談会からの発言記録>「Es」第29号<光の繭>「特集・ジャンルを超えて」震災後の言葉の行方~詩・俳句・短歌における表現の可能性をめぐって






震災後の言葉の行方~詩・俳句・短歌における表現の可能性をめぐって
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2016年9月30日金曜日

【記録】私的な第一回姨捨俳句大賞記録「久保純夫と杉山久子」――「理解されてたまるか」 / 筑紫磐井




  • 姨捨俳句大賞の趣旨

9月17日、芭蕉ゆかりの信州更科で、新発足した第一回姨捨俳句大賞が久保純夫と杉山久子で争われた。結果は、速報した通り杉山久子の受賞となった。今後永続する賞の第1回だけに価値は高いだろう。

通常、賞は結果だけが残る。選考の過程であった論争は消え去ってしまい、受賞者の一覧表だけが残る。しかしそれだけでよいのだろうか。受賞の過程での論争こそが重要なのではないか。受賞の論争の中で新しい俳句の認識、歴史が生まれて来てこそ意味のある賞といえるのではないか。

33回続いた(昭和58年発足、地方の主催としては数少ない、歴史のある俳句大会であろう)信州さらしなおばすて観月祭全国俳句大会を強化するために設けられたこの俳句大賞とは、「明日の俳句を切り開く気鋭の俳人の句集」を顕彰するものとして、公開審査、選考方法等様々な趣向が凝らされた。全国200人の俳人から推薦を受けたリストの中から、選者3人が2冊の句集を選んだもので、重複1点、その後の辞退者1人がいたためこうした俳句賞としてはやや少ない4点が残った。

注意しておきたいことは、この賞にあっては、予選を通過したということが十分顕彰に値する句集であったということだ。3人の選考委員が特殊な傾向を持っていたり、自分の結社に肩入れをするようであれば問題であるが、今回それはなかったと確信をもって言える。それぞれの価値観は異なるところもあるが、自分たちの信念で選んだ意味では立派な選考であったと思う。受賞に躊躇のあるものは候補にすら上がらなかったはずだからである。逆になぜこんな句集を上げたのかという選考委員同士での批判も辛らつにあった。



  • 予選作品の紹介

予選で選ばれたのは4冊であり、通常の俳句賞とくらべるとかなり数の少ない候補作品である。その意味では、予選に残ること自身狭き門であったし、密度の高い選考が行われたと思う。また、主催者もかなり気を使い、事前に候補者を紹介したり、受賞決定後も壇上で紹介したり、受賞できなかった候補者と、受賞者、選考委員と懇談の場を設けて存分に不満が言える機会も作ったが、今回の候補者は人格円満であったせいか、あまりつるし上げの場はなかったようである。選考委員の一人としては、びくびくものであったのだが。

予選作品を紹介しておこう。アイウエオ順である。


①久保純夫 『日本文化私観』(2015年10月飯塚書店刊)

【略歴】

1949年大阪府生まれ。71年鈴木六林男「花曜」入会、2006年「光芒」創刊、2013年「儒艮」創刊。1986年六人の会賞、1993年現代俳句協会賞受賞。句集に『熊野集』『比翼連理』『光悦』など。評論集『スワンの不安』。所属「儒艮」、現代俳句協会員。

【作品と概要】

論点は最終選考の次節で述べる。

自選句から
「犯されている眼差の桜鯛」
「砂丘からときどき蝶を掘り出せり」
「絶倫の湧き立っている白牡丹」
「生き腐れして向日葵が立っている」
「少年の白きスーツや日雷」
「放蕩の淵を動かぬ花筏」
「烏瓜孤高というがぶらぶらし」
「放屁する女愛しき吾亦紅」
「純愛を開いてみれば黒海鼠」。


②杉山久子 『泉』(2015年9月ふらんす堂刊)

【略歴】

1966年山口県生まれ。1989年から句作開始。2006年芝不器男俳句新人賞受賞。句集に『春の柩』『鳥と歩く』など。所属「藍生」「いつき組」「ku+」、俳人協会会員。

【作品と概要】

論点は最終選考の次節で述べる。

自選句から
「白南風や鳥に生まれて鳥を追ひ」
「人間を映して閉づる兎の眼」
「わが杖となる木に雪の記憶あり」
「ラブホテルある日土筆にかこまるる」
「日輪や切れてはげしき蜥蜴の尾」
「人悼む白シャツにかすかなフリル」
「花吹雪先ゆく人をつつみけり」。



③椿屋実梛 『ワンルーム白書』(2015年9月邑書林刊)

【略歴】

1979年生まれ。予選通過者では最年少。2005年「河」入会。2015年「河」を退会し無所属。俳人協会会員。

【作品と概要】

筑紫は、「ヤクルトレディ祖国を少し語る秋」を激賞したが、仲はその句はよいと思ったが、一連で見ると「汗ばんでヤクルトレディがやってくる」にがっかりしたと述べた。平均点はまだ甘いということがほかの選者の感想であった。


④矢野玲奈 『森を離れて』(2015年7月角川書店刊)

【略歴】

1975年東京生まれ。2005年「玉藻」入会、2008年「天為」入会。句集『新撰21』。所属俳人協会会員。

【作品と概要】

『新撰21』に載った「明るさは私のとりえ秋刀魚焼く」を小澤はよしとし、筑紫はキャピキャピしすぎているといった。しかし小澤は『新撰21』で見た「かつぽれの膝の高きに夏兆す」をことさら削った選に不満を感じていると述べた。後の席でやはり多くの人の選を受ける影響がいい意味でもわるい意味でもこの句集ににじみ出ているようだった。




  • 最終選考

さてこの4編の作品から投票で最終選考作品が選ばれた。しかしその選考方法はほかの俳句賞と少し変わっており、点数制を取っているものの点数はほとんど意味がなく、各選者がたった一人を選んでその人が受賞するかどうかを決めるというものに近かった。

選者の選び方によって全員が1人を選べばその瞬間に受賞者が決まる、選考も何もないかもしれない。また3人それぞれが別の人を押せば、4人の中の一人が落ちて、3つを延々と論争しあうことになる。そして、2人が1つの句集を押せば、2対1で対立しあうことになる。今回はこの最後のケースとなった。

    *

最終選考作品は、投票の結果、久保純夫と杉山久子の2編となったが、結果的にはベテラン2人と新人2人の中でベテランが残った。こうした顔ぶれの中で、新人が残るのはなかなか厳しいものがあるが、かつて発足した当初の俳人協会賞が石川桂郎や西東三鬼などベテランばかりが受賞している中で突如これらをさておいて新人鷹羽狩行が受賞した(第5回)という例もあるから、主催者としてはそうしたことも期待していたかも知れない。本当は二人受賞、或いは本賞と新人賞の授与という考え方もあったろうが主催者からそれは禁じられていたので最終選考は落ちたが、私や仲としては矢野も椿屋も新人賞を受賞したようなものではないかと感じている。

   *

最終選考は、久保と杉山の対決となったが、対照的な句集であるだけに議論は伯仲した。

①久保純夫

伝統的な俳句とは違う、句集の構成――目次に「●●を眺めながら」とあるように、船越桂、酒井抱一、フェルメール、藤田嗣治、丸山応挙など洋の東西にわたり、古典的な作品からポップアート的な作品までの美術に触発された作品であるだけに、必ずしもすべての作品と触発の対応関係は見えないが、旗幟鮮明な作品であることは間違いない。これを推した小澤は自分にない俳句と見て強く魅力を感じたという。仲は、そうした魅力を感じるが、独りよがりすぎる点で躊躇されるとした。小澤と仲の論争で、私が小澤の推薦に明確に答えなかった点を不満と感じた仲が却って私を批判したが、小澤の主張も十分分かるので仲の立場に立った批判は行わなかった。私が思うのに、多かれ少なかれ3人とも、現在の俳句の風潮に対する挑戦という意味でポジティブに評価する点は共通していたが、ネガティブな点をどう評価するか、特にこれと対照的な杉山をどう見るかというのが論点であったように感じたのである。だから問題は杉山の評価の仕方であるように感じたのである。

②杉山久子

小澤は、杉山の直前の句集『鳥と歩く』であれば文句なしに推せたが、今回の句集でそれに何を加えられたか。特に、自分が角川俳句賞の選考をしている過程で杉山の影響を強く受けたと思われる若い作家の、安直な情緒と季語の配合で作る作品が増加しているのを見ており推せなかったという。「合歓ひらくさゝやくやうに逝くやうに」のように。例えば、「亀鳴くやかなしきものに袋とぢ」は杉山が読む必要のある句なのか疑問だといったが、これは仲寒蟬は悪い句ではないと応酬し、又仲は「露の世にたふれふすともハイヒール」を激賞したが小澤は分からないとした。私は、模倣作家がいるといっても、摸倣作家が悪くても、模倣された杉山が悪いわけではないし、逆に明らかに摸倣作家の摸倣の及ばない作品「深き深き森を抜けきて黒ビール」「白菫かたまり咲くをけふの糧」があり、そこにこそ杉山の独自性があると見るべきではないかと述べた。

結果的には、杉山には仲と小澤、久保には小澤が票を投じ、杉山の受賞と決まった。

私の考えたこと(1)

夏目漱石の『文学論』は興味深い文学論書である。選考の過程で私がふいにこの漱石の『文学論』のことを述べたのでよく理解できなかったかもしれない。ここで少し補足しておきたい。

漱石は誰でも知る、明治を代表する、鴎外と並ぶ文豪であり、子規門下の俳人としても多少は知られている。しかし本来漱石は、幼くして漢学を学び、大学で英文学を学んで英国留学し、その成果を大学教師時代に『文学評論』『文学論』の理論的著作としてまとめている文学研究者である。言っておくが、特にこの『文学論』は、欧米的な科学の基づきつつも、単に18世紀英国文学という狭小な領域にとどまらず、漢学、そして同時代の明治文学を視野に入れて書かれたユニークな著作なのである。だからあまり人は気が付いていないが、漱石の小説にもし最も大きな影響を与えた文学原理論があるとすれば、それは自らの『文学論』なのであった。考えれば当然のことである。

『文学論』について少し解説をすると、こうしたユニークな文学論を敷衍して後半ではさらに「文学史」がどのように生まれるかも考察している。いかにも通俗的な文学史に比べ漱石の『文学論』から導き出される文学史は実にユニークであり科学的である(文学が科学的であるというのは議論もあろうが私はそう感じた)。のみならず、この当時まだ生まれていなかった「近代俳句史」だが、漱石の『文学論』からは本邦初の近代俳句史を考えるヒントがうかがえるのである。そんなことを考えながら今回の審査に臨ませてもらった。

私の考えたこと(2)

漱石のスタンスは、文学に「不易」はないということである(少なくとも、古典となっていない、現代の作品については)。俳句だってそうである。では、文学に変化ないし不変化をもたらす原因は何かといえば、「倦怠」だという。長く続いた時代の好尚はそれが悪いのではなくて、時代が経過したから変わるというのだ。変わるべき内的必然性があるわけではない。だから前の時代の好尚が悪く劣っていて、後の時代の好尚が良くて優れているから変化するのではない。価値とは無関係に、時代が変わるから好尚も変わらざるを得ないと考える。

漱石はこのような文学の好尚を創り出す能力を、「摸倣」・「能才」・「天才」の3つに分けている。「摸倣」は時代の大多数を占める人々でありその時代の好尚に浸っている人々である。「能才」は自ら変な言葉であるとしながら、時代の好尚が変わるときに、敏感にそれを先取りし一歩先んじる人である。今日の言葉でいえばその分野の秀才と言えるかも知れない。当然模倣者に比べれば、その時代の少数者に過ぎない。さらに「天才」は圧倒的な少数者であり、時代の好尚を超えてしまっており、周囲からは一切評価されない人々である。それが時代の好尚を変えるのは彼が死んだ後かも知れない。しかし、能才を超えた画期的な時代を先取りした変化を生み出す。漱石が自らを能才と思ったか、天才と思ったかは興味深い。漱石を国民文学の作家と見る人は能才を評価するのだろう、しかし漱石に近代文学のおける文学者の孤独を見る人は天才性を見ているかも知れない。

私の考えたこと(3)

さてこの3つの能力を俳句史に当てはめてみると、「摸倣」は明らかに虚子が勧めたホトトギスの花鳥諷詠の徒であろう。これに対し「能才」の代表は中村草田男ではないかと思う。草田男は世の常天才といわれているが、漱石のいう「天才」ではない。漱石の定義に従えば、草田男はある時代に圧倒的影響力を持ったわけであるから、時代の好尚が変わったときに、敏感にそれを先取りし一歩先んじた人であるから能才である。では俳句史において「天才」とは誰であろうか。俳句において天才はいない。死後、再評価されるメカニズムが俳句というジャンルにはないからである。生前に名前を残した人だけが俳句史には残る。忘れられた人は永遠に忘れられたままである。

もちろんジャンルを変えれば「天才」いると思う。例えば詩における宮澤賢治である。生前の評価は低くても、死後不滅の名声を勝ち得ているからである。しかし俳句にはこうした人は殆どいないと思うのである。だから、若い俳人たちが(若くはない俳人たちも含めて)生前の名声を必死に求める理由も分からなくはないのである。

その意味では、杉山久子は小澤がいう通りであれば「能才」であろう。若い作家たちの時代の欲求を先取りしているからだ。私たちはこうした「能才」を評価しない手はないと思う。ただ、である。杉山久子に、若い作家たちが摸倣しかねている点があるとすれば、それはそこに「天才」の粉がまぶされているからではないか。それがどれほど完成するか分からない(成功率は1%かもしれないが)が、そうした「天才」に期待したいという気持ちもある。

これに比較して久保純夫は直球で「天才」に勝負しているように見える。立派なことには違いない。しかし、天才を拒絶する俳句という文学形式にあっては、何か戦略が必要なのではないか。

    *      *

俳句の神は意地悪である。詩や短歌の神は祈れば槍や矢をまっすぐ飛ばしてくれるが、俳句はブーメランのように戻ってくる武器で倒さねばならない、いや下手をすれば却って投げ手を倒しかねない恐れさえある。詩や短歌では「愛国」といえば間違いなく国を愛する意味になるが、俳句で「愛国」といえば居心地の悪いむずむずとしたアイロニカルな解釈が生まれる。これをねじ伏せるには戦略がいる。私が杉山に投じた一票は、こうした言語の本質的な戦略性も含まれているといってよいだろう。

若い人に薦めたいこと

結論を一言。誰も摸倣の徒になりたいとは思うまい。それでは次の問いである。若い人には、自分が「能才」になりたいのか、「天才」になりたいのか、考えて欲しいということである。自分が理解されないということは、俳句が文学であることの必須の要件であるように思う。理解されないから嘆くのではなく、理解されてたまるかの気概がこうした賞の評価であると思う。その意味では、久保純夫と杉山久子も、理解されてたまるかの気概に溢れた作家たちであった。

矢野や椿屋の課題があるとすればそんなところではなかったろうか。




2016年9月16日金曜日

【エッセイ】 「オルガン」第6号座談会の部分的な感想  /  筑紫磐井



このエッセイの本編に当たる記事は、「俳句通信WEP」の方で書いているが、「オルガン」第6号で「オルガンからの質問状」として金子兜太と鴇田智哉・田島健一・宮本佳世乃が座談会を行っている。今もって社会性に対する強い意識を持っている兜太と、対照的な立場に立つ「オルガン」メンバーのやりとりは刺激的であり、本編の方の議論と関係することもあるので、一部だけ紹介させて貰うこととする。


この座談会の中で、田島は、現在仲間と兜太の造型俳句論を読んでいるが、兜太の「造型論」をちゃんと理解して批判的に乗り越えていくんだというものは未だに出ていないといっている。座談会の中で再三述べているのでこれは田島の信念なのだろうが、問題が二つあると思う。

①は「造型論」をちゃんと理解している者がいないと言うこと、
②は造型論を批判的に乗り越えていくものが未だに出ていないということである。

慥かに、造型論を正しく理解している者がいるかどうかは、本人に聞いてみるのがいい。


金子筑紫磐井とか対馬康子は正確ですね。筑紫磐井の[造型俳句六章]の読み方は分析的ですね。読むのにくたびれちゃう。


読むのにくたびれてしまうのは、私や対馬の責任ではなくて、多分造型論自身が持っている本質的難解さだろう。本人は分り易く説明したつもりだろうが、田島が「「造型論」をちゃんと理解しているものがいない」というぐらい、やはり難解で読むのにくたびれてしまうのである。もちろんだから読む価値がないなどということは全然ない。

次に、造型論を正しく読んだあとで、「造型論を批判的に乗り越えていく」については、そもそも造型論つまり兜太を乗り越える必要があるかどうかからして疑問なのであり、兜太は乗り越えられるつもりは全然ないし、今の若い作家、特に「オルガン」の作家たちのやり方に迎合するつもりはないようである。


金子あんたがたの場合は日常性のなかで捉えようとしている。批評性とか主張性とか社会性とかいうことを日常性のなかに置こうとしている。これがちょっと食い足りない。それが俳句の弱さを作っている。もっとパンチを効かせてハツタリを効かせてもいいんじやないかということは思ったね。」

金子「さっき言った、社会性は態度の問題だと。イデオロギーも何も日常生活に消化しちやってその消化した状態のなかで出てくるものを書く、それが大事なんだと言い続けているんだけどね。そのことを理解してもらえると今あなたの言ったことはわかってもらえると思うんだけどね。日常生活に本当の意味で消化しちやっているような主張性がほしい。日常生活に消化するという努力をあまりしないで一種の教養としてあんたがたは俳句のなかで自分の主張、言いたいことを書いている、そんな印象ですね。

 「ハッタリ」は兜太独特の用語であり、真剣さとでも言いかえていいかも知れない。また、特に「一種の教養」は若い世代に対して痛烈な批評となっているように思える(田島の「考えていても書けない」という趣旨の発言に対して)。もちろんこれは兜太の勝手な科白であり、それが正しいとも、「オルガン」メンバーが間違っているとも思わない(むしろ、日常生活の中に昇華することは私も俳句で心掛けているところだ)。しかし、この座談会で、兜太が乗り越えられてなどいないことだけは慥かである。

私自身は兜太が何故乗り越えられなければならないかは分からない。つまりまだ田島に共感していないわけである。では、乗り越える必要がないとすれば何をすべきか。それについては、近く岩波書店から出る金子兜太/青木健編『いま、兜太は』に小論を送ったところなので、ちょっとここでは差し控えて予告に留めておく。ただ、当然のことながら同じ執筆者が書くのであるから、俳句通信WEPの記事とは無関係ではあり得ないだろう。





2016年8月26日金曜日

【エッセイ】  中山奈々とどのように出会ったか / 筑紫磐井



里の若手で構成する雑誌「しばかぶれ第1集」(平成27年11月)を入手したが、私の場合読むまで時間がかかる。別にもったいぶっているのではない、読んでも、読みとろうとする意欲が内心に湧くまで時間がかかる。直列的に読んで感想を抱くのではない、読む気になって自分の内部で枠組みが用意されて、そこから記事と対話しながら読み進んで行くことになる。


中山奈々への関心は、むしろ今回「俳句四季」で取り上げた「俳句文学館」の短い記事であった。その前に、「しばかぶれ」を読み、中山の大特集が組んであるのを見ても、俳句にもエッセイにも、他の人の中山論にも余り関心がなかった。やがて、「俳句文学館」を読んだが、それでも俳句にもエッセイにも、他の人の中山論にもまだ関心がなかった。しかし、〈自筆年表〉を読むにいたって唸った。


恐らく〈自筆年表〉は同世代作家の中でこんな凄い年表を書ける作家はいない、絶無であろう。――同世代作家と言ったが、自筆年表を書かせたとしても、中山より高齢者はますます自己を客観的に描写できる作家はいないから、むしろ、「およそ俳人では」こんな自筆年表を書ける作家はいない、といってよい。貴重な人材である。


これは、〈自筆年表〉をほめただけで、俳句もエッセイも貶していると受け取るかも知れないが、そうではない。中山に関心を持つ理由が〈自筆年表〉にある――そこから中山への関心が始まると言うことだ。若手への関心が男女の関係に似ているとすれば、先ず出会い――それが駅の待合いであれ、学食の隣の席であれ――が必要だと言うことなのである。関心がないと言うことは、ともかく致命的なことなのだ。「俳句文学館」の記事に即して言えば、俳壇大家は若手を欲してはいるが、個別若手俳人に関心がない、しかし、中山がいくら関心を持つ「べき」だと行っても、「べき」で関心は持てない。逆に関心がないからといって特定の俳句を誹謗するのも、また変なものである。「関心がない」は、「関心がない」だけで十分正当な理由なのだ。


 だから私の若い作家の出会いも、真っ正面からの俳句鑑賞からはあまりない。例えば、若手と言われる人々に注目したのは、

①御中虫の『俳コレ』評 
②西村麒麟の御中虫評 
③高山れおなの俳句の前書き 
④関悦史の広角打法(金子兜太に匹敵する社会性) 
⑤松本てふこの風俗出版産業論


俳人だから俳句で関心を持たれるべきだというのは昭和初期の4Sの古きよき時代のことだろう。人間探求派や新興俳句以降は、「俳句研究」等のジャーナリズムが関与したこともあり、俳句の本質以外の周辺に関心が拡散するようになった(もちろんそれが悪いこととは思わないが)。戦後は、角川書店の「俳句」のようなジャーナリズムや現代俳句協会・俳人協会のような集団が登場したことで、初期は社会性俳句・前衛俳句等の運動、その後は結社を媒体として作家への関心が持たれるようになった。長谷川櫂や田中裕明などの戦後生まれ作家はこの最後尾に属していると考える。では、現在の新世代はどうなのかと言えば、上にあげた5人のように俳句の最辺縁で際だたねばならない。最早、俳句自身でこの世代の差別化をすることは困難となっている。じっさい、俳句はあと2、30年後も存続することは保証されていない(私は近代における定型詩・ジャンルがどのようにして滅んできたかを研究しているが、近頃の俳句はそれらジャンル滅亡前の徴候が幾つか現われているように思えるのである)。俳句の最辺縁こそが僅かに希望にあふれている。このような中で中山は〈自筆年表〉に自分の居場所を発見したのである。それに私は関心を持ったということなのである。


もちろん出会ったからと言ってその後も私以外の人に注目が続いているわけではない。御中虫は事情があり自身俳句から離れていたようであるし、松本てふこは私が感心した傾向性からは遠ざかって行くようである。ただ、(私の)関心がないところにいても(私の)目に入ってこない。何も、立派なことを書くから関心を持つわけではない。関心はどこから湧き上がるかと言えば一種の恋愛感情のようなものである、きっかけがなければ関心の湧きようがないのである。


中山の場合は、〈自筆年表〉から始まって、「しばかぶれ」を読みなおしてみたのだが、エッセイは〈自筆年表〉と守備範囲が重なることもあって、〈自筆年表〉を超えるショックは受けなかった。〈自筆年表〉があって生きてくるエッセイなのだ。何と言っても、〈自筆年表〉が凄すぎるのである。


では、俳句は。俳句は、新作があり、また佐藤文香が旧作100句選を行っているのだが、同世代が同世代の選を行っている強みと弱みが出ているように感じた。新作・旧作の順に見てみる。



保育器に差し込む腕や小鳥来る 
援軍の家紋に秋の蝶よろよろ 
板前の小さき会釈寒椿 
ライ麦パン胡桃パン雪深くあり


鵙一羽とは思へざる声を上げ 
絆創膏外す大きな春の夢 
自画像にむらさき使ふ水の春 
虚子の忌や淡路島までしか見えず 
生理痛きつい日パセリまぶしい日


石田波郷に匹敵するのはまだこれぐらいではないか。もちろん新人を脱して「平成29年の俳句界」に登場しても悪くはない。なにしろ、あの〈自筆年表〉の執筆者であるのだから。

2016年6月10日金曜日

【エッセイ】 「文学」・文学部がなくなったあと / 筑紫磐井



1.「文学」のこと

岩波書店の「文学」が本年末の11・12月号をもって休刊するそうである。つい近年も堀切実氏の現代俳句に関する論文が載っていたので、こうした場もなくなると思うといささか寂しいものがある。
国文学関係ではこのほかにも、すでに「国文学―解釈と鑑賞―」が至文堂からぎょうせいを経て休刊、「国文学―解釈と教材の研究―」が学灯社で休刊となっている。(俳句関係で、一時期「俳句とエッセイ」「俳句朝日」「俳句研究」立て続けに休刊となったことを思い出す)

分厚い専門書と違って、様々な切り口からトピカルな話題が満載されていて、不謹慎だが、週刊誌を読むような面白さがあった。以前、評論執筆に当たりずいぶん利用させていただいたし、特に後者については、愛読しているころは思ってもいなかったことだが、自分自身が執筆する機会まで何回か得た。

ここから連想するのが「文学」の運命だ。

2.文学部のこと

さて文部省では、大学の機能の再構築のために大学のガバナンスの充実・強化が求められたとして近年大改革を進めている。「大学改革実行プラン」(平成24年6月文部科学省)、「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて」(平成24年8月28日中央教育審議会)などだ。
国立大学の機能強化は全分野に対するものだが、従来から、人文社会科学系の細分化・蛸壷化による国内外を通じた閉鎖性、現実的課題への対応、が指摘されており、中央教育審議会答申では、特に人文社会科学系学部・大学院の教育について、

①授業内容が体系的に編成されていない、
②博士課程修了者の多様なキャリアパスが確立していない、
③標準修業年限内の学位授与率が低い

などの課題が指摘され今回の改革も人文社会科学系学部の見直しが特に取り上げられているとされる。

 このことから当局の「文学部廃止」というセンセーショナルな見出しが新聞でも踊ったこともあり、文部省では次のような説明を行った。

この点に関して、一般に、「人文社会科学系学部・大学院を廃止し、社会的要請の高い『自然科学系』分野に転換すべきというメッセージだ」、「文部科学省は人文社会科学系の学問は重要ではない」として、「すぐに役立つ実学のみを重視しようとしている」「文部科学省は、国立大学に人文社会科学系の学問は不要と考えている」との受け止めがある。果たしてそうなのかと問われれば、いずれもノーである。 
すなわち、文部科学省は、人文社会科学系などの特定の学問分野を軽視したり、すぐに役立つ実学のみを重視していたりはしない。人文社会科学系の各学問分野は、人間の営みや様々な社会事象の省察、人間の精神生活の基盤の構築や質の向上、社会の価値観に対する省察や社会事象の正確な分析などにおいて重要な役割を担っている。 
また、社会の変化が激しく正解のない問題に主体的に取り組みながら解を見いだす力が必要な時代において、教養教育やリベラルアーツにより培われる汎用的な能力の重要性はむしろ高まっている。すぐに役立つ知識や技能のみでは、陳腐化するスピードも速いと言えるだろう。」「先般の通知において、全ての組織の見直しを求める中で特に教員養成大学・学部や人文社会科学系を取り上げているのは、このような課題を踏まえ、教育の面から改善の余地が大きいと考えているためである。「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」とは、例えば、いわゆる「新課程」を廃止するとともに、その学内資源を活用して、学生が生涯にわたって社会で活躍するために必要となる能力を身に付けることのできる教育を行う新たな教育組織を設置すること等を想定している。
(「新時代を見据えた国立大学改革」(平成27年9月18日日本学術会議幹事会における文部科学省説明資料)より)

しかし、やはり、「古き良き文学部」が残ることは難しいようだ(文部科学大臣決定を受け、関連する学部のある国立大学のうち、8割以上の大学が人文科学系や社会科学系の学部の見直しを予定していると言われる)。

3.文学雑誌がなくなること・文学部がなくなること

 文学雑誌がなくなること・文学部がなくなることが、「文学」がなくなることを意味するものではないのはもちろんである。文学研究の発表媒体が変わること、論文作成者――文学研究者の生活基盤が変わること(多くを依存している、国費である文部科学省の科学研究費の応募要領が変わってゆくこと、国立大学の職員の雇用条件)、それを踏まえて学会(俳句関連のものとしては俳文学会であろうか)が変質することが遠い将来はあるかもしれないが、だからと言って直接「文学」そのものが変質するわけではない。

    *

そもそも、研究活動である文学研究と、創作活動である文学創作が同じ「文学」で語られていること自身が誤解を生みやすいのだろう。もっともこれは、文学に限らす医学(医学研究と治療行為)、法学(法学研究と裁判所における訴訟活動)のように、社会通念上も境目がはっきりしないものもある。

それはそれとして、次の問題は、文学はいかにあるべきかという理念論と、実際の出版業を前提とした現象論とは全く違うことだ。文学研究と文学創作活動が異なるかだけでなく、文学研究現象と創作活動現象の違いにまで落とさないと、上述の問題もよくわからないのである。

理念論では「作者」や「読者」がしばしば出てくるが、逆にそこでは決して出てこない現象活動のアクターがある。

文学研究現象にかかわるのは、大部分の大学研究者と一部評論家であろう。

創作活動現象は俳人である我々自身だ。

文学研究現象が影響を受けても、創作活動現象はそれから独立している。いや、歴史的には創作活動現象のあとを文学研究現象が追いかけるのが普通だろう。

(むしろ近年言われているのは、この二つの現象が乖離し、特に文学研究現象が専門家集団(学会)の中で閉ざされている傾向であろう。この限りにおいて、文科省の見解もわからなくはない。)

   *

文学雑誌がなくなること・文学部がなくなることを所与の条件として考えるとどんな時代が来るのだろうか。

正岡子規が、文学研究における、帝国大学(東京大学)と東京専門学校(早稲田大学)の比較をしている。記憶にある限りでは、学生の質などはともかく、学問領域が違っていることを漠然と指摘していた記憶がある。確かに、東京大学は国学系の歴史を踏まえて記紀や万葉集、早稲田大学は近世文学とすみ分けをしているようだ。俳文学会の名簿を見ても、会員に国立大学教員は少ないようである。

文学部がなくなるということはすべての文学部がなくなるわけではないだろう。国立大学の改革プランだからだ。文学部における国立大学の地位の低下と、私立大学のウエイトの高まりが待っているような気がする。したがって、おのずと東大系の研究テーマから、早稲田系の研究テーマへシフトするとすれば、俳句文学にとってネガティブな結論ばかりではないようである。(以上は極めて大づかみな、早い意味、家計の議論の際に国民経済分析を持ち込むような議論であるが)

また、最も知的な活動ですら下部構造に支えられてそのパラダイムは決まっていく。旧レジームが作り出したものが現在の研究費の要領や領域だとすれば、新レジームは長い時間をかけて次第にそれらを作り変えてゆく。文学研究現象が文部科学省の言うように、タコツボの中で作り出したテーだとすれば、上記の変動・改革の中で、創作活動現象に接近せざるを得ない。芭蕉・蕪村の詳細・微細な研究から、やがてもっと現実社会や実践に即した、花鳥諷詠や造型俳句の研究こそが未来の研究として登場するのではなかろうか。


2016年5月27日金曜日

【エッセイ】 「里」2月号 島田牙城「波多野爽波の矜持」を読んで  /  筑紫磐井




「里」2月号(5月はじめに届く)で島田牙城が「波多野爽波の矜持」を載せている。
2016年4月30日の大阪俳句史研究会での講演である。傑作である。


    *
とはいえ、まず、何故、4月30日の講演が2月号に載るのか、不思議である。

それが何とか説明がついたとしても、さらに、4月30日の講演が、5月に私がエッセイを書く時点で手元にあるというのも不思議である。

前者は、雑誌の発行慣習上の問題。後者は、講演する前からほとんど原稿ができあがっておりそれを遮二無二雑誌に間に合わせたという編集努力の問題である。

いずれにしろ、本論には関係のない話であるがいっておきたい。

   *

講演の内容は牙城が師事した爽波の思い出である。

私が牙城と知り合ったのは、「寒雷」の関係者の席であり、当時牙城は加藤楸邨の「寒雷」に投句もしていたから、爽波との関係はよく知らなかった。余程後になって、牙城は爽波に師事し、のみならず「青」の編集長までしていたと言うことで驚いたのである。私のように「馬酔木」→「沖」というのは何の不思議もないが余り面白みがない、しかし牙城の「青」⇔「寒雷」というぶれは正直理解できないに二物衝撃だった。何と言ったって、「青」と「寒雷」は文学原理が全然違う、実相観入と俳句スポーツ説。ただその後牙城をある程度知って、彼の俳句活動を因数分解すると、まっとうで保守的な俳句は「青」、過激な評論と出版企画は「寒雷」という二つの遺伝子が影響していると理解することは出来た。

この講演は、その最初の牙城の出自を知る上でも面白かったと思う。

私が爽波を知ったのは、牙城を知ったずっと後であったから、師匠と弟子の順番は逆になっている。私が『野干』という変わった句集を出した後で爽波の知遇を得たのだが、爽波自身は、「青」で育成した若手たち(田中裕明、岸本尚毅、中岡毅雄という錚々たる顔ぶれ)と、俳壇ジャーナリズムで爽波が寵児となりしばしば東京へ出てきてあう若手(中原道夫とか)ではやはりちょっと人種が違う感じがした。爽波の本来の基準が「青」の若手たちとすれば、東京で会っていた若手たちはかなり外周にいる人たちであったろう。私はその意味で、小乗派と大乗派と呼んでみている。

そんな周辺から見ていると、爽波の本質が、岸本や田中が語っているのと少しずれて見えるのは、宗派仏教の違いからいってしょうがないかも知れない。

虚子の戦後俳句の基準を見てみると、高野素十・星野立子・京極杞陽というビッグスリーに尽きていると考えている。これはこの秋に出る予定の「虚子研究」に載せている。そしてこの3人は、(句の選び方にもよるが)ほとんどホトトギスの前衛派と言うにふさわしい破壊力を持っている。虚子から出ていながら、虚子を超えてしまっている(もちろん虚子自身もときどき虚子を超えてしまっているのだが)。

牙城の語る爽波はこうした3人に共通する前衛的保守性、原理主義的進歩性を持っているように思うのである。午前0時というか、午後12時というかは呼び方の違いにしか過ぎない。名称などはどうでもよいのであって、しんしんたる深夜に変わりはない。牙城の講演にはこうした爽波の覚悟がほとばしっているように思うのである。



※詳しくは「里」2月号をお読み下さい。

「里」の購入は邑書林サイトにて 

2016年5月13日金曜日

【川名大論争】 アーカイブversion1 追補 <岡崎万寿「川名大論文への一つの疑問」(文学の森刊『転換の時代の俳句力』より転載)>



【目次】

(承前)
①筑紫磐井「問題ある表現史」(ウエップ刊『戦後俳句の探求』より転載)
②筑紫磐井「八月の記憶」(「俳句新空間」第4号より転載)



(追加)
③岡崎万寿「川名大論文への一つの疑問」(文学の森刊『転換の時代の俳句力』より転載)

****

●「川名大論文への一つの疑問」  (文学の森刊『転換の時代の俳句力』より転載) 岡崎万寿

 「戦後俳句の検証」と題する、川名大氏の「海程」連載(平22・1月号~平23・2、3月合併号)十二回が終わった。

 川名氏は戦中の新興俳句運動を中心に、近・現代俳句史の研究者・評論家としてよく知られている。その論考は丹念にデータに当たった実証性があり、ポジィティブな論旨で、これまで私自身も、学ぶことが多かった。その基本は、今回の連載でも同様である。

 ただここで、戦後俳句のリアリズムについて考える上で、見過ごせない一つの論点を、疑問として挙げておきたい。それは戦後俳句の中で、すでに名句、秀句として定評のある次の三句まで、「予定調和の発想、予定作意(イデオロギー)を前提とするまやかしが潜んでいるのではないか」「この句の読みと評価の書きかえを求めるゆえんである」と、厳しく否定的な評価をしている点である。

   戦後の空へ青蔦死木の丈に充つ     原子公平
   白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘へ   古沢太穂
   原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ  金子兜太

もちろん戦後俳句の主要な流れの、いわゆる社会性俳句は、敗戦後の混沌と民主化へのエネルギーが錯綜する中で、俳句で時代を詠み人間の自由を表現しようとする運動であったが、俳句表現の上での実りは乏しかった。川名氏が指摘するように「素材主義、散文的表現、左翼的観念の予定調和などの負性作品を量産した」ことは、その通りである。

だから、そうした素朴リアリズムから真のリアリズム俳句を追求する方法的な努力が、金子兜太をはじめ同世代の戦後派俳人たちによって推進され、兜太の造型俳句論という到達点があった。俳論の上でも、実作の上でも、俳句における社会性の地平を開拓した意義は、否定できない。川名大論文も、作品評価の上での違いはあるが、その点ではおおよそ一致している。

 では、先の川名大論文の予定調和説のどこに問題があるのか。まず原子公平の句〈戦後の空へ青蔦死木の丈に充つ〉から見てみよう。この句は敗戦直後の昭和二十一年の作。当時、原子が住んでいた東京・本郷近くの、焼け残ったアパート周辺の実景を見て、その青蔦の旺盛な生命力に感動して作った句である。学生の頃から原子と親交があり、そのアパートを頻繁に訪れていた金子兜太は、『今日の俳句』一(昭40刊)『わが戦後俳句史』(昭60刊)の中で、その作句の背景や原子の心境について、実にリアルに詳しく書き述べている。


 「松葉杖をついた原子が、夏の日を浴びて、アパートの近所の被爆の大木を見上げている様子がすぐ浮かびます。その死木と化した大木に重なるように巻きついた蔦の青葉が、生命(いのち)の旺盛な蘇りを明示している。原子は元気づけられ、自分の生を確実なものたらしめようとおもっている」(『わが戦後俳句史』)


 「ベつに作者は、具体的にこれこれしかじかの希望を青蔦によって示そうとしたのではない。ただ、なんとも壮観なこの生命力に感銘して、希望への意思を吐露したまでなのである」
「基本は、その感銘それ自体である。だから、私たちの胸のどこかにドスッとくる」(「今日の俳句」)

 全く自然に、この句の背景が見え、作者の感銘が伝わってくる。川名氏の、ある「理念(イデオロギー)が前提」となって作ったとする、予定調和説が根拠がないことは、これで十分だと思うが、もう一人だけ、作品それ自体から、この句を「戦後秀句」の一つに挙げ、原子公平の代表作として評価している俳人(新興俳句系)・平畑静塔の鑑賞を紹介しておこう。

「『戦後の空』といっても、もうはっきりとその面影の通じぬ人も多い。なお梢が焦げたまま突っ立つ巨木の空が、青く晴れわたればわたるほどに、地上が惨めに映った戦乱敗亡の空である。……青蔦は死木にからみ、その死木のかつての日の至高をはっきり示すいただきまで登りつめ、さらには不変の青空にまで伸びようとする不逞の強さを示している。戦後のたくましく新しい生命は、別に存在した。新しくたくましく地にはびこり、まことに有為転変をさだかに見せている光景なのである」 
(『戦後秀句Ⅱ』平畑静塔)

 その通り原子の句は、敗戦直後という、体験者でないとその実感が湧かないほどの瓦礫の廃墟の中で、逞しいいのちのエネルギーヘの生の感銘が、作句のモチーフとなっている。新旧交代といった理屈が先走った作品では、決してない。ところが川名大論文は、この名句について、証明らしい証明もなしにこう断定する。

 「この句は戦後の新たな民主社会の誕生という理念(イデオロギー)が前提として存在し、死木の頂上まで這い上る青蔦を当てはめることでそれを表わそうとした予定調和の句であろう。……(中村草田男の句と)共にイデオロギーに盲いた発想、作り方という点では軌を一にしている」 
(「海程」平22・6月号)

 これだけで、川名氏の真意を理解できる人がいるだろうか。川名氏は「この句は戦後の新たな民主社会の誕生という理念(イデオロギー)が前提として存在」するというが、戦後わずか一年、まだ新憲法も施行(昭22・5)されない、「食糧メーデー」など国民が飢餓と貧窮にあえいでいた夏である。体系的な思想をもった一部の人びとは別として、みんな生きることで精一杯だった。つまり、イデオロギー以前である。原子もその一人だったことは問違いない。

 川名氏が、この主張をあえて通そうと言うなら、原子が当時、俳句づくりの「前提」とするほどの、またそれに「盲いた発想」をするはどの確たる(イデオロギー)の持ち主であったことを、立証しなければならない。金子兜太の先の二冊の本を見ても、そんな話題は皆無である。

 実証性で定評のある川名氏が、どうして本連載でくどいほど(この種の予定調和説は、「海程」平22・6月号から11月号まで、連載5回にわたる)、こんな恣意ともいえる主張をされるのか。私には、疑問である。

 加えて、もう一つ疑問がある。私の手元にある現代俳句協会創立五十周年記念特大号「現代俳句」(平9・7月号)を開くと、メインの一つに「戦後五十年を振り返る」という、座談会が掲載されている。メンバーは佐藤鬼房、原子公平、阿部完市、川名大の四氏。司会は森田緑郎氏。面白い企画である。そこで注日したのは、その中で「社会性俳句のあり方と評価」にかかわる川名大氏の発言である。少し長くなるが資料的に重要なので、そのまま紹介する。

 「作品で見てゆきますと、昭和二十年代の初期から優れた社会性俳句が沢山作られているんですね。例えば、昭和二十年の 

   いつせいに柱の燃ゆる都かな 三橋敏雄 

は、追体験で東京大空襲を詠んだものですが、時代を捉えるとともに、時代を越えた普遍的な作品になっている。 

   かなしきかな性病院の煙突し 鈴木六林男 
   戦後の空へ青蔦死木の丈に満つ  原子公平 
   原爆地子がかげろふに消えゆけり  石原八東 

 『原爆地』の句などは、比較的早い時期に原爆を詠んだ作品だろうと思いますね。佐藤鬼房先生の句で印象的なのは、昭和二十七年の、 

   縄とびの寒暮いたみし馬車通る  佐藤鬼房 

等です。これも広い意味での社会性俳句の中に入るような作品です」


 「むしろ、作品の評価として大事なのは、単なる社会性現象として素材が浮き上った、作品の形象化という而で不充分であったものと、作品の形象化ということで優れたものとを見極めて、社会性俳句には、こういうマイナス面もあったけれども、優れた作品もあった。そこに社会性俳句の意義というのを認めていくことだと思います。先程申し上げたような句は、社会性俳句の歴史に残る作品だとするべきだと思うんです」

 以上、川名氏らしいポジティブな基調で、作品評価の点を重視した発言は、妥当であると思う。ここでは原子公平の〈戦後の空へ青蔦死木の丈に充つ〉という作品が「優れた社会性俳句」の数少ない一つに挙げられ、「社会性俳句の歴史に残る作品だとするべきだ」とまで、明確に発言されている。前述の予定調和説で、この句をオール否定される主張の影もない。つまり、一八〇度違うのである。

 この座談会は平成九年に行われたもので、その後、いつ、なぜ、この句の積極評価の主張が変わったのか。この問に出版された『俳句は文学でありたい』(平17刊)、『挑発する俳句 癒す俳句』(平22刊)などを調べてみたが、その形跡もない。そうなると、この問題は川名大氏の俳句評論家としてのあり方にかかわってくることになるのだが――。やはり、疑問としか言いようがないのである。

 ではなぜ、こうした我田引水としか思えない主張をされるのか。連載をよく読むと、この予定調和説は、論の組み立て自体に、作品評価を恣意的に歪める問題があるようだ。簡単に、その問題点を列記しておこう。

①川名氏の予定調和説は、一般に、その論理の筋が見えすぎる程度の、いわゆる予定調和とは違って、作品評価にあたって、まず最初に、「左翼イデオロギー」「左翼的観念」とか、「戦後イデオロギー」「固定観念」とかの、特定イデオロギー(理念)が、句作りの「前提」「先入主」として、ばっちり「存在」するところから始まる。そんな大袈裟で漠とした「観念」から作句を始める俳人が、どれほどいるだろうか。

②そして、そのイデオロギー的「前提」を柱にして、フレーズをそれに「なぞり」「当てはめ」「肉付けするコード」として、五七五の言葉が表現されるそうだ。ややこしい。そこでは作者の胸を打つ感覚、感動も、新鮮な発見もモチーフも、その表現の工夫も、単なるイデオロギーのための「符丁」となり、「作意」や「仕掛けた表現意図」に「奉仕する」ものとして、みじめに歪曲されてしまうのである。

③こうして川名氏の予定諞和説がまかり通り、戦後の長い年月、多くの俳人たちに口誦され、愛されてきた社会性の名句、秀句、佳句の数々が撫で切りにされる結果となる。公平、太穂、兜太の他にも鈴木六林男、沢木欣一、佐藤鬼房などの作品が俎上にのぼる。その問題が「いわゆる社会性俳句の最大の負性」と言うことだ。


 その上、それらの俳句を予定調和の句と詠めない俳人は、「仕掛けた表現意図にまんまと嵌まって、予定調和の表現になっていることに盲目だ」「表現史に盲いているのだ」と、厳しく指摘されるのである。尊敬する川名氏が、まさかと思うが、論文の文意は、やはりそうなっている。私は俳句作品の評価の基準というなら、川名氏が現俳協五十周年記念号の座談会で発言され、先に引用した、「作品の形象化」という点で優れたものと、不充分なものとを、見分けることの重要性については、まったく賛成であり、それに尽きるのではないかと思っている。

 先に挙げた原子公平の「戦後の空へーー」につづいて、川名氏が予定調和の悪しき例として挙げている古沢太穂の〈白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘〉の句も、金子兜太の〈原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ〉の句も、それぞれに時代のかかえる問題に真正面から切り込んだ、いわば傾向性を持つ社会性俳句である。そこで川名氏が問うべきは「作品の形象化」という点で成功しているか、否かではないか、二つの句ともそれによって評価の分かれる作品であるからである。
 それは兜太が、常々教えているところでもある。思想は当然、俳句でも詠める。いや詠むべきである。しかし思想を露出させては詩にならない、そのためには「思想の生活化」「肉体化」、つまり思想を日常の暮らしに溶け込ませ、そこから俳句を立ち上げよ。表現を練り上げ、作品の詩的形象化をはかれ、と。

 いうまでもなく、この太穂の句、兜太の句を秀句、名句と思う多くの俳人は、この「作品の形象化」という点でも、戦後という時代を生き生きと映像化、形象化した作品と見る。太穂の〈白蓮白シャツ彼我ひるがえり〉という清潔な健康感や能動的な意思の明るさをもつ表現に、心はずむ詩を感じている。また兜太の「蟹かつかつと瓦礫あゆむ」という小動物の鮮やかな映像は、非核へのイメージ力十分で、「原爆許すまじ」という被爆国民の祈りにも似た言葉と呼応して、いまでもその時代の息吹きを感じさせてくれる。

 結論的に言えば、公平、太穂、兜太の掲句は、問違いなく実景、実感、実体験から発想したリアリズムの作品である。それを予定調和説なるものをもって、味気ない非リアリズムの観念句の芥箱へ捨ててはならない。この「予定調和」なる篩にかければ、社会性俳句の残しておきたい他の秀句、佳句の多くが、同じ観念句の芥箱行きとされるだろう。

 以上、原子公平、古沢太穂、金了兜太の三句を中心に、あえてそこに問題を絞って、戦後の社会性俳句の評価をめぐる、川名大論文の「予定調和」説という疑問だらけの主張を批評してきた。戦後俳句と、その基底にあるリアリズムが真っ当に検証され、評価され、継承されることを願うからである。行論と紙数の都合で、本連載での川名大論文の積極面について、具体的に書けなかったことを残念に思っている。



【参考】

岡崎万寿著『転換の時代の俳句力――金子兜太の存在』平成27年8月15日文学の森刊。定価1600円+税。


2016年5月6日金曜日

【エッセイ】 卒業・仰げば尊し  / 筑紫磐井


卒業

BLOG「俳句新空間」では現在「卒業帖」が進行中である。甲南大学の川嶋ぱんだ氏や彼の友人たちが卒業を控えているということで、卒業記念帖をまとめてみようと提案したものである。せっかくなら、今年卒業しない人たちにも募集してみようと言うことで声を掛けさせて頂いた。これから卒業する人達はあまりいないだろうから、すでに遠く昔卒業してしまった人たちの出稿が期待される。
概して俳句を始めるのは、昔は学生時代が多かったようであるが、最近は社会人になってから始めることが多い。ということは、圧倒的多数の俳人がリアルタイムの卒業俳句を作ったことがないことになる(昔は、強制的に卒業文集が作らされ、一人必ず1編は書かなければいけないという制約の下に、圧倒的多数の卒業生が簡単な俳句を選んでいた。筆者もその一人であるが、およそそれが現在の俳句につながる志に役立ったという気持ちはない)。

昔の卒業を思い出しながら俳句を書くということは、一種の「卒業想望」俳句と言うことになるわけで、戦前の三橋敏雄や西東三鬼らの「戦火想望」俳句以来の「想望」俳句と言うことになるわけである。新しい俳句ができるかもしれないと大いに期待している。

     *

さて卒業帖の準備で竹岡一郎氏と話をしているとこんなことを聞かれた(氏の話は、公になっている部分だけを見ても恐ろしく刺激的であるが、公になっていない部分はもっと危険である)。自分に、卒業帖の用意があるが、卒業帖はやはりめでたいもの、エールを送るような内容でなければいけないか、できているのは卒業式というものが如何に陰惨であるかを詠った句ばかりで、自分は学校というものをそういう風にしかとらえられないのでとてもめでたい句は詠めない(校内暴力 の時代で、教師へのお礼参りや暴走族の暴走に代表される卒業式だった)。今の人たちから見ればむごたらしく暴力的なというだけだが、そういう句を出すのはふさわしくないという事であれば、卒業帖は遠慮する、というものだった。

歳旦帖も春興帖も題詠句集であるので、卒業句帖も卒業さえ読んでおけば支障はないと考えた。卒業したからと言ってもおめでたいわけでもないからである。虚子にもこんな句がある。


酒井野梅其児の手にかゝりて横死するを悼む 
弥陀の手に親子諸共(もろとも)返り花    ( 大正13年)

身内の殺人は明治にも大正にもざらにあるのであり、ことさらめずらしいことではない。こうしたものを詠むのが俳句だろうと思っている。極楽の文学は地獄の文学に他ならない。ただそれにしては、虚子の句はやや甘いなと思う。


仰げば尊し

卒業に因んで。現代の卒業式で評判の悪い「仰げば尊し」は実はアメリカの歌だったことが最近判明した(一橋大学教授桜井雅人)。題名は「Song for the Close of School」――確かに卒業歌だ。今もアメリカの大学の卒業式で歌われているようだ。もちろん歌詞は日本のと大分違うが、フェルマータが特徴的で、「仰げば尊し」であることは間違いない。

日本では卒業式ではもはや歌われないが、むしろ台湾では歌われていると聞く。それが何とアメリカの歌とは!

常に問題となっているのは次の章節だ。

2.
互に睦し 日ごろの恩
別るる後にも やよ 忘るな
身を立て 名をあげ やよ 励めよ
今こそ 別れめ いざさらば

立身出世とは何事かと言うことらしい。
第2節、第3節は英語ではこうなっている。

And friends we've known in childhood's days May live but in the past,
But in the realms of light and love May we all meet at last.

光と愛の神の国での再会を約しているのだから、キリスト教の影響の強い欧米と、儒教の影響の強い日本との国情をよく表している。どちらもどちらである。

しかし最近になってから、この歌こそ俳壇の現状をよくあらわしていることに気付いた。およそ、広い世間の中で恥ずかしげもなく「師」と呼べる人がいるのは俳壇ぐらいだ。だから結社に入ることを、師事という。師に事(つか)うるの意味だ(かつて俳句雑誌の編集長から、若手が略歴で、池田澄子に私淑と書いてきたのを見て激怒していた。私淑とは、直接師事しないで、ひそかに(私かに)尊敬し思いを寄せる(淑)ことを言うはずだ。しょっちゅう池田澄子にあってタメグチを聞いているのに私淑とは何か!というのである。)。俳句の師は、一文字でも師でもある。選句、添削、俳人協会への推薦、句集の斡旋、選と序跋書きをしてくれる先生は師でなくてなんであろう。師のない俳人は、俳人と云えないかもしれない。


1.
仰げば 尊し 我が師の恩
教の庭にも はや幾年
思えば いと疾し この年月
今こそ 別れめ いざさらば

2.互に睦し 日ごろの恩
別るる後にも やよ 忘るな
身を立て 名をあげ やよ 励めよ
今こそ 別れめ いざさらば


2番が特にいい。「互に睦し」とは結社融和をいう、「日ごろの恩」とは結社内の先輩・後輩の恩である。「別るる後にも」とは、結社からの独立(主宰誌創刊)をいう。決してもめてはならない。「身を立て」とは、結社内で同人・編集長・同人会長・副主宰、さらに継承して主宰・名誉主宰となることを言う。「名をあげ」は結社賞・協会賞・角川俳句賞・読売文学賞・蛇笏賞・芸術院賞・ノーベル賞等の受賞、俳人協会・文芸家協会・芸術院会員への加入、紫綬褒章・文化功労者を受けることを言う。これらは決して悪いことではない。どんな立身出世をしても<やよ 励めよ>終身精進したいものだ。俳句の会では<分かれ目>にあたって、「仰げば尊し」2番を高らかに歌いたいものだ。

2016年4月22日金曜日

【エッセイ】 角川「俳句」5月号人物大特集<飯田蛇笏>に寄せて ―虚子は戦後の蛇笏をどう読んだのか―  筑紫磐井

【はじめに】

角川「俳句」の5月号は<飯田蛇笏>特集となっている。蛇笏賞創設50年特集の一環として企画されたもので、今回の特集でも様々に蛇笏は論じられることと思うが、私もここに一つの資料を提供したい。それは、虚子が蛇笏の戦後作品をどう読んでいたかを明らかにする生の資料である。このような時期に多少はタイムリーな資料ではないかと思うのである。

背景を言えば、実は、私は本井英主宰の「夏潮」の別冊「虚子研究」に参加するうち、虚子が戦後ホトトギスの若手と座談した「研究座談会」(昭和29年~34年)の中でホトトギス系以外の多くの作家を論評していることに気付いた。無責任な放談のようにも見えなくはないが、それでも部分部分に虚子の考え方は結構はっきり表れているし、特に1句1句を論評する過程では虚子の俳句観が現れない筈はない。これを、「虚子による戦後俳句史」として連載し、4S、人間探究派、新興俳句、社会性俳句作家(残念ながら戦後俳句の一つのピークの「前衛俳句」は虚子の没後誕生したものである)の作品評を眺めてきた。ここでは、そこから漏れている(虚子は大正俳句作家を余り相手にしていない)蛇笏を虚子はどう読んだかを読み解いてみようと思ったのである。

言っておくが、虚子はホトトギス以外の作家の作品の論評をしたことはほとんどない。したとすれば、それはホトトギスから離脱した作家がホトトギスに在籍していたときのものであり、ホトトギスから去っていってからの作品の論評はない。それは、そうした時間がないということもあろうが、主義主張の異なる者の作品を論評しても、余り生産的な意味がないと考えていたようである(事実この座談会でもそういう言い訳をしばしばしている)。しかし、ホトトギスの若手に引きずられて、この座談会に出て雑談をしているうちに(最初は明治の俳壇や花鳥諷詠の話などであった)、手はじめに、楸邨、波郷の作品を読む会が始まることとなり、余儀なく、ホトトギス以外の作家の多くの作品を読む会が始まったのである。

こうした意味で、虚子によるホトトギス以外の作家の論評は、生涯にわたって極めて珍しいものと言わねばならない。虚子による現代俳句論評である。特に今回の座談会からいくばくもなく、虚子はなくなっている。その意味では最晩年の虚子の考え方もよく現れている。虚子の門葉はよろしくこれを読んでから、俳壇の批評をすべきであると私は思う。ホトトギス以外の俳句を拒絶してはならないのである。それは虚子の道に背くことになる。また、意外に、そこに「われらの俳句」を見つけ得ることもあるのである。

ただし、この資料自身には問題がある。①蛇笏が一世を風靡した大正・昭和戦前期の作品ではなく、戦後作品を対象としていること、②「研究座談会(第60回)」の席上での片言隻句であること(星野立子、清崎敏郎、深見けん二など座談会の他のメンバーの発言は省略するか、虚子の発言の理解のために不可欠なものだけ要旨を示してみることとしたからである)、③選んだ句は虚子が選んだのではなく弟子たち(清崎敏郎が中心であったらしい)が選んだ句であること、等があげられる。しかしそれをそれとして読めば、虚子の蛇笏批判がどこにあるのかは分かる筈だ。それこそ虚子の生まの口吻が感じられる。

 さて、まず蛇笏俳句に対する肯定的評価、次に否定的評価を眺めてみよう。参加者は、高浜虚子、清崎敏郎、深見けん二、藤松遊子である。「玉藻」昭和33年4月号に掲載、虚子がなくなる1年前である。


【肯定的評価】


遠ければ鶯遠きだけ澄む深山 蛇笏
○かういふ感じはある。遠方で鳴いてゐる鶯の声は澄んで聞える。これは作者が実際感じたことであらう。

○(敏郎:句としてどうですか)さうですね。『遠ければ遠きだけ』は理窟だが感じもある。平明な句ではないが、感じはいゝ。

くろがねの秋の風鈴鳴りにけり
○まづいゝ。
をりとりてはらりとおもきすすきかな

○これはいゝ。心持が素直に出てゐる。

年古く棲む冬山の巌も知己
○この句はいゝではありませんか。よく分る。


【否定的評価】


時のかなた昇天すもの日のはじめ 蛇笏 
雪山をめぐらす国土日のはじめ 
あらがねの地を力とす日のはじめ

○(けん二:非常に抽象的で却って力が弱くなるように感じる)敍法が不賛成だ。
○昔から蛇笏一流の雄勁ならんとする句はあつた。でも分らぬ句ではなかつた。
○作者は信ずる処があるのであらうが、我々には分らない。

ことごとく虫絶ゆ山野霑へり
○(けん二:「霑へり」というのは普通用いる感じですか)キンテン(均霑)といふ言葉はあるでせう。
○私等が句を作る場合は斯うは云はない。なるべく平明な文字を使ふ。かういふ風には云はない。
○山野に虫の音が絶えてしまつたと平たくいふ方が、適切に感じますがね。
○平つたく叙すると平凡だと云ふ人もあるでせうが、我々はさうは思はない。
○言葉を正しく整へるべきだ。
○『虫絶ゆ山野』より『虫の音絶えし』と云つた方がいゝではないですか。

 ことごとく虫の音絶えし山野かな
で、作者の云ひ表はさうといふ処は分ると思ひますね。


残暑なほ胡桃鬱たる杢の家
○もう少し穏やかに云へないものか。けれども作者の表はさんとしてゐる処はわかるが。

雪解けぬ跫音どこへ出向くにも
○『何処へでも』といふのは……。
○敍法が一寸不明瞭だ。雪解を歩いてゆく音だとも取れるが。

田を截つて大地真冬の鮮らしき
○これは畦を切つたのではないですか。
○(遊子:「田を截る」がよく分からない)まあその方面のことに我等無知識で分りません。

白昼の畝間くらみて穂だつ麦
○『穂だつ』は。
○(けん二:「白昼の畝間」がリアリスティックに来ない)かういふことは、我々より作者の方が知つてゐる。言葉は平明ではない。
○(けん二:単純化が足りないのか)さうも云へます。俳句を難しく考へ、難しく敍すると云ふことは私等と違つてゐるのかもしれん。


世の不安冬ふむ音のマンホール
○『ふむ音のマンホール』は面白い。『冬』は季語として止むを得ず持つて来たのでせうがまづい。もつと適当な季語を詮議すべきだ。『世の不安』の世はいらないでせう。
○(けん二:もっと単純化した方がよいわけだ)さうですね。穏かにする方法がありさうなものですね。
○本筋からそれたやうな句が多いと思ひます。悪くいふと気取つてゐますね。

【おわりに】

今回の批評対象は蛇笏の第8句集『家郷の霧』から選ばれた句だという。従って、途中で出てくる、世評の高い「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」「をりとりてはらりとおもきすすきかな」は回想の中で取り上げられた戦前の句であり評価は余り詳細に行われていない。これらの句は異存がないようだが、戦後の句については、総じて、蛇笏は詰屈な感じが強く、決して高い評価とはいえない。同時期の、秋桜子やその一門、草城、あるいは不思議なことに蛇笏の子である龍太などに対する評価に比較すると劣るようである。ここに掲げた作家の作品を、しばしば「我らの俳句に近い」と呼んでいるのに対し、蛇笏の句は遠いのである。なおこの句集中の傑作といわれている「炎天を槍のごとくに涼気すぐ」については何ら触れていない。強いて評価するに当たらなかったものか(この回の選句は藤川遊子が当たっているようである)。

いずれにしろ、虚子が単に花鳥諷詠や、有季定型にこだわっていたものではなく、自由で平明な表現にその進むべき道を考えていたためであると考えられる。蛇笏と対比してみると、少しく我々が考える虚子像とは違うものが浮かび上がってくるようである。

なお興味があれば、9月頃刊行する「虚子研究Ⅵ」をご覧頂きたい。






2016年3月18日金曜日

【川名大論争】 アーカイブversion1   ①筑紫磐井「問題ある表現史」(ウエップ刊『戦後俳句の探求』より転載) ②筑紫磐井「八月の記憶」(「俳句新空間」第4号より転載)



(「ウエップ」82号「江戸の仇を長崎で打ちそこなった男――子供騙しの詐術を止めない筑紫磐井――」、「未定」99号「筑紫磐井の執筆モラルを糺す――嘘で固めた誹謗と論理のすり替え――」につづき再び「未定」100号「悲しい生き方――書けば書くほど捏造を撒き散らす」で川名大が筑紫批判を書いている。これで最終回だと言うが、確認してみたがほとんど従来と同じ文言の繰り返しのようであり、新しい批判も少ないので私も改めて反論は書かない。代わりに関心を持つ人(坂口昌弘氏等が文献の所在を聞いてきたりした)や後世のために、過去の川名問題を取り上げた基礎的な文書をアーカイブで掲載しておくことにする。これで川名ー筑紫論争の私の立場は十分理解できると思う。なにぶん分量が多いので、取りあえず、前段(社会性)に関する部分を先ず掲載することとする。後段(従軍俳句)に関するものについては必要があれば改めて追加することとしたい。)

【目次】
①「問題ある表現史」(ウエップ刊『戦後俳句の探求』より転載)
②「八月の記憶」(「俳句新空間」第4号より転載)


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①「問題ある表現史」(ウエップ刊『戦後俳句の探求』より転載)   筑紫磐井
社会性俳句に対する非難

 さてここで蛇足を加えておきたい。堀切の「表現史」と似た「表現史」で批評を行っている人物に川名大がいるが、私がいままで連載で執筆してきた金子兜太論と重なる時代についても発言をしている。ここではその中でも、社会性俳句に関する指摘を取り上げてみよう。

 「両者(社会性俳句と、いわゆる「社会性俳句」)を峻別して、いわゆる「社会性俳句」の負性は「戦後の民主的、左翼的思潮のパラダイムに乗って、予定調和の左翼的観念を優先させた類型的な実現形式に陥ったことだ」と指摘しておいた。そして、そこに陥った鋳型のサンプルとして、 
  白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘へ 
  原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ 

などを列挙しておいた。今日も、こういう句を良しとする追随者が跡をたたないので、再度指摘しておく。」
 
(「現代俳句史」85 「俳句四季」連載)

 括弧のつかない〈社会性俳句〉と〈いわゆる「社会性俳句」〉との違いは必ずしも明確ではなく、社会性俳句としての表現の欠如、具体的に言えば重層表現としての詩的メタファーのないことを結果的に言っているようである。またここで指摘のある「追随者」とは、この句を高く評価した小川軽舟の他に、おそらく私などのことも言っているのだろう。

 私はこう思う。おそらくこれほど、明るい風景の中で革命のオプティミズムの響きを高らかに歌い上げた社会性俳句は少ないであろう。太穂のこの句に、川名は類型だとか取合わせの鋳型(後述)だという批判をするが、俳句自身「定型の鋳型」に嵌められているのだからそんなことでは批判にはならない。多くの社会性俳句が苦々しくネガティブであったのに対し、全く違ったいきいきとした色彩感覚があふれている。例えば、新興俳句・前衛俳句で好まれた白ではあっても、ここで詠まれているのは健全で、希望にあふれているまぶしいばかりの白である。「白蓮・白シャツ」「彼我・ひるがえり」の頭韻は日本語の伝統を踏まえていきいきとしたリズムを生み出しており、血の気の失せた難解俳句と違う大衆性・民衆性を保証している。だから戦後の社会性俳句というものは、この一句を生んだことによって十分、報われていると言わねばならないだろう。

 もう一つの兜太の句は、太穂の句ほどは熟成していないが、かといって川名にこれほど罵られるほどひどい句ではない。問題があるとすれば、兜太がその実践理論として主張した主体的傾向というよりは象徴的傾向に近い点であるかもしれない。しかし、だからといって戦後俳句史からこの句が消え去った方がいいなどとは毛頭思わないのである。

 川名自身はどのような論拠でこんなことを言っているのだろうか。別の回では同じ句に次のように言う。

 「肝心の実作は戦時下の聖戦俳句の皇国イデオロギーの合言葉を左翼イデオロギーの合言葉に替えたにすぎないことを怪しまなかった。即ち、先験的に左翼的観念を先立て、その合言葉としての既成の主題語句(基底部)と従属語句(干渉部)を取り合わせる。それがいわゆる「社会性俳句」の鋳型だった。読み手の意識から言えば、能記(シニフィアン)と所記(シニフィエ)の合一による詩的感動を享受する前に、早々と所記(シニフィエ)による作意ばかりを意識させられてしまう。 
  原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ 
  白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘へ 

 両句は代表的なその鋳型。(傍線部は合言葉としての基底部)。」(同前66)

 何を言っているのだろう。先の文章もそうだが、皇国イデオロギー、左翼イデオロギー、合言葉等のおどろおどろしい押しつけ。必要もないカント哲学の「先験的」、ソシュール『一般言語学講義』の「シニフィアン」や「シニフィエ」、川本皓嗣『日本詩歌の伝統』の「基底部」「干渉部」などがちりばめられ、太穂や兜太の断罪のために動員されている。少なくとも、私の知る川本さんの概念は俳句を文学の観点から理解しようとするための謙虚な仮説なのであって、このような断罪の手法に使われるとは思ってもいないに違いない。

 もちろん、川名同様、兜太も誓子や草田男を批判しているが、川名に比べればはるかに論理的で、批判が批判として成り立っている。批判される側の立場にも斟酌し、その結論は決して不愉快となることはない。すべての論点が挙がっているから、不十分な批判とはならないからである。一つの例を造型俳句論から見てみよう。

 「誓子の代表作であり、構成法の花形として提出した、ピストル(ピストルがプールの硬き面(ルビ・も)にひびき)や、枯園(枯園に向ひて硬きカラア嵌む)、夏の河(夏の河赤き鉄鎖のはし浸る)の句にしても、確かに構成のメカニックなこと、斬新な視角といった、手法上の見事さはありますが、その奥に拭いきれない空白な心意を感じます。これはニヒルな情緒だといえばそうともいえ、そのニヒルなものは、意力のきびしい投入から結果される一種のクライマックスの気分であって、これはいかにも現代人の心情ではないか、といえば、そうともいえますが、反面からいえば、心意の空白に基づく白痴美の姿だともいえましょう。何か、そうした否定的な批評を招来するような、本質性を欠いた――むしろ欠くことによって得られた――ニヒルなムードが漂っているということができる作品だといえると思います。」(「造型俳句六章」②)

 素晴らしい文章ではないか。なるほど論旨には異存があるかもしれないが、その周到な気配りに対して、批判された誓子も決して嫌な気分にはならなかったと思う。批判とはかくありたいと思う。

 私も批評をこととする者としていえば、太穂や兜太のこれらの句を否定するような批評が戦後の俳句評論の結実だとしたら、私も含めて全員を地獄に堕としてしまいたい気がする。こんなことに荷担したくない。批評など実は何ほどの力もないのだ。批評に、太穂や兜太の句を裁く権利があると考えること自体が大間違いなのだ。批評より俳句の方が遙かに何層倍も力強いのである。

 その意味では、堀切や兜太の表現論については、俳句全体を見わたした「表現史」という言葉(冒頭述べたようにあまりこの言葉は好きでない、諷詠も立派な俳句であるからである)は一応使えるだろうが、川名のような主張は「新興俳句表現史」として自己完結はするだろうが、虚子の花鳥諷詠、人間探究派俳句、社会性俳句などを公平な目で通覧した「俳句史」を論ずるには適切ではない。

批評は如何にあるべきか

 川名のような批評が生まれる理由を川名の批評文から構造分析してみよう。川名は「海程」で「戦後俳句の検証」という連載をしている中で社会性俳句の批判を展開している(⑥~⑦)。この短い文章の中で上述した川名の特色が遺憾なく現れている。私は川名の文章を分析して、批評の中に次のような文言が溢れていることを発見し驚愕する。

【否定的形容】

散文と韻文の特性に盲目のまま・現代俳句の表現の高みに盲目・最初から破綻した蛮勇・当初から決着が着いていた・論理的欺瞞・隠蔽工作・論理的破綻を繕った・限定的な言説・偏狭な限定・ドグマ・屋上屋を架すつけたり・意図的とも思えるような論調・俳句論としては破綻・当初から決着済み・世迷い言・肉化されず・具体的な成果は不十分・蛮勇作品群・ヒロイックな言挙げに誑かされた・社会的素材や意味イデオロギーに囚われた散文的作品に陥った・社会性俳句の負の遺産・鑑賞力が何よりも欠如・詩的完成に甘い・自己矛盾・自縄自縛・負のサンプル・最大の負性・予定調和の作為が露出・負性の後遺症・技法のレベル・表現史に盲いている・持論の変奏にすぎない・放恣な散文的表現・全く機能しなかった・「第二芸術」を反転させた発想言説・俳壇の退廃現象の埋もれた衆愚俳人たち・手前味噌の総括・放恣に流れ・大仰で放恣な表現ポーズに誑かされた・表現の負性を許容・予定調和の思考観念の表現・仕掛けられた表現意図にまんまと嵌って予定調和になっていることに盲目・表現レベルでの検証が疎か・先験的に是認・後押しする予定調和の符牒・表現方法や表現レベルの検証が不十分 等々

【肯定的形容】

俳句の構造や表現の独自の特質に言及した本質論・盲目を突いた俳句論としての正論・俳句表現の固有性からの正当な反論・文学的な正論・俳句の構造や表現の独自の特質に言及した優れた論考・重層表現による韻文としての完成度・完成度を評価軸とする鑑賞力・俳句固有の構造的な力やそこから発せられる言葉の象徴的な力・文学論として正面から向き合った正論・実証的論理的にその概念やドグマから解き放った画期的論考・詩性によって普遍的な世界を表現・俳句の本質的な構造論が特に画期的・時代を浮上させた重層的表現・社会性俳句の負性を突いた・表現レベルで詩的結晶が具現された 等々

 読者も驚くだろう、論理の前に評価が先立っているのである。この評価を受け入れない限り、川名の論理は開示されない。そしてこの形容が着くのは、特定の人物に限られる。否定的形容であれば桑原武夫、草田男、兜太、坪内稔典、仁平勝であり、肯定的形容が着くのは、重信、高屋窓秋、赤黄男である。極めて党派的な評価が行われている。もちろん、重信、窓秋、赤黄男が党派的だとは言うつもりは全くない、川名の評価が党派的だというだけである。

 私はこれらの修辞を排除してみたが、その結果、残部から出てくる論理は極めて貧困であるような気がしてならなかった。少なくとも兜太が誓子を批判した、たゆとうような巧緻な論理はついに発見できなかったのである。

 こうして贅言のない論理に立ち返ったとき、川名の述べる文学の価値が何かよく分からないが、少なくとも、社会性俳句を批評した部分で出てくる基準としては、〈符牒的比喩・寓意表現を否定し、重層的表現としてのメタファー(暗喩)を採用する〉ということのようである。しかし、俳句とはそれだけの単純なものではないだろう。符牒的比喩や寓意表現だとていいではないか。俳句という形式の秘密は、実は我々には永遠に分からない、だからささやかな仮説を組み立てつつ、一歩一歩真実に近づき得た満足を感じる、しかしそれはまた新しい考えによって否定され修正され克服されてゆく、そうした宿命にあると考えたい。少なくともそれくらい謙虚であるべきだ。

 おそらく川名の最大の問題は、「表現史」の名前にこだわったあまり(本来、花鳥諷詠や雑俳までをふくめ、定型詩という)俳句の本質に「盲いている」ことではないか。ボードレールやマラルメの詩法(暗喩)を導入したところでそれは輸入にすぎない。明治時代にチェンバレンが欧米の文法を直輸入して日本最初の文法書を書いたが、結局それは日本語の本質に「盲いた」ものであり、山田孝雄・橋本進吉・時枝誠記の深い洞察を待たなければ日本語文法は完成しなかった。堀切が、ことさら芭蕉の表現に現代俳句の由来を探る――川名に倣えば「蛮勇を奮おうとする」――ことに我々が危惧しながらもなお共感するのは、こうした過去の過ちを知っているからなのである。

 改めて言えば、俳句はある理論に適っているから価値があるというのではなく、俳句一句一句を率直に眺めることによってある瞬間、我々の価値観が転換し、今までの自分の俳句理論を撤回しなければならない事態に立ち至ることさえある、そうした危うさをもつからこそ俳句評論の信頼性、健全性があるのだろうと思っている。

 私が堀切・兜太の歴史探究の方法を科学的方法論として一応是とするが(結論を是としている訳ではない)、前述のような川名の方法は疑問とする理由である。川名の批判に対して、殆どの伝統俳人が論争の面倒さを厭うて反論しないが、それではそれがそのまま言説として肯定されたことにもなりかねないので、あえて憎まれ役をかって私が批判してみた。

  筑紫磐井『戦後俳句の探求』推薦文
              金子兜太
戦後俳句の全貌を
表現論を梃に
見事に整理してくれた
のが、この本。
著者は、初めての本格詩論
『定型詩学の原理』で
注目を集めた、
俳壇を代表する評論家。
料理の腕前は冴えている。             


②「八月の記憶」――従軍俳句の真実(「俳句新空間」第4号より転載)  筑紫磐井

一.川名からの電話

「豈」第57号の筑紫の記事「発行人よりお詫び」「従軍俳句の真実」に関して川名大とやり取りがあったので報告する。予め「豈」を読んで頂くと分り易い。

元々は、川名がしばしば筑紫に対して行った社会性俳句に関する批判があった。これに対して筑紫が「ウエップ」80号でまとめて批判し、さらにこれに対する川名の「ウエップ」82号における反論「江戸の仇を長崎で打ちそこなった男――子供騙しの詐術を止めない筑紫磐井――」が掲載された。「お詫び」の記事は、それが当初予定された「豈」ではなく「ウエップ」に掲載された経緯と、関係者へのお詫びを述べたものである。またこれとは別に、「従軍俳句の真実」では川名の記事に不備があることを指摘したものである。「豈」刊行後次のような電話があった。

【川名から1回目の電話(平成27年5月2日朝9時)】

(1)謝辞

川名大:もう来ないと思っていたが「豈」をありがとう。「発行人よりお詫び」を読んだ。筑紫と、以前は良好な関係だったのに、最近こんな関係になるのは残念だ。

(2)筑紫からの批判に対する応酬

川名大:「ウエップ」(80号)の筑紫記事のような、自分の発言を文脈から一部だけを切り離し部分を取り上げるのは心外だ。自分は、重信が正しい、兜太が間違っているという予断で兜太や太穂を批判してはいない。

筑紫:研究手法の違いであろう。私は構造分析によって見えないものを見せる手法をとっている。以前川名から高く評価してもらった『飯田龍太の彼方へ』も龍太の俳句の文末構造をキーワードに構造分析した手法である。この手法を川名が書いた「俳句四季」等の社会性俳句批判に関する記事に適用しただけである。「一部を抜き出して」というが、実はそのページを複写して細かく発言ごとに切り刻み、①単なる引用、②川名の肯定発言、③否定発言とすべてリストアップして分析したものであり、恣意的に抜き出しているわけではない。この手法が文学の研究法として適当かどうかは議論の余地があるが、この手法をとる限り出てくる結論である。執筆者がどのような心理であったかを論じているものではない。

川名大:やはりあの時代文脈で見ると兜太の「原爆許すまじ」は不適切だ、そのかわり「わが湖あり」を自分は誉めている。

筑紫:「ウエップ」(85号)の『戦後俳句の探求』の特集で、今の若い世代に論じてもらった時に、「白蓮白シャツ」は決して低い評価ではなかった。時代文脈で見る必要がないのというのは私も彼らと同感である。

(3)「豈」に載らなかった経緯顛末

川名大
:反論を「ウエップ」で書くより筑紫のいる「豈」で書いた方がいいと思って大井にお願いした。ただすでに最新号は編集が走り、次号で特集にしその中で書かせるといわれたが、論争は旬があり、それまで待てないので「ウエップ」に頼むことにした。

筑紫:大井が私に連絡しなかったということか。

川名大:大井にいった。二股をかけたわけではない。

筑紫:川名からの要請があったから、「豈」の特集号を立てることにし、堀切氏を初め何人かにすでに依頼をしてしまった。今回の「お詫び」は川名批判ではなく、依頼してしまった人に対する本当のお詫びである。

(4)『戦後俳句の探求』の請求

川名大
:自分のことを書いた本なのだから『戦後俳句の探求』を送ってくれてもいいではないか。(筑紫注:実はまだ『戦後俳句の探求』を送っていない)

筑紫:ゲラの段階では読まなかったが、豈の「お詫び」を書いた後「ウエップ」が届いて川名の筑紫批判論文をちらっと見たら、編集者がいうように本当に論末で「(このような)人物[筑紫]と共に俳句を語ろうとは思わない」と書いてあったから、共に俳句を語ろうと思わない人物に本を送ってもしょうがないと思った。これを撤回して、共に俳句を語ろうと思うならお送りする。

川名大:勉強したいと思う。

(5)「豈」での執筆の要求

川名大
:川名に二度と「豈」で書かせないと書いてあったが、そういわないでまた書かせてほしい。
筑紫:(無回答)

(6)現代俳句協会『昭和俳句作品年表』解説の誤り

川名大
:豈のもう一つの記事「従軍俳句の真実」で指摘された自分の『昭和俳句作品年表』解説記事は間違っていたかも知れない、新興俳句以外の戦争俳句が少なかったかどうかを実は確認していなかった。あれはすでに作品年表ができあがっていたのでそれを見て書いたのでその範囲でしか書いていない。

筑紫:私も自分の論が完璧だといっているわけではない。ただ阿部誠文氏がこのことに関連しては立派な仕事をしており、こうした仕事が抹殺されたり無視されることに対しては不満である。

川名大:阿部氏が調査で朝鮮に行った話は知っている。

[(後日追補)阿部氏より朝鮮に行ったことはない旨のご連絡を頂いた]


【川名から2回目の電話(同朝9時30分)】

川名大:先ほどいったようなわけであるから、次の編集後記で川名が二股をかけたのは間違いであったと書いてほしい。自分は雑誌がないので訂正する手段がないから。

筑紫:経緯をよく聞き大井と相談してみる。

【川名から3回目の電話(同午後5時)】

家人:主人は歯医者に出かけています。

【川名から4回目の電話(同午後7時)】

川名大:従軍俳句の記録を確認していなかったから、戦前の「俳句研究」の二つの特集(「支那事変三〇〇〇句」・「支那事変新三〇〇〇句」)を読んでみて、確かに一回目の特集は従軍俳句と銃後俳句の割合は50%と50%、二回目はさらに従軍俳句の割合が高かったから筑紫の言うようなことも一応言えそうだが、しかし俳人で従軍した割合は内地に残った俳人に比べて少ないはずだから自分の記述は間違っているわけでもないのではないか。特に当時の「俳句研究」はことさら戦地の作品を多く取り上げようとしたと想像される。戦争俳句に詳しい人に聞いて見たら同様の感想を述べていた。

筑紫:それは飽くまで想像だろう。俳句研究の特集のデータを元に、川名がいうような修正を必要とするのはなぜかを定量的にいってもらえれば納得する。そんな状況証拠や想像だけで誤っているというのはおかしい。

川名大:いや、そういう考え方があるということに対するあなたの考え方を聞きたい。

筑紫:私が絶対正しいといっているのではなくて、そちらが銃後俳句が多いといったから定量的におかしいと言っただけだ。異議があるのならこんな電話をしてこないで、それこそ私は現代俳句協会の著作に問題ありと指摘したわけだから、「現代俳句」誌上で批判すればいいではないか。そうなればそこでの論争には応じたい。「支那事変俳句」の範囲をどう設定したかは、それを選び出した山本健吉に聞かねば分らない。現在あるのは六〇〇〇句のデータベースだけである。そこから議論はスタートすべきだ。川名がいうように国内に従軍俳人より多い数の俳人がいたことは間違いないだろうが、しかし国内にいた圧倒的多数の俳人は「花鳥諷詠俳句」を詠んでおり「支那事変俳句」を詠んでいないのではないか。一方従軍俳人は相当多数が身近な従軍俳句を詠んだ可能性がある。そうでないというなら、戦争期間中のホトトギスの全作品を分析すべきだ。

川名大:データを示さなければ納得しないのか。

筑紫:さきほどの記事へのクレームならまだしも、こんな論争を電話ですべきではない。もしそれが現代俳句協会の公式見解というなら、私から協会に抗議する。

川名大:いやこれは私ともう一人の相談した人の見解で個人的なものである。お話はこれから勉強してみたい。

 川名とのこんなやり取り【注1】の後で考え方をまとめてみた。

①「発行人よりお詫び」は川名の文章を批判するためのものではない。もちろんウエップに掲載された記事で見ても、「子供騙しの詐術を止めない筑紫磐井」と題を設け、「筑紫磐井・・・が書くものについて、私はかなり以前から信用しなくなった」「(このような)人物[筑紫]と共に俳句を語ろうとは思わない」などは、まさに川名が言う名誉毀損そのものだろう。しかし、問題は別にある。

②川名が筑紫と論争すると宣言した以上川名は自らその場を用意すべきだ。それをよりによって非難中傷する当の相手の筑紫の雑誌に掲載してくれと申し入れるのは、非常識である。これこそ俳壇始まって以来の珍事と思う。

③川名は理由として、「反論を「ウエップ」で書くより筑紫のいる「豈」で書いた方がいいと思って大井にお願いした」というがこんな軽いノリで済むような問題ではない。言っておくがこの「反論」とは、「子供騙しの詐術を止めない筑紫磐井」・「筑紫磐井・・・が書くものについて、私はかなり以前から信用しなくなった」・「[筑紫]と共に俳句を語ろうとは思わない」の罵詈だったのである!善意の編集人もさすがに後から呆れていた。これを論争といわない。

④一番の疑問はこのような重大な案件をなぜ論争相手であり発行責任者の筑紫に言ってこなかったのかである。筑紫と論争すると宣言した場面で顔を合わせていたのだからいくらでも言う機会があったはずである。コソコソと、旧知の編集人に言う話ではあるまい。事後から了承したが、掲載時期の条件等はつけざるを得なかった。

⑤その後の撤回も、当方からすれば掲載したくもない頼まれた反論原稿を、(よしんば時期が気に入らなかったにせよ)掲載撤回をするのなら川名から筑紫に説明があるべきである。編集方針を狂わせたからである。重ねて言うが、これは非常識な原稿持ち込みの依頼なのである。「豈」は、寄稿された原稿はそのまま載せる。このような記事が載ることを許容する雑誌は「豈」以外考えられない。

⑥最後に、そもそも、原稿を「豈」に載せると聞いた時、川名は「豈」や私に感謝したのだろうか、是非聞いてみたい。当然だと思っていたのではないか、だからいつでもキャンセルできると考えたのではないか。残念ながら(前述の電話のやりとりでも分かるように)未だ一度もそうした感謝や陳謝を私は川名から聞いていない。

二.「未定」掲載記事と従軍俳句

川名は、1回目の電話はウエップに回した理由を言い訳し、更に豈に書きたいと言い、2回目の電話で自分は雑誌がないので訂正する手段がないから編集後記で訂正してほしいといって来た。だから私は「俳句新空間」で存分に書いていいと川名に申し入れたのである。やがて烈火のように怒った断り状が来た。何を怒っているのか解らなかったが、それから一週間ほどして「未定」が届いた。「未定」で書く場所が確保できたかららしい。

「未定」99号で川名大は「筑紫磐井の執筆モラルを糺す――嘘で固めた誹謗と論理のすり替え――」というウエップの記事と同様仰々しい大時代的なタイトルで同じような非難をしている。ここでは、「従軍俳句の真実」で『昭和俳句作品年表』解説記事を批判したことに対する反駁が新しいと言えば新しいので紹介する。

①解説記事で川名は「時系列で眺めて気づくことは、前線俳句は銃後俳句(戦火想望俳句を含む)に比べて数が少ないこと。」と書いていているが、「未定」の反論ではやけに「時系列で眺めて気づくことは」に重要な意味があったように言っている。しかし「時系列で眺めて」言えることは、50%から、大幅に増加することである【注2】。時系列に見ようが何であろうが、従軍俳句が銃後俳句より数が少なかったことは一度もないのである。

②川名は「私は一次資料の原典〈支那事変三千句〉〈支那事変新三千句〉から・・・まで制作(発表)年の特定できたものを合わせて40句程収録した。筑紫が引用した諸句等を通覧したことは言うまでもない。」と言っている。しかし電話では、解説記事は間違っていたかも知れない、従軍俳句の記録を確認していなかった、作品年表ができあがっていたのでその範囲でしか書いていないといっている。どうも読んでいなかったらしい(作品年表に上がった従軍俳句の数は少ない)。どちらが嘘なのだろう。

③ひるがえって、最初の電話で誤りを認めていながら、第4回目、なぜあのような電話をしてきたか趣旨が私には解らなかった。今思うと、これは最初の電話で誤りを認めたことに対する悔恨の八つ当りではないか。最初の電話の陳謝は流石に評論家らしい態度だと思った。しかし、その後この文章を読んでそうした念は急速に凋んでしまった。過ちを認めた最初の電話を何とか隠蔽したい気持ちが見えているからである。

   *     *

 私がこの件にこだわるのは、川名に代表される戦中俳句に関する一種の思いこみが、善意であれ悪意であれ、戦争の本質を見えなくしているように思うからである。戦後70年という特別な節目を迎えたが、我々は思いこみを超えて、より真実に近い実体を発掘することが必要なのだ。川名らが見過ごして来た歴史の中で、実はこんな従軍俳句が数々あったのである。何もこれが文学的に優れた作品だというのではない。こんな衝撃的な句が今まで紹介もされずに来たことがショックなのだ(もし、川名が万が一〈支那事変三千句〉等をすべて見ていたのなら、これらをことさら除外したことになる。これこそ私には怖ろしい表現史に思えるのだ。)。

夏草や逃げ隠れしを捕虜にする 竹魚 
戦死者も焼け下萌も焼かれけり 松寿 
執念くも屍の顔に来る虻か   純火 
炎天や死体かかへてすはりゐる 純火 
人間の骨の白さのすずしかり  柿太 
   無想、敵弾は戦友の額より後頭部に貫通
脳みそは一片もなく天灼けたり 利巳 
手袋はかなし失ひたる指ありぬ 多行 
眼帯をとれば眼がなし毛布落つ 定祥

「豈」の記事を読んで急遽私に執筆依頼をしてきた朝日新聞の記事で、この点について協会の著書に問題があることも示唆した(6月1日付「うたを読む 従軍俳句の真実」)。これに対して協会から抗議は来ていない。協会としては、戦中戦前についてはさまざまな議論があることなので正々堂々と議論をしてほしいということではなかろうか、協会が川名の歴史解釈に凝り固まっているわけではないと思われる、まさに正しい態度だと思う。余計なことだが、私は川名に、協会が川名の発言のようなことを公式に認めているなら協会に抗議するといったところ、川名は、これは自分の個人的見解である、これから勉強してみたいと言って慌てて電話を切っている。
 提案だが、川名にこれ以上反論があるのなら「現代俳句」など公の場で堂々と議論してほしい。協会で支援されないような川名の主張なら私も回答しない。協会の著作に問題を指摘した私にはこう言う権利があると思う。

     *      *

と、ここまでいっても、私は川名を批判するつもりはない。なぜなら第一回目の電話はある意味立派であった。お互い意見は言い合い、一方、間違いは間違いで認めていたからである。だからこそ川名に弁明なり論争の場を与えたく思ったのである。しかし実は、奇怪な第四回目の電話、またその後来た手紙の背後には川名の裏にいて操っている一人の人物が浮び出して見えたのである(「戦争俳句に詳しい人に聞いて見たら同様の感想を述べていた」「これは私ともう一人の相談した人の見解で個人的なものである」と言っている)。巧みに隠れて姿を見せず、安全なところにいて川名に指示している人物である。戦前の新興俳句に詳しい川名より年配の人物であるらしい。私は何よりもこうした人物をこそ批判したい。決して川名批判が本意なのではない。
 暑苦しい夏に、暑苦しい記事となってしまったが、今年は戦後70年の特殊な年だ。戦争に対する態度を表明する以前に、(左右どちらであれ)イデオロギー的な思いこみから見えなくなっていた本当の戦争とは何であったかを、埋もれた資料から知ることがより大事であると思う。「未定」の記事で川名が言う「結論は実証的、統計的に慎重に導き出されねばならない」はもちろん賛成だ。ただこの言葉は私が先に電話で川名に提案している言葉なのである。

【注1】電話のやり取りはおおよそこんなことであった。当然激しながらしゃべっているので逐語的に正確ではないかもしれないが、直後に大井に報告するためにその都度記録したので大筋ややりとりは間違っていない。

【注2】〈支那事変三千句〉では50%、〈支那事変新三千句〉に到っては66%が従軍俳句である。ついでに言えば、昭和17年以降の〈大東亜戦争俳句集〉〈続大東亜戦争俳句集〉では従軍俳句は100%となっている。